東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)

 EN サイトマップ
© 2014-2025 一般社団法人HAPS

投稿者: haps



橋本聡

・「経済原理」見出し

・「経済原理」端書き

・「経済原理」パンフレット的に(「荒野」)

「経済原理」見出し
(HAPS『ニューパトロン、ニューアーティスト』へ寄せて、2018)

 

・「通貨 vs 仮想通貨」 vs アブストラクト通貨

・アブストラクトオーディエンス

・ニューパトロン
鑑賞や参加、また助成や支援との決別としての「ニューパトロン」

・アナリスト、アナーキスト、アーティスト、アラブ、アブストラクト、アクト

・暮らし
1:あなたの住処にアーティストの住処が暮す
2:アーティストの住処にあなたの住処が暮す
3:2の発展としてのコミューン
4:住処なき活動、ホームレスとしての活動に暮す
5:4の発展としてのストリートないし、アンダーグラウンド

・売買と盗みの先
店では商品が陳列され、客が商品を購入します。時に、商品は盗まれます。その商品の陳列の展開の先に展覧会があります。そして売買と盗みの展開の先として展覧会はあります。

・ショップ
そこから折り返された、新たな店が経営されます。

・飲食店の経営
なぜ、魚を食べても魚に近づかず、植物を食べても植物に近づかないのでしょう。言葉が時折、精神に大きな浸透と変容をもたらすように、飲食において、そのような浸透と変容をもたらす飲食店の経営。口から言葉が発っせられるとは逆に、言葉を口へ落とし込むような飲食です。飲食は殺しを伴うので、その言葉は殺しを巡って語ります。

・地球や太陽の支配
人々の活動は太陽や地球に支配されています。体温も目も太陽光に屈し、振舞いは地球の重力に縛られ、時間は地球の自転に宿命付けられます。NASAなどの宇宙事業の目的の一端はこの支配からの脱出です。宇宙事業ないし科学がフィジカルな力によって逃れようとするのに対し、たとえば「アート」は不服従によって逃れます。それは暴力/非暴力のような対比です。ですが、非暴力にも、不服従にもフィジカルは伴います。

・ペンキ屋の経営
白いペンキを持つ手を広げる欲求は雪が、黒いペンキの欲求は夜が、赤いペンキの欲求は夕日や流血が、幾ばくか紛らわしてくれます。ですので、このペンキ屋は塗料ではなく、夕日、流血、雪、夜を扱います。

・デモと地下鉄
デモをおこないます。でも、それは何かを変えるため以上に、デモ自体の中に。地下鉄に乗ります。それは何処かへ移動するため以上に、その中に。そして、デモの帰りに地下鉄に乗ります。

・ホームレス

・私達なしの世界、ではなく、世界なしの私達 
私達は世界から弾かれるでも、世界へ参与するのでもなく、私達から世界をなくします。

・欺瞞、詐欺

・死、暗殺
「生と死」といった設定は便宜的なものとしてあります。便宜をなくせば、誰も生まれたことはありません。誰もが元々死んでいます。ここでの暗殺とはフィジカルなものではなく、その「生と死」の便宜に対してのものです。

・あたらしいお休み
ニューアーティストは、労働や生活、社会的活動全般の裏、たとえば「お休み」を探求します。それは休息、睡眠、死などとは異なる「お休み」です。仕事を脱ぎ、活動を脱ぎ、生活を脱ぎ、生死を脱ぎ、お休みしましょう。
 
 

「経済原理」端書き
(HAPS『ニューパトロン、ニューアーティスト』へ寄せて、2018)

 
 
たとえば、あなたが手に持つそのスマフォは誰のものでしょう。 スマフォを誰かに貸すとき、手に握る者と、手放した者のどちらの方が所有してると言えるのか。路上で眺めていたスマフォが奪い去られたとき、それは誰のものになるのでしょう。紙幣は所有歴が記されることなく、人々を渡り歩きますが、スマフォには、多くのあなたの情報が記され、あなたとそのスマフォの結びつきを証拠づけようとします。だからと言って、なぜそれはあなたのものなのでしょうか。

お金を渡せば食料も衣服も土地も所有することができ、賃金を払えば労働力を購入することができると。ではお金以外ではどのようにして所有者になることができるのでしょうか。食料なら栽培するか、狩りをするか、人工物なら自ら作るかでしょうか。しかしその材料や土地は既に誰かのものとなるでしょうし、法的所有者がいないとしても何かから奪わざるをえません。その肉や果実はどのような経緯で手に渡り、その土地はどのような経緯で占拠されるのか。暴力によってか、権力または権利によってか、貨幣によってか、贈与によってか。店で食料を奪い、胃に入れる。それは誰のものなのでしょうか。

いま立っているその場は、法的所有者でも政府でもなく、金銭を介してなり不法なりであっても、その時そこに居るものが占拠しています。ものも、場も、所有は既定的ではありません。あるいは所有というのは方便であり、流動的な占拠しかないとも言えるでしょう。

場(建築物)が行為を可能にするのではなく、行為がその都度、場をつくりだします。場は不動ではなく漂流します。楔を深く打ち込み、コンクリやら制度によって四方を囲い込むようなものは、空間を監禁し腐らせる、でっち上げの場と言えるでしょう。それは防腐剤やポリスにまみれています。

あなたがもし、住居を所有するならば、それは誰かから奪ったものではないでしょうか。鞄の中だけでなく、あなたが色々と衣服をまとい隠すものは何でしょう。あなたがもし、眼でも口でも足でも、2つ持つならば、あるいはひとつでも持つならば、それは誰かから奪ったものではないでしょうか。あなたがもしも「あなた」として既定的であるならば、楔を深く打ち込み、四方を囲い込むようなでっち上げのあなた(場)としてあるのではないでしょうか。
 
 

「経済原理」パンフレット的に(「荒野」)
(HAPS『ニューパトロン、ニューアーティスト』へ寄せて、2018)

 
 
・作品

たとえば、売買や所有の対象ではなく貨幣に対するオルタナティブとして、ここでの「作品」はあります。 しかしながら、円の代わりにドルやユーロ、あるいはビットコインを求め、投資の対象として株や不動産を求める、こういった延長で作品を扱うのでは、そのパフォーマンスは現れません。生産、分配、交換、投資、労働、搾取、売買、貯蓄、消費、散財、詐欺、非営利、助成、寄付 … などとは異なる経済の在り方として、あるいは経済の解体として、ここでの作品はあります。

・アーティスト

アーティストとはなにか。アーティストという言葉は都合のよい方便や幻想としてあります。しかしながら、その言葉やカテゴライズの方便さに向き合うことがひとつの傾向と言えるかもしれません。その方便さのそれなりの歳月においてアートは拡張を繰返し、アーティストの神話化もアートの神話化も弱められ、昨今、たとえば公共性や社会性と強くコミットメントするものが隆盛しています。大きいアートから小さいアートへの移行において、小さきアートを抱えつつ、公共性や社会性が大きく代替するような状況です。しかしながら、ここでの在り様は、小さいアートを抱えるのではなく「アートなしのアーティスト」としてあります。それはアーティストとアートの癒着を断ち、さらに公共性や社会性、生活、世界との癒着も断ちます。それは逃避でも脱構築でもありません。政治、公共性、社会全般、生活、世界、それらが悪しきにしろ良きにしろに関わらず、それらを批判し、解体する在り方と言えるかもしれません。探求されるのは、新しい建築物よりも、解体によって現れる荒野です。

・消費者、鑑賞者、参加者、パトロン

アーティストが世界各地に滞在し、制作をするアーティスト・イン・レジデンスは20世紀後半において充実しました。ここでは反対にアーティスト(の棲まい、活動)自体に人々が滞在するプログラムとして「レジデンス・イン・アーティスト」という言葉を掲げ推進します。アーティストは非営利活動をします。ですので経済的に困窮する者が多数です。そこで求められるのは、あなたの経済がアーティストの経済を支援するのではなく、あなたの経済がアーティストの経済に蝕まれ、ときに共に破綻することです。それはポストパブリックとしての新しいアンダーグラウンドの設計です。そこではアーティストだけでなく、消費者、鑑賞者、参加者、パトロンなどといった類いもが破綻します。

・パブリック、アンダーグラウンド、プライベート

個人(プライベート )の活動がアンダーグラウンド、オルタナティブへ展開し、それらが公共性へと押し上げられるのが20世紀における大きなストリームでありました。押し上げられ、拡張を繰り返し、パブリックの領域には膨大なものが抱え込まれています。ここで推進されるべきは一層の拡張へと向かうベクトルではなく、反対ないし新たなベクトルとして、パブリックの領域からアンダーグラウンドへ、プライベートへと引き下げること、奪い返すことです。

プライベート → アンダーグラウンド、オルタナティブ → パブリック // → ニューアンダーグラウンド → ニュープライベート

社会や公共性へ向けられる既存のベクトルとしての「発表」と対比し、ここでのベクトルの在り方を『発裏』と呼びます。一極集中のベクトルから、拡散のベクトルへ。パブリックないし「表」といったある種の全体主義への切断、解体として『発裏』はあります。
 
 

橋本聡(はしもと さとし)

1977年生まれ。主な発表に「行けない、来てください」(ARCUS, 茨城, 2010)、「偽名」(「14の夕べ」東京国立近代美術館, 東京, 2012)、「私はレオナルド・ダ・ヴィンチでした。魂を売ります。天国を売ります。」(青山目黒, 東京, 2013)、「国家、骰子、指示、」(Daiwa Foundation, ロンドン, 2014)、「MOTアニュアル キセイノセイキ」(東京都現代美術館, 2016)、「全てと他」(LISTE, バーゼル, 2016)、「Fw: 国外(日本 – マレーシア)」(国際空港, 飛行機, マレーシアなど, 2016)、「世界三大丸いもの:太陽、月、目」(青山目黒, 2017)、「Night - Time = Darkness」(Hans & Fritz Contemporary, バルセロナ, 2018)など。ほか、An Art User Conference、基礎芸術|Contemporary Art Think-tankなどのグループでの活動を行っている。

関連記事


これからの芸術に、クリエイティブな循環を生むお金の仕組みを「Theatre E9 Kyoto」の目指す第三の道

2018年11月22日
インタビュー・構成:島貫泰介
写真:麥生田兵吾
場所協力:FACTORY KAFE 工船

これは主に現代アートに関する、表現者と支援者の関係を考えるインタビューシリーズだが、今回は領域をちょっと超えて、演劇・ダンスといった舞台芸術に目を向けてみよう。
京都市東九条に来年夏にオープンするTheatre E9 Kyotoは、助成金などの公的な資金援助に頼らず、クラウドファンディングなどを活用したスタートを目指している劇場だ。2017年7月から9月にかけて行われた最初のファンディングでは、1400万円の目標値に対して1900万円を超える支援が寄せられ、当時のアート関連のファンディングで最高額を達成したことでも話題になった。
同劇場の運営に関わる蔭山陽太は、これまでにも日本全国の民間劇場・公共劇場に関わった経験を持つ人物だが、Theatre E9 Kyotoをめぐる環境の変化に、舞台芸術の新しい可能性を見出していると語る。
表現において、アーティストの制作にかかわる経済活動は重要だが、その発表や価値形成に関わる美術館や劇場も、欠かすことのできない存在だ。劇場運営という視点から、ニューパトロン、ニューアーティストを考える。

創造発信型の劇場は可能だったか?


——現在、蔭山さんは東九条の新しい劇場、Theatre E9 Kyoto(以下、E9)のオープンに向けて活動してらっしゃいます。それ以前は、ロームシアター京都の支配人兼エグゼクティブディレクター、そして横浜のKAAT神奈川芸術劇場の支配人などを務めた経歴をお持ちです。舞台芸術における劇場の役割、またその継続性について、経済面からお話いただければと思っています。
 
蔭山:私が舞台芸術の仕事に関わるようになったのは90年代の中頃。20代半ばで俳優座劇場に勤めたのが最初です。助成金のような公的支援が整備されはじめるのは90年代後半からで、それ以前は劇団ごとに自ら資金を集めるか、バブル期であれば企業からの文化支援に頼るというのが一般的でした。

——企業メセナと呼ばれるものですね。

蔭山:そうですね。それがバブル崩壊と共に失速し、数年の間を置いて公的な支援の動きが大きくなっていたということだと思います。それと歩みを同じくするようにして言われるようになったのが、公共劇場の新たな役割についてです。段階的に議論され、変化していきましたが、大きく言えば「社会の活力と創造的な発展をつくりだす実演芸術の創造、公演、普及を促進する拠点を整備」する、いわゆる「創造発信型の劇場」であることが公共劇場に求められるようになったわけです。民間の俳優座劇場、劇団「文学座」を経て、新たに務めた「まつもと市民芸術館」も創造発信型を目指す劇場で、芸術監督に俳優・演出家・串田和美さんがいて、稽古場、舞台美術を製作する「たたき場」も館内に備え、人も設備も整った劇場でした。芸術監督による劇場プロデュース公演や、故・十八代目中村勘三郎さんの協力で実現した「信州・まつもと大歌舞伎」のように、松本発信の本格的な自主事業も実施することができました。その後のKAATも年間を通していくつもの新作を制作する場として機能していますし、京都会館からリニューアルしたロームシアター京都も、設備や事業予算の制約はあるものの新作制作に力を入れています。
 しかしながら、全国で本格的な創造発信型の劇場がどの程度成立できているかといえば、全国に2000館くらいあると言われる公共劇場のなかで約10館程度。わずか0.5%です。そしてこの割合はこの20年間でほとんど変わっていない。創造発信型は、ヨーロッパの文化政策を参考に構想したものですが、国が舞台芸術を含めたアートを積極的に支援する仕組みになっているかといえば実現できていないし、私自身は「この先もならない」と考えています。
  

——たしかに、現在の日本の状況を考えると頷けます。

蔭山:あるいはアメリカのように民間の資金がアートに流れてくるような税制の仕組みも、よほどのことがない限り変わらないでしょう。我々舞台関係者が文化庁に陳情に行くだけでは変わらない。でも、一抹の希望もみんな抱いている。しかしそろそろ認めないといけない。現実として20年間何も変わらず、これが幻想だったと総括すべきではないか。僕はそう思います。
 

——つまり全面的に公的資金に頼る創造環境型の劇場という構想が不可能であったと。

蔭山:はい。そして第三の道を探っていかなければいけない。こうしている間にもアーティストはクリエイションを続けているし、これからも続けていきますから、それに対してこの現実を放置しておくのはアート・マネジメントという仕事の怠慢でしょう。
 

「パブリック」はどこにある?

蔭山:E9はその第三の道を模索して活動していますが、じつはそのためにつくろうとしたわけではありません。参加するきっかけは、約2年前にあごうさとしさんとやなぎみわさんから、アトリエ劇研(以下、劇研)の閉館について相談を受けたこと。さらにそれに前後して京都にある5つの小劇場も閉鎖するという話を聞いて、すぐに「僕にやれることは何でもやります」と答えちゃったんです(笑)。
 というのも、若い頃に劇研の前身であるアートスペース無門館(以下、無門館)に毎月のように舞台公演を観に行っていたからです。当時の同館プロデューサーだった遠藤寿美子さんから京都の演劇シーンの面白さを聞いて、ダムタイプや松田正隆さん、鈴江俊郎さん、マキノノゾミさん、土田英生さんたちの優れた作品に触れることができた。彼らの多くを東京の俳優座劇場に呼んだり、文学座で新作を書き下ろしてもらったりもしていて、無門館、京都の小劇場には大きな恩があったんです。ロームシアター京都の立ち上げに加わったのも、コンパクトシティである京都のなかで大空間の同館が一種のハブになり、民間の小劇場や芸術系の大学、劇団が補完的につながる立体的なシーンを想像したからなんです。ところがいちばん最初の発信の場所であり、チャレンジのための場でもある小劇場が一気になくなっては、ロームシアター京都の存在価値の根本も揺らいでしまう。シーンをなくさないということがE9を立ち上げる第一の理由でした。
  

——たしかに、無門館や劇研からスタートした劇団は世代を超えて多くいますから、そのインフラがなくなってしまうのは関西のシーンにとって大きな打撃です。

蔭山:劇研のあった土地は一等地ですから、それを相続するには莫大な費用がかかる。ですから新しいブラックボックス型の客席数が100人規模の劇場をつくるための物件を探すことから始める必要がありました。そんなときに、舞台監督・照明家で知られるRYUの關秀哉さんと、狂言師の茂山あきらさんも同じように新しいスペースを探していることを知ったんです。關さんは小劇場やアングラのシーンにずっと関わってきたエンジニアですし、茂山さんは現状の伝統芸能の状況に危機感を持ち、かつ無門館で上演したこともある人で、2人とも若い世代のチャレンジの場所が失われることを危惧していました。そこであごうさん、やなぎさんを含めた全員が合流して、2017年1月にアーツシード京都という法人を立ち上げ、本格的にE9の構想が動き始めました。
 

——その後、東九条の物件を見つけ、クラウドファンディングなどで資金を集めて今に至るわけですね。ただ改修費や認可を得るために大変なご苦労があったと聞いています。

蔭山:本当に大変でした(苦笑)。いまは2回目のクラウドファンディングを行っている最中で約70%程度(※11月22日現在)の支援が集まっていますから、みなさんの最後のプッシュを待っています!(締切は12月20日)
 E9のような劇場を建てるにあたって、国や行政からの金銭的な支援があると考える人も多いかもしれないのですが、そうでありません。日本において劇場というのはパブリックな公共の財・施設とは考えられてないからです。劇場設置法のような法律もなく、劇場はあくまで単なる建物でしかない。つまり私有財産でしかなく、そこに公的資金を使う仕組み自体が存在しないんですよ。
 

——人が集まって交流し、ときに議論を交わすという劇場の社会的機能を考えると、信じがたいです。

蔭山:残念ながら、現実はそうなんです。私自身、これまで民間・公共の劇場で働いてきて、公的機関から作品制作のための資金を得るために、職員は書類を書いたり報告書を書いたり、ものすごい労力をかけてきましたがどんなに努力してもお金が増えるわけではなく、むしろ続けるほどに減っていくのが現実です。だからE9では、当初から民間からお金を集めることを考えていました。
 日本において「公共」という言葉からまっさきに浮かぶのは、「公(おおやけ)」が税金を使って行う事業ということです。公共事業がまさにそうですね。しかし、公共=publicの第一の意味は「市民の」とか「大衆の」であって、公共劇場も本来はそうであるべきなんです。僕の知る限り、完全に民間の、しかも大勢の個人・組織の出資でできる劇場は、E9が戦後二番目です。そして、その最初の例が俳優座劇場です。戦前にあった築地小劇場(注1)が空襲などで焼失し、舞台芸術専用の劇場を再建しようということで、劇団俳優座の千田是也さんが提唱し、当時の演劇関係者、文化・芸術関係者、政治家とかいろんな人がお金を出しあって劇団とは別の株式会社としてつくったのが俳優座劇場で、最初から個人のものではなく「みんな」の劇場として始まったわけです。千田さんは戦前にドイツに留学していますから、現在もヨーロッパで続いている公共劇場のシステムを日本にもつくろうとしたのでしょうね。
 

——現在でも、ドイツを中心とするヨーロッパ型の劇場のあり方を一種の理想として議論が交わされるなかで、1954年に俳優座が自前の拠点を持ったことを考えると、その先見性に驚きます。

蔭山:その後、紀伊国屋ホールや本多劇場といった民間劇場ができますが、多くは個人や一企業が出資してつくることが多いですから、俳優座劇場の特殊性がわかると思います。そういった前例を参照しながら、E9では2ヶ月に1度くらいの頻度でシンポジウムやトークを行い、「民間劇場における公共性」というテーマで議論を積み重ね、オープンに向けての実際的な工程を進めています。そこで焦点になるのは、先ほども述べた第三の道の模索です。
 この20年間、この国の舞台芸術界におけるアート・マネジメントの多くは公共劇場でいかにして公的資金を得るか、あるいはそこに働きかけるかという資金獲得が一つの大きなポイントでした。そして集客においては、集客できるキャスティングをする俳優主義……つまり、集客を見込める人気俳優をなるべく集めることを重視してきました。ですが、集客力のある俳優のギャラは当然高い。でも集客できなければ公的な支援をもらえませんから、人気俳優を外すわけにはいけない。そうやってどんどん制作費が膨らんでビッグプロジェクトばかり連発しなければ立ちいかない悪循環が出来上がってしまった。民間はどこも同じ考え方で、特に首都圏ではひとつの助成金のパイを奪い合うような状態になってしまった。
 

——すごく景気のよい時代の話に聞こえるのですが、その状態のマックスはいつ頃ですか?

蔭山:今もそうです。このシステムを止めると死んじゃうというか(苦笑)。90年代後半くらいまでは、キャスティングによって集客が左右されるだけだったので、逆に作品の内容までコントロールする必要がなく、実験的な内容にも挑戦できました。僕が京都の劇作家とたくさん仕事ができたのもその流れがあったからで、いかに才能ある作家を発見し、新作を書いてもらうかというのがプロデューサーたちの競争の姿だったわけです。この時代的な傾向と、新国立劇場や世田谷パブリックシアターがオープンし、創造発信型の劇場の必要がさかんに叫ばれるようになった時期はほとんど一致しています。
 また、キャスティングが公演の最重要の要素になってくると、早くから俳優のスケジュールを押さえる必要が生じます。そのときに、まだ戯曲もできていない新作に人気俳優が出演するのは所属するプロダクションにとってもリスクが大きい。そこでニューヨークやロンドンで賞を獲っただとか、海外で話題になった作品の日本での上演権を買い付けて、それを上演する、あるいはシェイクスピアの『ハムレット』のような既存の名作を上演するというのが、一つの安心材料になる。そうなってくると、今度は若い劇作家に新作を書いてもらうという90年代後半からの潮流も減退してくる。つまり劇作家にとっては、冬の時代が訪れたわけです。
 

——俳優、脚本が固定化していって、次に召喚されたのが、日本式の「演出家の時代」ということでしょうか?

蔭山:現在のシーンの状況を、そう解釈することもできるでしょうね。もちろん、将来に対する投資という意味でも、意欲的な新作を続けている劇場もあります。ただ、今言ったようなメソッドを活用したとしても思うような集客が得られなくなった現状においては、それがいつまで続けられるかというと、結局個人の思いの強さに依存する以外ないと思います。

Theatre E9 Kyotoが目指すもの

蔭山:あらためてE9に話しを戻すと、E9が目指すのはそういった場所ではありません。たかだか100席のブラックボックスの劇場で商業的な成果を上げることは難しい。利用料金やチケット代を高くすることもできないですからね。でも逆に言えば、最初からたくさんのお客さんを入れなければというプレッシャーもないので、「興味のあるお客さんが来てくれればいい」ってくらいの、チャレンジもできるのではないかと(笑)。
 劇研や京都の小劇場がなくなろうとしたときに感じた危惧……いろんな才能が生まれてくるための最初の場が失われることに対して、E9はその最初の受け皿にならなければなりません。劇場というのは発表の場所だけではなく、クリエイションの場所、創造の場でもあると私は思っています。
 これこそが本来の姿だと確信しているのは、アメリカもヨーロッパも、あるいは韓国もそのシステムを採用しているからです。劇場で新作をつくるときに重要なのは、最初にかかったイニシャルコストをいかに回収するかで、そのためには一本の作品で長く公演を続け、減価償却し、その後は収支をプラスに持っていく。そのためには同じ劇場で作品を見せ続けるのが合理的ですから、稽古もクリエイションも同じ空間で行うべきでしょう。このシステムは日本の劇場ではほぼ皆無です。創造発信型が実現できている劇場は全体の0.5%と言いましたが、稽古場も持っている劇場となるとさらに少なくなります。
 今言った事例は、予算が潤沢な大規模の劇場を想定していますが、このモデルを視野に入れて活動と試行を続けるのがE9の課題の一つだと思っています。
 

——舞台芸術をめぐる環境の変化という意味でも、E9は実験の場になるかもしれませんね。

蔭山:期せずして、第三の道を見つけるための入り口になったというか(笑)。E9では、基本的に一週間単位での使用を推奨しています。一般的な劇場では、公演を行うカンパニーがレンタル費を抑えるために上演日の直前に借りて、徹夜でヘロヘロになった状態で本番を迎えることが多い。それでは作品のクオリティは上がらない。音楽の演奏会などは別として、ダンスや演劇公演についてはせめて1週間単位で借りて、自分たちの作品にとって重要な最後のクリエイションに劇場を使おうという意欲的なアーティストにE9を使ってほしいと思っています。少し独善的な物言いに聞こえるかもしれませんが、E9に関わる作品が全部面白くならなければ、劇場運営のよい螺旋は描けません。それが美しく描ければ、劇団ごとに確保しているファンだけでなく、E9という劇場のファンも動員につながってくるでしょう。劇場のファンであるお客さんが、そこを使うアーティストに対してペイする、つまり観劇することが支援とイコールになる。
 クリエイティブな循環を生むお金の仕組みがお客さんに可視化できるという意味で、E9のサイズは適していると思います。
 

——築地小劇場や俳優座劇場ができた時代と現代とでは、経済的にも文化的にも大きな変化があると思いますが、そこで生じる困難さを蔭山さんは感じていますか?

蔭山:もちろんあります。でも別の希望も感じています。1995年の阪神・淡路大震災、そして2011年の東日本大震災を経て、個々人が「自分ができることは何か?」ということについて、真剣に考える時代がやって来たと思うのですが、その変化を端的に示しているのがクラウドファンディングの成果です。街頭で寄付を訴えてもなかなかお金は集まらないけれど、インターネットやSNSが普及して、個人の思いをパブリックに対して手軽に向ける仕組みができあがりました。
 E9が最初に行ったクラウドファンディングで2000万円近い金額が集まったのは自分たちにとっても驚きで、劇場を必要とする人がこれだけ多くいたということと同時に、自分の思いを社会に反映させたいと考える個人がこんなにたくさんいるんだということに、いっそう驚かされました。そしてその事実の前にして、アーツシード京都のメンバー全員が本気で「(劇場建設から)もう逃げられないぞ」という気持ちにもなったんですが(笑)。
 

——あくまでスタートですからね。

蔭山:そうです。でも、劇場が国や行政にとってだけでなく、市民にとってもパブリックな存在であるということを示すことができたのが誇らしくもありました。
 

アート・マネジメントは変わらなければならない

蔭山:自分のキャリアを振り返ると、この20年は公的資金を上手に手に入れることが、すなわちアート・マネジメントであるという時代を生きてきたと感じます。実際、アート・マネジメント講座の多くは助成金書類の書き方から始まるのが、ここ10年の定番ですからね。国や行政の方に顔を向けて行うコミュニケーションに関していえば、私たち制作者は相当に熟練しています。でも、それと引き換えに、広い社会とのコミュニケーション能力をアート全体は失ってしまったのではないでしょうか。
 今の日本にはお金がないと言われます。でも本当はあるんですよ。例えば、多く矛盾や問題があるにせよ、カルロス・ゴーン一人に対して100億円も出す精神的な余裕が現にあった。でも、そういったお金の使い道として、芸術が選択肢に入ってこなかったことが課題だと思うんです。
 いまお金を持っている企業の意欲的な経営者って、じつは若い起業家をバックアップする意思をかなり持っています。それこそ100万円とか1000万円の単位ですが、それはすぐに見返りを期待する投資というよりももう少し長いスパンで考える資金援助に近い。10個のアイデアを支援して、そのなかの1個から何かが生まれる、イノベーションが起こればいいと考えているんです。これまでアートはこういった動向から距離を置いてきましたが、多くのチャレンジから新しい可能性を見出すという発想は、じつはアートに近い。アートそのものが持っている、業界や国境やイデオロギーを超えて、人の心を動かす可能性に期待している企業はとても多いんです。
 

——実際、IT関連の企業が芸術家支援を打ち出す例は増えていますね。

蔭山:そういった人々に対して、私たちが取るべき姿勢は「少額でもよいから寄付をお願いします」というスタンスではない気がします。例えば新しい才能やコミュニケーションのインキュベーション(孵化)の場である劇場の社会的価値を踏まえて企業と話せば、寄付という限定的な枠組みを飛び越えて、数百万、数千万円単位の支援・投資も出資側の視野に入ってくる。そうすることでアートの価値が上がり、話もちゃんと聞いてくれる。たとえ結果につながらなかったとしても、今まで共感を結ぶことのできなかった経営者や企業の担当者と、同じビジョンを分かち合うことができるかもしれない。それも、パブリックの一つの立ち上がり方だと思います。
 

——これまで前提としていたアート・マネジメントの概念が変化する時期を迎えているのかもしれません。

蔭山:まさにその通りです。変わり目になるべきだし、変わり目を迎えている現実に向き合わなければなりません。私たちは「欧米の文化環境は優れている。それに比べて日本はだめだ」と卑屈になってしまいがちです。でも、複数の国が国境で隣り合っているヨーロッパや、ある意味で小さな政府を実現しているアメリカと、日本は歴史的・地理的にそもそも成り立ちが違っています。国や地域の違いを大雑把にとらえるのではなく、各々の固有性を理解し、個別のコミュニケーションの方法、言語を探っていく。それが今日のアート・マネジメントなのではないでしょうか?

*注1 築地小劇場 
1924年(大正13年)に開設した日本初の新劇の常設劇場。平屋建てで、客席は400 – 500席。日本の新劇運動の拠点となった。


蔭山陽太(かげやま ようた) 
1964年、京都市生れ。大阪市立大学経済学部(中退)。在学中の86年から90年、札幌市内の日本料理店にて板前として働いた後90年〜96年「俳優座劇場」劇場部。96年〜2006年「文学座」演劇制作部、後に同企画事業部長。06年〜10年「まつもと市民芸術館」プロデューサー兼支配人。10年〜13年「KAAT 神奈川芸術劇場」支配人。13年〜18年「ロームシアター京都」支配人兼エグゼクティブディレクター。現在、「Theatre E9 Kyoto」を運営する一般社団法人アーツシード京都、理事。98年、文化庁在外研修員(ロンドン)。

関連記事


公益財団法人セゾン文化財団 理事長片山正夫インタビュー

2019年1月23日 公益財団法人セゾン文化財団 オフィスにて
インタビュー・構成:大堀久美子
写真:成田 舞

日本のアートシーンの変化を敏感に捉えながら、アーティストに対する生きた助成のあり方を模索し、実践し続けている公益財団法人セゾン文化財団。その立ち上げから事業に携わり、財団創設者の右腕として活動の基盤をつくった片山正夫さんは、民間が行う文化助成の生き字引のような存在だ。財団の歴史を振り返りながら、日本の文化助成が抱える問題点やアーティストの生き残りかた、来るべき東京オリンピックを前に考えていることなど、「助成という表現」に関する豊富な経験と未来への展望を聞いた。


——片山さんは大学卒業後、(株)西武百貨店の文化事業部からキャリアをスタートされています。学生時代から文化芸術に興味をお持ちだったのですか。


片山:音楽や美術には学生時代から関心を持っていましたし、何より映画が大好きでした。自分自身で制作する、というほどではありませんでしたが、当時はやりのロックなどには人並にハマり、今でもビートルズなど聴いていますよ。
それらの文化活動に関して、本業でないにも関わらず西武百貨店は面白い発信をしていた。どんな人が考えてのことなのかと様子を伺っていたところ、西武百貨店には堤清二という人がいて、他に類を見ないことをやっていると知り、是非その近くで仕事をしてみたいと思うようになりました。でも、一番入りたかったのは百貨店本体ではなく、リブロポートというグループの中にあった小さな出版社だったんです。編集者3,4人の小さな会社で、入社試験の際に希望を口にしたところ、「独立した会社ではあるけど百貨店の文化事業部門に属するバチカン市国のような部署だから、ひとまず百貨店に入らないと」と言われたのを覚えています(笑)

——詩集など、上質なアートブックを数多く出版していましたね。

片山:そうなんです。とはいえ、すぐに欠員が出るような部署ではなく、また私が入社した1981年頃は会社で次々に文化施設を造っている時期だった。そのため文化事業部に入った直後から、ミニシアターの草分け的なシネ・ヴィヴァン六本木(83~99年)や銀座セゾン劇場(87年開館。2000年にル テアトル銀座、07年にル テアトル銀座 by PARCOへの改称を経て運営後、13年に閉館)、東京以外でも、兵庫県尼崎市の複合商業施設内に併設したつかしんホール(85年~04年)や八ヶ岳高原音楽堂(88年~)などの立ち上げに、立て続けに関わることになったんです。個々の催事や事業というより、文化事業部では事業部全体の企画や開発に携わる仕事をしていました。

——入社当初から、幅広い事業を担当されたのですね。

片山:その後は、池袋コミュニティ・カレッジという、カルチャー教室の運営にも携わっていたんですよ。同期には、今は作家になっている保坂和志さんがいて、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリといった、「カルチャーセンターに誰が聞きに来るんだ?」という先鋭的な現代思想の講座を企画していた。彼が作家になった時、堤は「作家が出るような会社はツブれても不思議じゃない」と言って笑っていましたが、僕自身も自分の関心のあることがそのまま仕事になるという、幸福な時代に社会人生活をスタートしたと改めて思います。
 

——堤さんご自身が作家であり、詩人(辻井喬)でもいらした。その、アーティストの視点がベースにあるところが、セゾン文化財団の卓抜したところだと思います。片山さんは、87年の立ち上げから財団に関わっておられ、そこから今日に至るまでの経緯は、日本の文化助成の歩みとも重なるところも多い。その初動からお伺いできますでしょうか。

片山:財団を立ち上げた当初の目的は「芸術文化活動を支援する」というもので、対象とするジャンルも決まっていませんでした。演劇に的を絞ろうと言い出したのは堤で、「他人のやっていないことをやるべきだ」というのが信条の、堤らしい提案だな、と。当時、舞台芸術を専門に支援している財団は他になかった。美術分野の財団(セゾン現代美術館)をすでにやっていましたし、当財団の設立はちょうど、銀座セゾン劇場のオープンと同年。堤は劇場の準備にも直接携わっており、「劇場は数多くあり、どこも一見にぎわっているが現場の創作環境がいかに不十分かわかった」と言っていた。それも、演劇を中心とした舞台芸術に支援対象を絞った理由です。
劇場自体はビジネス、と言っても儲かりはしませんが(笑)、グループ企業で所有して運営するという形にしていた。ただ本格的な支援活動となると、企業として取り組むのはやはり難しく、そのため堤個人の資産で立ち上げたこの財団が担うことになりました。今でいうメセナの経験はある程度ありましたが、私自身、演劇や舞踊の世界についての専門的な知識がない。なのでとりあえず「何かお困りのことはありませんか?」というスタンスで、アーティストからの支援要請を募った。非常にザックリしたところから始まっています。

——今でも日本では、舞台芸術を対象にした支援や助成は決して多くありません。画期的な取り組みだと思います。

片山:企業メセナでの助成の対象は当時「一に音楽、二に美術」で、三、四はほとんどありませんでした。国立の東京藝術大学でも、演劇の授業はあっても学部はない。日本は明治政府が教育制度を決める段階で「芸術は音楽と美術」と決めてしまった感がある。それに支援先としては扱いづらいのも事実だったのでしょう。現代演劇は特に、日本に入ってきた当初から運動として反骨精神に富んだ人々が実践し、左翼思想とも近しい。オーケストラを支援するほうがどう考えても安全です(笑)。
 

——片山さんご自身も財団の仕事を介して演劇や舞踊を知り、アーティストとの交流を深めていかれたのですよね。

片山:ええ、助成財団の良いところは、アーティストが向こうから足を運び、話をしてくれるところ。何か困ったことがあるから、財団を訪ねてくれるわけです。初期のころは私も時間に余裕があり、1時間くらいアーティストと話し込むこともよくあった。その中で支援の少なさだけでなく、「稽古や創作の場所が足りない」「職業として成立していない」「勉強の機会に飢えている」「団体のマネジメントが大変だ」など、作品を観るだけではわからない、アーティストたちが抱える問題に気づくことができました。それらが後々の財団の活動、支援の方針の柱になっていったのです。
 

——アーティストたちの生の声、直面している悩みに対処しようとしたことからセゾン文化財団さんの、アーティストに寄り添った支援が始まったのですね。

片山:なるべく自由かつ柔軟な助成を、というのが当初から心がけていることです。ほとんどの助成金が個々の公演を対象にしていて、しかもそこには多くの制約が課せられている。「少ないけれど、この金額で公演の足しにして」という助成ばかりでは、クリエイティビティを育むことができません。助成を行うほうが上で、受ける人をなんとなく下に見るという空気にも抵抗がありました。相手はアーティスト、神に選ばれた人間なんですから、その才能に対するリスペクトは大事でしょう。
そういうリスペクトがないからすぐ「芸術は何の役に立つのか?」というような議論ばかりが行われ、観光だまちおこしだ、などと意味づけようとする。それは、そもそも芸術に対する信頼が前提にないからで、だから説明責任を果たすために「経済効果」や「数字」のみで芸術を評価しようとするのだと思います。
 

——財団の活動の根幹に、アーティストの保護というか“アーティストをアーティストとして存在させるための支援”という発想があるのですね。

片山:ええ、日本はアーティストのプライドが育ちにくいですね。社会全体がアーティストの存在や創作を価値あるものとして当たり前のように認めている欧米と、ダンスや演劇を趣味として扱いがちな日本では環境に差があり過ぎる。微力ながら財団での活動を通し、そういう日本の風潮にもアンチを唱えてきたつもりです。

——30年を越す財団の活動を振り返り、片山さんにとってトピックとなる出来事には、どんなことがありますか?

片山:立上げ当初は美術等も一部助成対象だったんですが、舞台芸術に特化したこと、コンテンポラリーダンスを助成の範疇に加えたことは大きな舵取りでした。91、2年頃だったので、当時はまだコンテンポラリーダンスのプレゼンスが日本にはなかったですね。
環境的な変化でいえば、財団を始めた頃には「小劇場すごろく」と呼ばれる、民間の小劇場から公演を始め、中・大劇場へと活動規模を大きくし、最終的には海外公演で一旗揚げるというような上昇の図式があった。けれど今は団体ごとに活動が多様化しており、東京にこだわらず、国内各地域や海外を活動拠点にする団体も増えました。我々の支援対象でいえば、京都から東京を飛び越し、いきなり海外と仕事を始めたダムタイプ(注1)が、まさにその先駆けですね。
 

——セゾン文化財団の、初回の助成対象者にダムタイプを選んでいるのは先見性がありますよね。

片山:ジャンルにこだわらず、「身体を使って表現する作品、集団」ならばみな助成の対象でいい、くらいの緩やかさを常に持っていたいと最初から考えています。うちは財団の理事や評議員の方々も非常に暖かく、理解のある方ばかり。「国がやらないことをやるべきだ」と、いつも背中を押してもらっているんです。そもそも立上げメンバーが堤と親しい、芸術に造詣の深い方々でしたから、「無理解な理事を説得して」などということは我々には皆無です。
最近で言えば、HAPSさんが活動している京都で、あごうさとしさんたちが中心になって新しい劇場を造ろうとしていらっしゃいますよね?
 

——Theatre E9 Kyotoですね。

片山:舞台芸術の環境創造に影響の大きい重要な案件と判断し、「創造環境イノベーション」というプログラムでの助成にし、この枠は通常100~150万円くらいの範囲での助成なのですが、劇場立ち上げにはさすがに少額すぎるので少し多めの金額を出しました。このように事案に応じた対応ができるのも民間財団の利点です。
また日本の場合、舞台芸術を担っている人たちを“助成によって”応援するスキームを、もう少ししっかり構築すべきだと思います。行政も企業メセナも、ある程度の予算を持つと自ら施設を造ったり、イベントを企画するなどして、すべて“自分の事業として”やってしまいがちです。そこには助成は自主事業に比べて受け身で、成果を見える化しにくいという側面があるからなのですが、やはりアーティストを支援するのに(助成は)有効な手段だということが、もっと認知されるべきでしょう。一から十まで何でも行政で出来る訳はないので、民間の力を活用しながら、中間支援を行う団体や人材の整備、充実を図らないと日本の芸術文化を巡る環境は改善されません。
 

——アーティストだけでなく、アートを巡る環境整備への支援も財団で検討していらっしゃる、と。

片山:支援の主軸はあくまでアーティストへの直接支援ですが、財団として「こういう支援の仕方はどうか」という提案や事例を作っていくことも大切だと思います。森下スタジオ(注2)を造ったのはまさにその発想で、そこには「不足している稽古場を提供する支援もありだよね」という提案を含めている。助成金など経済的なバックアップだけが支援の方法ではないのです。

——セゾン文化財団の「活動成果」と、片山さんが捉えていらっしゃることはありますか?

片山:大きく言えば日本の現代演劇、コンテンポラリーダンスの分野を少しは活性化できたと思いますし、素晴らしい才能の数々に場を提供できたと思っています。また、アーティストたちの活動や創作の国際化にも、多少なりとも貢献できたのではないでしょうか。もう一方で、さっきもお話ししたように創作の場所を提供する支援のあり方には、私たちが先鞭をつけたかな、と。アートマネジメントに関することも、周囲に先駆けて動き出せた。財団立ち上げ時には、その分野の職能が確立されておらず、創作や公演の裏方的なことを一切引き受ける雑用係的な扱いでしたが、本当はアーティストと対等の立場で活動を進めていくべき非常に専門性の高い仕事です。その基礎を学ぶ勉強会や、留学プログラムを実施したのもうちの財団が最初です。また、プログラムオフィサー(注3)を置いたのも、日本のアート界では初めてだったと思います。
結局、「今、こういうものが必要じゃないか」と声を上げ、資金を使ってそれを示し、世に問うていくのが財団の仕事。金利の低い昨今ですから、投資した金額の波及効果が大きくなるような創意工夫は欠かせませんが、「資金が足りないからできません」などと言うとあの世の堤に叱られますし(笑)、まだまだやりたいこともたくさんあります。
 

——逆に、助成を受けるアーティストたちに片山さんが期待することはどんなことでしょうか。

片山:自身やカンパニーに対するマネジメントの部分で、もう少しプロフェッショナルになってほしい、とは思います。ファンドレイジングに関してもプロとしての意識を持ってもらいたい。本当はアーティストには、そんなことを考えず自由に創作してほしいとも思いますが、海外での活動展開などを考えるにはやはりお金が必要ですし、公的な助成金を毎年あてにするだけの発想だと、それが潰えた時に活動の大きな支障となる。そういう時のための代案を考えておくくらいに、マネジメント・スキルを高めておいて損はありません。
もう一つ、公的な文化政策に対してアーティスト自身が影響を与えていくような活動にも、力を入れてほしいと思っているんです。福祉など他分野の団体は、既存の政策に働きかけて自分たちの活動にも社会にも有効な新たな政策を作っていこうという意欲が強くある。転じてアートの分野では、アーティストたちは連帯するのが得意ではないのかも知れませんが、現場の声をまとめて政策として実現する力が、まだまだ弱いと思うんです。声を上げても「陳情」でしかなく、それでは国には届かない。「こういうスキームでお金を出してくれたら、豊かな形でアートが進化できる」ということを、もっと具体的に示さなければいけないし、アーティスト自身からの提案は、僕らのそれとは違う迫力があるはずです。
 

——その提案が上手く結実すれば、一般的な助成の枠を超えた活動支援を受けられる可能性も出てくる、と。

片山:ええ。現状、政策を立案する立場にいる人たちは、アーティストの実態を知らず、霞を食って生きていると思っている節がある(笑)。でも他の職業人と同じくアーティストにも生活はあり、それを成立させるためにも表現や創作を職業化したり、そのための政策立案に働きかける必要がある。HAPSさんが手がけているのも、そういう仕事だと思いますが、声を上げ続けるしかありません。
 

——もう一つ、この時期だからこそ伺いたかったのが、2020年開催予定の東京オリンピック、パラリンピックと日本のアーティストやアートシーンの関わりについて。片山さんはオリンピックを文化芸術の環境を変える機会にできないか、という提言を以前からしていらっしゃいます。

片山:ええ、オリンピックのプレ事業に舞台芸術のアーティストたちも多く参加していますし、地域創生などの名目で臨時の予算がつけられたりもしていますから。
 

——ただ、予算のばらまきにしか見えないものや、東京を中心に場当たり的なイベントでしかないようなものが目につく感があると個人的には思っています。

片山:正直に言うと、この件に関しての希望を失いかけているのが今の私の心境です。もう開催まで1年と少ししかありませんし。たとえば一般家庭でも、臨時収入など一時的な収入があった時に贅沢をしたら、その場だけで終わってしまう。でも同じお金で今後長く使える物を買ったり、家を改修したりすれば生活レベルを上げ、長く快適に暮らすことができる。より良い未来への投資ですよね。前の東京オリンピックで言えば、東海道新幹線や首都高速道路を造ったことがそれにあたる。
新幹線や首都高はハードウェアですが、そういった投資をソフトで行うのも有効で、最もわかりやすい投資先は「人」、人材育成だと私は思います。舞台芸術を企画するプロデューサーやフェスティバル・ディレクターなどの人材は、お金を使って実際に仕事を経験してもらわなければ育てられない。若い、それらの仕事を志す人たちにとって、2020年までに実施されるであろうイベントなどの現場はチャンスに満ちていますが、それを育成に活かそうとする人が、行政にはあまりいないように感じるんです。メディアが盛んに使う「レガシー」という言葉、それが示す残すべき「遺産」は、この機会に育てた人や組織だと私は思います。でも今からそういった方向への発想の転換は、難しい気がする。今回は見逃し、でしょうか(苦笑)。
 

——非常に耳の痛い見解です。

片山:そういう特別な、一過性の変化に過度に期待するより、私たちの財団も関わってくださるアーティストたちも、これまで積み重ねてきた仕事をお互いに誠意を持って続け、次なる段階へ進めていくことが、今すべきことではないでしょうか。
アメリカの経営学者で企業戦略の専門家であるマイケル・ポーターが、財団の戦略について語ったなかに、「限られた財団の資金のインパクトを高めるための4段階」というものがあるんです。1段階目は「最も良い助成先を選ぶ」こと。次は「他のファウンダー(出資者)にシグナルを送る」こと。これは、「このアーティストいいよ」という情報発信ですね。3段階目は「助成先のパフォーマンスを改善する」こと。芸術助成の場合、創作に関してではなく、例えばファンドレイジングやマネジメントの改善をアシストして、さらにパワフルな活動ができるよう促す作業がこれにあたります。最終段階は「新しい政策に繋がるような活動を行う」こと。10年ほど前にこれらが書かれた著作を読んだのですが、セゾン文化財団でやっていたことにも当てはまり、自分たちの活動が間違っていなかったと心を強くしました。この指針からぶれずに仕事をしていこうと思います。
 

——専門家が掲げた財団の理想的な活動指針をめざして手にしたのではなく、活動の経緯で自然に獲得したところが、セゾン文化財団さんのすごいところです。

片山:我々は中期計画など作ったことがない。この先、どんなアーティストとの出会いがあるかなど分かるはずもないし、その時々でベストの判断をするほうがかえって有効な気がします。なりゆき、というと叱られそうですが(笑)。
 

——移り変わる状況に即し、出会った人や見出だした問題に応じる形で仕事のありようを変えていくセゾン文化財団の助成は、単なる事業ではなく、アーティストにとっての作品と同様の「表現」だと、お話を伺って思いました。アーティストのサポートを通じて発信していらっしゃることがアートシーンを変えていくのですから、非常に創造的な事業だと思います。

片山:最高の褒め言葉です。これからも時代に即した助成のあり方を、アーティストや中間支援の方々とともに考えていきたいと思っています。

※注1 ダムタイプ
1984年、故 古橋悌二をはじめとする京都市立芸術大学の学生を中心に結成されたアーティスト集団。作品はパフォーマンス、映像、音響、照明など複合的な要素で構成される
※注2 森下スタジオ
東京都江東区森下に94年に開館した稽古やワークショップに利用できる施設
※注3 プログラムオフィサー
助成プログラム等を実施する財団や機関において、企画立案やコーディネーションを行う


片山正夫(かたやままさお) 
1958年兵庫県生まれ。(株)西武百貨店文化事業部を経て、1989年(財)セゾン文化財団事務局長に就任。2003年より常務理事。2018年、理事長に就任、現在に至る。1994~95年、米国ジョンズホプキンス大学公共政策研究所シニアフェローとして、非営利組織のプログラム評価を研究。慶應義塾大学ほかでの非常勤講師のほか、(一財)非営利組織評価センター理事長、(公財)公益法人協会、(公財)助成財団センター理事、アーツカウンシル東京カウンシルボード委員、等を務める。著書に『セゾン文化財団の挑戦』等。

関連記事


トークイベント「KYOTO ART TABLE 残す、つなげる、作り出す」を開催ART TABLEトークイベント「KYOTO ART TABLE 残す、つなげる、作り出す」を開催

レポート 八坂百恵

HAPSではアーティストに仕事を依頼したい方とアーティストをマッチングする「芸術家×仕事コーディネート事業」が行われています。この事業の一環として、2021年12月に京都市南区にあるコワーキングスペース Collabo Earth E9(THEATRE E9 KYOTO 併設)にて「KYOTO ART TABLE 残す、つなげる、作り出す」が開催されました。

▲はじめに THEATRE E9 KYOTO支配人の蔭山陽太さんより「ここはアートとビジネスが同居していて日常的に交流があり、芸術と社会がどのように共生できるかが普段から考えられている場所です」とご挨拶がありました

イベントは「京都という場所で文化を引き継ぎ、新しく開いていくプレイヤーを紹介し、アーティストと企業のこれからの協働の可能性を考えること」を目的としており、前半では、京都を代表する和菓子屋のひとつである鍵善良房15代目当主今西善也さんと、京都芸術センターアーツ・アドバイザーの山本麻友美さんによる「​​残す、つなげる、作り出す」ことについての対談がありました。

第一部 企業×アーティストで文化を「作り出す」

(左)山本麻友美、(右)今西善也

(山本)先日、今西さんが祇園にオープンされた ZENBI-鍵善良房-KAGIZEN ART MUSEUMさんに伺いましたが、とても素敵な美術館でした。ご苦労もされたそうですが、美術館の設立にいたるきっかけはどのようなものだったのですか?

(今西)美術館というにはおこがましい本当に小さな建物ですが、3つあります。1つ目は、鍵善には京都の木工作家であり人間国宝にまでなられた黒田辰秋さんの作品があり、黒田辰秋さんを記念する場所を作りたかったということがあります。2つ目は、先代の父がやっていた若い芸術家の方をサポートするレンタルギャラリーを手直しして黒田辰秋さんの記念館を作る構想があったんですが、色々と話をしているうちに、周りにスペースも空いたのでちょっと大きく作り直しましょう、ということになりまして。3つ目は、大叔父にあたる12代の今西善造と黒田辰秋さんが同年代で親しかったのですが、2人が発展させた花街の社交場文化で文人墨客が高度な遊び場を形成していた、町の雰囲気を残したいなと。

(山本)なるほど。黒田辰秋さんと大叔父さまは、どのように関係性を作られておられたのでしょうか?

(今西)あの時代は民藝運動のはしりで黒田辰秋さんもそこに加わった1人なのですが、大叔父は新しいもの好きだったので、多分意気投合したんだと思います。大叔父から作品を発注するなどして一緒に楽しんでいたといいます。大叔父は戦前に30代後半で亡くなってしまっているのでその構想はわからないんですけれども、店の内装すべてを黒田辰秋さんにお願いする予定だったようです。

(山本)そうなんですね。企業と芸術家が刺激し合いながら文化を作り出す、とても理想的な関係だと思います。

(今西)京都では江戸末期から明治くらいにかけて日本画家たちが食べられない時に、お菓子の掛け紙や包装紙の図案、染色の図案を描いてもらったりしていて、そういう下地がずっとあります。今後もそういうのがあると面白いと思います。ちなみにうちは、黒田辰秋さんに作ってもらった螺鈿(らでん)のお弁当箱にくずきりを入れて、朱塗りの岡持を作ってお茶屋さんに配達して、当時それが評判になったんです。

(山本)そうだったんですね。ちなみに今西さんの芸術家の方との関係で、お聞かせいただけるお話はありますか?

(今西)もう10年ぐらい経ちますが、日本画家の山口晃先生とお食事をご一緒したとき、失礼を承知でうちの紙袋の絵を頼んでみると、描いていただけたことがあります。

(山本)失礼と仰いましたが、アーティストにとってはそんなことはなく、頼んでもらえると嬉しいんじゃないかと思います。

(今西)菓子屋として、ただ美味しいお菓子や綺麗なお菓子を作るだけではなく、皆さんに色んなことを楽しんでもらいたい。皆さんと一緒に楽しめる環境づくりを、少しずつでもやっていけたらと思います。

(山本)皆さんと一緒に楽しめる環境づくりということですが、鍵善良房さんは色々な企業とコラボレーションされたり、特別な場面でのお菓子を提案されたりしていますよね。

(今西)もともとお誂えの世界なので、ショーケースの中に置いてあるものだけが商売ではなくて、お客さんから頼まれたものを自分たちのアイデアとお客さんのアイデアを合わせながら作ります。自分たちでは思い付かないアイデアを持って来られるのはなかなか面白いです。

(山本)お誂えというのはなかなかハードルが高いと思っていたんですけれど、結構そういうのはお願いしたら聞いてもらえるものでしょうか?

(今西)そうですね。全然聞いてもらったらいいと思います。

(山本)そこにないものを頼むという時に、壁や遠慮がありそうですが、実際には、お誂えの文化のようにアーティストから企業にお願いすることもできるし、企業の方もアーティストにもっと色んなことを頼んでもらえるといいんじゃないかなと思います。

鍵善良房 冬のお菓子「かぶら」

(山本)それでは、皆さん楽しみにされていたと思いますが、今日のお菓子について伺ってもいいですか?

(今西)銘は「かぶら」で、白いかぶらを模しています。薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)という、山芋を擦りおろしたものにお米を混ぜて作った生地で、中にはこしあんが入っています。お菓子をみて季節を感じていただいて、皆さんと会話が弾んだり自分の中にイメージが広がるのが和菓子の楽しさです。

(山本)ありがとうございます。今西さんと直接お話されたい参加者もいらっしゃるかと思いますので、お菓子をいただきながら少しそういう時間を頂戴して、後半に繋げたいと思います。参加いただいた企業の方にとっても、アーティストにとっても有意義な時間になったのではないかと思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。

(今西)ありがとうございました。

▲美味しいお菓子に雰囲気も和みます。会場では、登壇者と参加者の交流も見られました。

登壇者プロフィール

今西善也(いまにし ぜんや)

京都祇園にある菓子屋鍵善良房の長男として生まれ育ち、同志社大学を卒業後、東京銀座にある菓子屋にて修業。その後、家業を継ぐために家に戻り、2008年に父の意向で社長交代し、江戸享保年間より続く和菓子屋の15代目当主となる。連綿と続く京都の菓子の伝統を守りながらも、常に時代にあった菓子作りを心がける。2012年には祇園町南側に和菓子とコーヒーを楽しめる空間としてZENCAFEを、2021年には小さな美術館ZENBIをオープンさせた。1972年生。

山本麻友美(やまもと まゆみ)

フリーランス・キュレーター、アートコーディネーター。2021年度は「KYOTO STEAM−世界文化交流祭−」アート・ディレクター、京都市文化芸術総合相談窓口(KACCO)統括ディレクターを務める。2021年、京都芸術センターアーツ・アドバイザーに就任。これまでの主な企画やキュレーションに「東アジア文化都市2017京都 アジア回廊現代美術展」(二条城・京都芸術センター、2017)、「光冠茶会」(オンライン茶会、2021)など。研究者と実務家などで構成される「新しい文化政策プロジェクト」メンバー。

第二部:アーティストによるプレゼンテーション

後半には、京都を拠点に芸術の新しい表現形式を開拓しているアーティスト5名による、自身の作品や活動についてのプレゼンテーションがありました。

小松千倫

京都市立芸術大学大学院博士課程に在籍しています。メインの活動は作曲で、今は京都駅前の音楽噴水の演出プログラムを担当しています。

(小松)一番最近の作品は、ATAMI ART GRANTという、閉館が決定したホテルニューアカオでのレジデンスプログラムで制作したインスタレーションです。内側からピカピカ光る巨大なドリームキャッチャーをレストランホールの外側に吊るして、音楽イベントを夜に実施し、その時の音の反響をもう一度収録して、備え付けのスピーカーから流しました。場の記憶を、知覚・体験可能な状態でどう立ち上げるかという問題意識のもと制作しました。

小松千倫(こまつ かずみち)
1992年高知県南国市生まれ。京都市在住。音楽家、美術家、DJ。情報環境下における身体の痕跡と記録、伝承について、光や音といった媒体を用いて制作・研究している。主なパフォーマンスに「SonarSound Tokyo 2013」(STUDIO COAST、東京、2013)、「ZEN 55」 (SALA VOL、バルセロナ、2018)、「Untitled」 (Silencio、パリ、2018)、PUGMENT 「Purple Plant」(東京都現代美術館、東京、2019)など。

谷澤紗和子

(谷澤)新自由主義への反発をもとに、切り紙のインスタレーション作品を制作してきました。新自由主義は空想する時間や人がぼんやりと何かを自由に考える力を奪うという定義のもと、妄想力を拡張するためのトリガーとして作品を展開しています。小説家の藤野可織さんと一緒に制作を行うことがあり、藤野さんとは継続して今後も作品を作っていきたいと思っています。妄想のための入れ物ということで、名前のない人形も制作しています。

(谷澤)妊娠出産が転機となり、女性や性的マイノリティへの差別、男性中心で綴られてきた美術史への反発が、4年ほど前から新たなテーマとして加わりました。弱い立場の人達が放つ声をテーマにしたドローイングは、切り紙の構造をもった描き方になっています。

谷澤紗和子(たにざわ さわこ)
「妄想力の解放」や「女性像」をテーマした作品を制作する美術作家。主な展覧会に「Tatsuno Art Project」(日本美術技術博物館マンガ、クラクフ、2018)、「東アジア文化都市 2017 京都 アジア回廊現代美術展」(二条城、京都、2017)、「高松コンテンポラリーアートアニュアルvol.5見えてる景色/見えない景色」(高松市美術館、香川、2016)、「化け物展」(青森県立美術館、青森、2015)などがある。ヨコハマトリエンナーレ2020「AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」に、刷音《SURE INN》として参加。令和2年度京都市芸術新人賞受賞。

宮木亜菜

(宮木)大学では彫刻を学び、今は主に、自分の身体を物質として理解しようとする試みでパフォーマンス作品を発表しています。パフォーマンスで扱う素材の選び方はとても重要です。

(宮木)例えば鉄板は近代彫刻からよく使われていて、力強さや鋭さといったイメージがあり、加えて作品に幾何学性をもたらすものとして利用されてきました。そういった素材を女性である私がパフォーマンスで扱うことで、鉄板を男性のメタファーとして用いているという感想を持たれ、衝撃を受けたことがあります。自分が女性の身体を持っていることに気付かされ、これからどう身体と付き合っていくか考えるきっかけになる出来事でした。今は、あらゆる意味を考慮した上で、意味を持たない物質としての身体という認識を楽しもうと考えています。

宮木亜菜(みやき あな)
1993年大阪生まれ、京都在住。2016年Royal Collage of Artパフォーマンス専攻に交換留学、2018年に京都市立芸術大学大学院修士課程美術研究科彫刻専攻を修了。彫刻的な素材を扱ったものや、洗濯・睡眠・ピクニックといった実際の生活の中から見出した動きや空間性をもとにしたパフォーマンスなどを制作、体が持つちからを健康的に展開しようと試みている。主な展覧会に、個展「肉を束ねる」(京都市京セラ美術館、京都、2021)、「ドライブイン展覧会”類比の鏡 / The Analogical Mirrors”」(山中suplex、滋賀、2020)、「京芸 transmit program2020」(ギャラリー@KCUA、京都、2020)などがある。

本山ゆかり

(本山)絵が好きで絵画専攻へ進み、大学と大学院で油絵を中心に勉強していたのですが、絵画や絵という言葉が何を指しているのか、厳密には分からないと思ったんです。絵画のことを思い浮かべた時に出てくる要素が、線、面、点、色彩、マチエール、質感、支持体、描画材、モチーフ。これらを1つでも内包しているものは、絵と呼ぶことができる。現在は、これらの絵画の要素を細かく見ていくという制作方法をとっています。

(本山)こちらは今年春の個展の展示作品です。これはナイフですが、ナイフは人を殺傷するために作られていないのに、そういうものを連想させやすい。これまでは、モチーフにはなんの思い入れもないものや、なんの意味もないものを選んできたので、記号として役割を背負わされているモチーフを描くための仕組みを新たに作りました。

本山ゆかり(もとやま ゆかり)
1992年愛知県生まれ。2017年京都市立芸術大学大学院美術研究科油画専攻修了。絵画をつくる/鑑賞する際に起きる様々な事象を解体し、それぞれの要素を見つめる作業をしている。主な個展に「コインはふたつあるから鳴る」(文化フォーラム春日井、愛知、2021)「称号のはなし」(FINCH ARTS、京都、2020)「その出入り口(穴や崖)」(Yutaka Kikutake Gallery、東京、2019)など。展覧会に「愛知県美術館 2020年度第3期コレクション展 」(愛知県美術館、愛知、2020)、「この現実のむこうに Here and beyond」(国際芸術センター青森、青森、2017)、「裏声で歌へ」(小山市立車屋美術館、栃木、2017)などがある。

山城大督

(山城)僕の専門は映像です。映像の概念をどうやって更新するかをずっと考えています。奈良県立大学で行うCHISOUというプログラムでは香りの頒布会をやります。香水を作って限定21人に配り、1年間新月の時だけ香水を使ってもらうと、5年後10年後に香りを嗅いだ時に2022年にタイムスリップするような感覚にならないかと考えています。僕にとってこれは映像体験の延長のように捉えています。

(山城)オンラインや映像を使ったプロジェクトは継続して行っています。3人組アーティスト・コレクティブ「Nadegata Instant Party」では、アートプロジェクトとして24時間だけ放送するテレビ局を青森県青森市の人たち120人と作ったり、一度も会わずにオンライン上で準備して本番当日に集まるグダグダなダンス公演をしたり、廃墟になった洋裁学校をアートセンターにしたりするプロジェクトをこれまで行ってきました。ここE9では、アーティストの八木良太君と2人で、Sensory Media Laboratoryという、目を中心に進みすぎた美術の変遷を再考する9年間のプロジェクトを2021年から始めました。2022年はテレビショッピング形式にして、人間の感覚を鋭くさせるアイテムをネット販売します。

(山城)やっぱりアーティストは受注側であることが多いのですが、それだけで本当にいいのかなと思っているところがあるんです。2020年にアートマネージャーの野田智子とTwelveという株式会社を作り、そこで文化芸術の企画や、映像制作やや配信事業の仕事を受けるようにしています。作品を作るだけでなく、アーティスト自身が自分の技術を使いながら産業と結びついたり、ビジョンを自分たちから提案しながら色んな人と手を結んで進めて行けたらと思っています。

山城大督(やましろ だいすけ)
美術家・映像作家。映像の時間概念を空間やプロジェクトへ応用し、その場でしか体験できない《時間》を作品として展開する。2006年よりアーティスト・コレクティブ「Nadegata Instant Party」を結成し、全国各地で作品を発表。また、山口情報芸術センター [YCAM] にてエデュケーターとして、オリジナルワークショップの開発・実施や、教育普及プログラムを多数プロデュース。京都芸術大学専任講師。株式会社Twelve 代表取締役。豊中市立文化芸術センター プログラム・ディレクター。第23回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品受賞。

今回のイベントでは、企業とアーティストがともに京都で文化を作ってきた歴史をヒントに、協働して新たなカルチャーシーンを作るための可能性が示されました。京都で活躍するアーティスト、企業それぞれの実践の一端を知ることで、その可能性に明るい未来が見えたようです。今西善也さんの京都に続く文化を守る実践やお客さんと一緒に楽しめる環境づくりからは学びが得られ、表現分野がそれぞれに異なる5名のアーティストの独自の視点には驚きがありました。
これからも、京都で新たな文化が作り出されていくことに期待したいと思います。

関連記事


料金表が存在しないところに料金を発生させる。

伊藤洋志



ニューアーティストとニューパトロンに求められているのは、料金表に載ってない仕事も頼んでみて、なんとかやってしまえる、そして、通常のマーケットでは手に入らない新しい価値を手に入れることができて、楽しい、という世相を生み出すことである。これは、買い物に対する革新行為である。

多くの人類が狩りをしなくなって久しい。しかし、狩猟採集に最適化された人類にとって狩猟行為を欠いた生活にはいくらかの物足りなさが残る。狩猟が生活から失われても残っていたのは採集行為、山菜採り、ベリー摘み、キノコ狩りなどだが、こちらも減少傾向である。そこで現れてきた代替行為が、買い物なのである。これの兄弟がビジネスである。

人が買い物をやめられないのは、それがすなわち、人間の根源的欲求の狩猟採集行為に等しい行為からだ。自然界のようなノイズの海の中から自分の糧になる秩序の塊(明確な有用性を持った獲物)を見つけ出し捕獲する。これを欠いて充実した生活はない。買い物は現代における狩猟行為であり、買う対象だけが大事なのではなく「買う」行為自体も目的なのである。

しかし!現代では二つの問題が立ちはだかる。一つ、充実した達成感を得られる獲物が減っている。二つ、買うのはいいが置く場所がない、家がモノのダム化としている。明らかに許容量を超えるモノが世の中に溢れている。
この合わせ技が、ゴミ屋敷を生み出し、断捨離と消費社会のマッチポンプを繰り返す要因となっている。現在もっとも手強いゴミは核のゴミ、ついで高密度シリコンの太陽光パネルのゴミ。焼却炉が頑張って燃やせば済むというレベルを突破し、人類の知恵を合わせても処理方法が見出せない。地球に埋めるぐらいしかアイデアが出てこないが、それにしても10万年単位の無害化期間が必要だ。しかし、最終処分場には石板にドクロマークを書いて警告にしておくぐらいしか、未来の人類に対する伝達方法がない。なかなか示唆的な作品になりそうな話だが、もはやフィクションよりも現実が先行しつつある。流石にこれはやりすぎだ。
とはいえ、電気依存を辞めるのは簡単ではない。最近、物理学者による経済研究で明らかになったのは、経済成長は電力消費量と連動するという事実である。つまり、これまで通りの経済システムで行こうとすると省エネはしつつも電力消費量をいかに増やすかというところに腐心せざるを得ない。オンラインのソーシャルゲームでのアイテムの売り買い経済など、物質から脱却しつつある買い物行為も出てきてはいるが、それでも電気消費量は増え、最終的には核のゴミあるいは太陽光パネルのゴミに行きつく。
考えてみたら当たり前の話なのだが、理由の一つは、現在の経済成長の原則は、「スケールする」ということに重きが置かれているからである。各種のビジネスにとっては一定の成功パターンに沿って、それを拡大して行くというのが一つの山場である。身近な例で言えば「いきなりステーキ」が仕組みとしてヒットすれば、どんどん店舗を増やす、そこからがボーナスステージである。ここまでいかないとビジネスは苦労が多く旨味がない。そしてそれは力も持ち、高品質なサービスを多くの人に提供できるという社会的な善でもある。これはこれで悪くないのだが、これだけに依存すると、先ほどの述べたような電力消費量をひたすら増やしていく、という方向性だけになってしまう。その中で、人間の思考と実践から生まれた足で描いた絵画(「激動する赤」白髪一雄 1969年、油彩、キャンバス、183×229cm 落札価格 530万米ドル((5億4,590万円)))が5億円もの価格になるのは一つの希望である。ここには電気がごくわずかしか使われていない。
現状、注目すべき国の一つはインドである。人力でやる仕事もかなり残しつつ近代化が図られており、料金表がない部分が残されている。いちいち価格交渉しないと物事が進まない。これは旅行者には面倒臭いが、一つの可能性がある。UBERのようなシステムでは、自然状態にして放置すると最低ラインまで個々人の報酬が低下するようにマーケットメカニズムが働くので、個々人の収支はカツカツになる。こうなれば薄利多売しかない。つまり規模の経済に頼るしかない(主にUBERが。そして個人はギリギリの収支で困窮する)。インドの人口はすでに13億人を突破し、2100年には15億人に達すると予想されている(※1)。どのようにインド社会が推移していくかは人類にとって重要な要素である。なにしろ2100年になれば世界人口の22.7%が1位のインドと2位の中国で占められると予想されているのである。
そこで、必要になってくるのが、料金表がないところに仕事を発生させるという一見非効率なアクションである。通常の「スケールする」ことを前提で生み出され洗練を極めたサービスには全て料金表があり、相場観が形成されている。しかし、洗練された料金表を持つ世界では、個々人の買い物に対する想像力が低下しており、料金表がないものは入手できない、諦めるしかないという状況になりつつある。もはや諦めていることすら自覚できないことも多い。身近な例で言えば床一つとっても、専門業者に頼むしか方法がない、と思い込んでしまい、自分で床が張れるという発想すら浮かばない。結果、無垢材の床板は使われない賃貸住宅に住むことが当然になってしまう。そこでは汚れないからいいと場合によってはビニールシートになってしまう。それが選択肢の一つではなく当たり前になってしまうことは実につまらないことである。これは、先に挙げた現代の買い物の問題点の一つ、充実した達成感が得られない買い物が増えているという一例である。

これではいけない。

ではどうするか。逆に言えば、自分たちで新たな料金表をつくればいいのである。実際、個人の仕事の形をつくることを研究対象にしている私も、料金表をつくることに注力しているが、料金表が人の想像力を奪わない程度の広がりにとどめている。私は床張り講座を一つの仕事にしているが、別に私に頼まなくても、やる気があれば各人が自主的に企画できる。そのような選択肢を考える想像力を奪わないようにしなければならない。それには、料金表がないところに料金を発生させるというアクションをお客さんも常に視野に入れる必要がある。もちろん、これは既存の洗練された料金表の世界と並行しうる。

美術作品は、量産できないところに価値がある。それほど多くない生産量のiPhoneXの生産台数が二千万台で、かつ売れれば売れるだけ生産台数は増やすのに対して、美術作品は量産できてもせいぜい百点程度の複製画である(映画は別)。スケールすることを必要としない。もちろん、ギャラリーに所属することが就職活動のようになったり、システムに組み込まれすぎると、個々人の自由意志で価値を決定できるという良さが失われ、マーケットの奴隷との批判にさらされるので、アートマーケット依存にならない生活基盤が作家側にも必要であり、ここでのニューアーティストは、そのような生活基盤を持ちつつ作品を世に提出し続けられる存在だろう。いずれにしても美術制作の活動は、成長のために電力を使いまくる余地が小さいということは変わらないし、そのような方向を向いているかどうかという軸で見て行くといいかもしれない。近代産業的な仕組みではどうしても成長のためにスケールを大きくしていくしかない。350メートルの木造ビルを建てる、とかどうしてもそういう「規模のビジョン」しか出てこない。

ここで求めたいことは、お客さんの側も料金表がないところに料金を発生させるアクションである。ニューパトロンたる人は、料金表というパターンから外れるような行為の専門家であるアーティストに対する様々な投げかけを行う。
「ちょっと聞いていい、こういうのってできる?探してみたけど、そうじゃないんやけどってところしか見つからんのや」「それならこないしたら面白いんちゃいますかね、30万円ぐらいでできますよ」という会話が日常的に行われるようになることを期待している。

※1 国連経済社会局の発表による https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM21H5H_R20C17A6FF2000/

伊藤 洋志(いとう ひろし)
仕事づくりレーベル「ナリワイ」代表。 1979年生まれ。香川県丸亀市出身。京都大学農学部森林科学専攻修士課程修了。やればやるほど技が身に付き、頭と体が丈夫になる仕事をナリワイと定義し、次世代の自営業の実践と研究に取り組む。 シェアアトリエや空き家の改修運営や「モンゴル武者修行」、「熊野暮らし方デザインスクール」「遊撃農家」などのナリワイの制作実践に加え、野良着メーカーSAGYOのディレクターや「全国床張り協会」といった、ナリワイのギルド的団体運営等の活動も行う。ほか、廃材による装飾チーム「スクラップ装飾社」メンバー、「働く人のための現代アートの買い方勉強会」の共同主催も務める。 著作『ナリワイをつくる』(東京書籍)は 韓国でも翻訳出版された。ほか『小商いのはじめかた』『フルサトをつくる』(ともに東京書籍)。

関連記事


作品は作家からの預かりもの アートコレクター・田中恒子 インタビュー

2019年2月17日
インタビュー・構成:武本彩子
写真:前谷 開
場所協力:前田珈琲 明倫店

関西のギャラリーや美術館で、アートコレクター・田中恒子さんにお会いしたことがあるという方は決して少なくないのではないでしょうか。住居学者として多くの書物を著し、大学教員や中学校の校長としても忙しい生活を送る一方、関西圏のみならず全国の展覧会に足繁く通い、1000点超にもわたる若手作家の作品を中心とした現代美術のコレクションを築いてきた田中氏は、たくさんの作家や美術関係者からも「恒子さん」と呼ばれ親しまれる存在です。2009年には、和歌山県立近代美術館に約20年かけて集めてきたコレクションの大半を寄贈し、同年、美術館では「田中恒子コレクション展(注1)」が開催されました。長年一緒に暮らし、「家族のよう」と表現する愛着ある作品を美術館へ送り出してきた田中氏の作品に対する想いと、支援者であり、また表現者でもあるアートコレクターの生活や活動についてお話を伺いました。

作品を社会に還元する


——2009年に、コレクションの大半を和歌山県立近代美術館に寄贈されましたね。
 
(寄贈の際に開催された展覧会のカタログ(注2)を見ながら)
田中:こうして一つ一つの作品を写真で見ると、もう懐かしくて懐かしくて。古い家族にまた会えたような感じがします。

寄贈することを考えていた時、他にもいくつか関西の美術館で候補があったのですが、その中でも和歌山県立近代美術館にもらっていただくのが一番良いと思っていました。理由の一つは、毎年夏に開催していた現代美術の展示が気に入っていた、ということ。もう一つは、担当してくれた学芸員の奥村泰彦さんという方が、いろんな展示を見ていて、ギャラリーを回っていてもよく会うので、奥村さんのいる美術館なら、と思ったんです。それに、和歌山県立近代美術館の建物(設計は黒川紀章)は、建てる前に学芸員のみなさんがよく議論されていて、内部が実に使いやすく設計されてあるんです。
 

——美術館に寄贈されることが決まって、肩の荷が降りた、というようなことを言われていましたが、どのような心境だったのでしょうか。

田中:作品は作家からの預かりものですから、災害や盗難のことを考えると、自宅に作品があるのは不安でした。寄贈が決まって、これで美術館が守ってくれる、とほっとしましたね。それに、専門職である学芸員の方が、作品の調査もしてくださるし、記録もとってもらえますし。

——カタログには作品の一覧が載っていますが、1000点近くもあるそうですね。

田中:寄贈点数が多くて、美術館の方たちには忙しい思いをさせたし、もしかしたら迷惑と思われたかもしれません。寄贈のとき美術館が調査をされたら、評価額が購入時の何倍もの金額になっている作品もあって驚きました。所有しているときから、「売るときには言ってください」と画廊から熱烈に声をかけられていた作品もあったのですが、私は結局作品を売ったことがないので、評価額がいくらぐらいになるのかもわからなかったのです。
そして、美術館に贈るからには、一人の作家に対して複数の作品を贈ろうと決めていたので、点数を増やそうと、新たに購入した作品もあります。例えば、藤浩志さんの作品は「ヤセ犬」のシリーズしか持っていなかったので、他の作品も購入してからあわせて美術館に寄贈しました。
 

——開催されたコレクション展を見ていかがでしたか。

田中:展覧会で面白かったのは、名和晃平くんの羊の作品(《PixCell – Sheep》)は、このシリーズの最初の作品なんですが、見に行くと子どもたちがみんなこの羊の下で寝ていたんです。疑問に思っていたら、美術館って天井から光が来るでしょう。上からの光で見ると横から写真を撮った様子と全然違うので、子どもたちが下から見上げてキレイって騒いでいたんです。私はさすがに寝転ばなかったけど、しゃがんで見て、「本当だ、綺麗だよね」って、小学生に新しい見方を教えてもらったんです。

田中:奈良美智さんの《どんまいQちゃん》は、我が家にあるときから、うちに来たお客さんがいつも2ショットを撮って帰るくらい人気だったのですが、美術館に行ってもやっぱり人気のある作品でした。美術館のアンケートでも子どもたちに「次にQちゃんが出るのはいつですか」って書かれるそうです。作品が美術館に出ることで、いろんな人に見てもらえる。特に、教育に関わって来た者としては、子どもに自由に見方を考えさせるという、教育の本質を見た気がしました。
 

——愛着のある作品を手放すことに寂しさはなかったのでしょうか?

田中:寂しくありません、会いに行けますから。それよりも、とてもたくさんの人に愛されていることが嬉しい。私の場合は、自分が所有する喜びではないのです。「欲しい」っていうのではなくて、「社会に還元した」ということ、社会に「残した」ということが嬉しいのです。

最初のうちは、自分が持っていることを喜んでいたんです。コレクターを始めたばかりの頃は家の中に200点くらいの作品を飾ったりもして。でも、そうこうしているうちに、「作品は社会のものだ」と思うようになり、「社会のものだ」ということを周りにも認知してもらうためには、美術館に貰ってもらうしかないのではないか、と考えるようになりました。だから、美術館には「あげる」というより、どちらかというと「貰ってください」という気持ちなんです。和歌山県立近代美術館にもそのような気持ちでお願いをしました。
 

——「美術館にアートを贈る会」の立ち上げに関わり、現在も理事をされていますが、コレクター以外にされている活動について教えていただけますか。

田中:2004年に発足した「美術館にアートを贈る会(以下、贈る会)」では第一号として、西宮市大谷記念美術館に藤本由紀夫さんの《HORIZONTAL MUSIC》(1986)というオルゴールの作品を贈りました。それ以降、関西の美術館に、この作家こそは、という作品を寄贈してきたと思います。作品の選定は、美術館からお願いしますと言われる時もあれば、「贈る会」のほうから呼びかけることもあります。贈ることが決まった時には新聞社の取材に答えたり、説明会を開いたりします。
滋賀県立近代美術館に伊庭靖子さんの作品を贈った時には、伊庭さんに何を描いてもらうかということを話し合って決めて、特別に新作を制作してもらいました。「贈る会」の人はアートコートギャラリーの八木光惠さんをはじめみんなプロですから、作家さんの能力や得意技のようなものをどうやって生かすかを考えています。贈る際にはメンバーや同好の士から寄付を募るのですが、例えば伊丹市立美術館に寄贈した今村源さんの作品の下にあるように、贈った作品のキャプションには、寄付をした人たちの名前が列挙してあります。最近は、2018年に兵庫県立美術館に児玉靖枝さんの作品を贈りました。
私は何しろ美術のためにお金を使おうと決心していましたから、周りから何を言われても、「美術を残すことは絶対、後々のために役に立つことだから」と言い続けてきたんです。
 

アートコレクターになるまで

——「美術のためにお金を使う」と決心されたのはいつ頃のことですか。

田中:退職してから15年になりますが、仕事をしていた最後の15年くらいはそう決めていました。
作品を買うようになった最初のきっかけは、勤めていた研究室に、ある日ミロの絵を持ってきたおじさんがいたんです。 それなりに知られた画廊だったのではないかと思うのですけども、風呂敷に包んで正真正銘本物のミロを持って来たんです。
 

——画廊が勤務先に出張して来るとは、珍しいですね。

田中:今思うといい加減な話ですよね。でも、その研究室にいた女性の教員が、安くもないミロを買うんですから、きっと画廊のおじさんもびっくりしたんじゃないかと思います。私が買った当時はいろんな人にからかわれたり、「偽物だったらどうするの」と言われたりもしたんですけども、運良く全て本物のミロでした。当時私は何にも知らなかったから、要るか要らないかわからなくて、作品の証明書を捨ててしまったこともある。寄贈する時には美術館の人にひどく怒られました(笑)。ミロはレゾネがあったので本物だとわかったのです。

いざ自分の家にミロをかけてみると、起きてはいいなと思い、 寝るときにもまたいいなと思う。 そのうちに、展覧会というのは、あちこちの画廊でやっているものなんだ、と気づいて、新聞に載っている展覧会評を頼りに、あちこちに出かけるようになった。1989年に東京へ仕事の出張で行った時に、新聞で彦坂尚嘉さんの展示をやっているのを見つけてアートフロントギャラリーに行ったんです。そこに行った時に、「すごくいい!」と一目で思って、その場で作品を買いました。その後大阪のアートコートギャラリーでの展示の時にも買いました。ミロを買った時にはどちらかと言うとまだあまりよくわかっていなかったんですが、 その次に買った彦坂さんの作品からは全部私の直感で選んでいます。在職中に仕事がどんどん忙しくなったのでやめてしまいましたが、展覧会の案内はがき、チケット、新聞記事などを貼り込み、コメントもつけた「展覧会ノート」も98冊までつけていました。今は手帳に書き込んでいます。
 

——作品を買う時にはどういった基準で選んでいるのでしょうか。

田中:コレクターとしての私が買うと決めるのは、感動です。 ほとんどの場合、画廊に入っていって、作家の作品を見て、その中でも今日は一番いいのはこれ、というのがあったらそれを買う。判断は5分かからないと思います。全然迷いません。
コレクターによっては、作家の名前で選ぶ人もいると思うんですけど、私は作品だけを判断基準に買っています。中には、太田三郎さんの「Post War」という切手の作品のシリーズ(1992~)のように、新作が出たら買う、と決めている例外もあります。太田さんの作品は歴史の証人ですから。それでも基本的には、たとえ知らない作家でも作品を気に入ったら買います。「恒子さんは“青田買い”だよね」と言われたこともあるんですが、そういう時私は「だからこそコレクターをやっているんです、評価はオークションじゃない、田中恒子がつけるんです」と言っています。誰の何を買うかというのも、買う人の一つの表現だと思うのです。
直感で収集しているので、コレクションと呼ぶには系統性がないかなと思ったりもするのですが、それこそが現代美術の特徴なのだとも思っています。これだけ多様に展開しているのだから、現代美術を全面的に押さえることなど、誰にもできないのではないかとも思うのです。

——もともと美術や表現活動に興味はあったのでしょうか。

田中:興味はあったけれど、私はほとんど美術教育というものを受けていません。教育らしい教育といえば小学生の時に絵画教室に行っていた2年間だけ。当時は豊中に住んでいたのですが、みんなで宝塚ファミリーランドへ写生大会に行きました。私が描いた鯉が泳いでいる絵を、この「じゅじゅみ(滲み具合)がすごく良いね」と、当時絵を習っていた青野馬佐奈先生に褒めてもらいました。その絵が5年生の図工の副読本の表紙になったんです。
今思うとそれが原点だったんだと思います。人生を決めるような出会いを一つ聞かれたら、小学校5年生の時に、この青野先生に出会えたことですね。

田中:高校3年の時の進路調査で、美術大学に行きたいと言ったら、母に猛反対されて。反発しましたが、結局受験したのは大阪市立大学家政学部(現・生活科学部)住居学科。ここなら、家政学部だからといって認められました。
 

——実際に合格されて、大学に入ってみていかがでしたか。

田中:デザインの授業はあるし、絵を描くような授業もあるし、内心喜んでいたんですが、何より住居学の勉強って本当に面白くて、夢中になりました。大学を出た後は、京都大学工学部の西山夘三先生の研究室で研究生をしていたのですが、熱意が認められて文部技官として採用されたんです。当時は女性が採用されるのはとても珍しかった。その後、奈良教育大学の教員として採用されました。
 

——教育者としてはどのようなことを教えて来られたのでしょうか。

田中:当時、家庭科は男女共学ではなかったので、奈良教育大学での1日目から、目の前の学生たちに、「家庭科は生活を科学する本当に面白い科目だから、男女共に私と一緒に学びましょう」と言いました。それから、男女を分ける当時の学習指導要領はよくない、ということを講義したら、その話がすぐさま全学に広まってちょっとした騒ぎでした。今でこそ家庭科は男女共学です、と誰でも言いますが、最初そういうことを言っていたのは私を含め全国の国立大学教育学部で五人くらいしかいなかったのです。テレビ番組に出演したり、新聞のインタビューを受けたり、講演会で喋ったり、家庭科は男女共学にすべきだということを主張していました。そのうちに、一番の問題は、男子が家庭科という生活の学習を受けられないことが、彼らの「生活を良くする権利」の剥奪である、という私の論理に納得してくれる人も増えてきました。

それから、「住み方研究」といって、様々な住居空間の中に入り込んで住み方を調べることもしていました。そうして分かってくる日本の住宅政策の問題を考えているうちに、研究者として、実態調査だけでなく改善提案をしなければならないと考えるようになりました。平たくいえば、生き方の表現としての住居を考えることです。提案が実践できることを示すために、自分の住み方の公開もしてきました。
 

これからのアートとの関わり

——退職されてから、ご自身で作品を作られていますね。

田中:そう、今は表現者として、おばあちゃん作家をしているんです。昨年(2018年)には16回グループ展に参加しました。和歌山で寄贈した作品の展覧会があるまでは、コレクターとしての使命のようなものを感じていたのです。それが終わった後に、急に作りたくなってね、作家の人はこんなにワクワクした気持ちで作品をつくっているんだ、私も頑張ってみよう、と思って。
 

——表現者の立場になってみて考えるようになったことはありますか?

田中:アーティストの人は頭がこんなふうに動くんだ、 というようなことが分かりました。もちろん、大学の教員もおもしろくて、幸せな教員だと思っていましたが、作品をつくり始めてからはもっと面白い。人生の幸せって何だろうと思うと、「自分にしかできないっていうことがある」というのがわかったことですね。

——最後に、何か作家の方に伝えたいことはありますか?

田中:作品が私のところに来てくれてありがとうと思っています。
いろんな人に、作品を「売らないの?」とか「オークションに出さないの?」とか、いろんなことを聞かれましたけど、そんなことは全然考えたことがありません。売るくらいなら買わない。
作品からは、これ以上はない、と思うくらい喜びをもらいましたね。アートコレクターをしていて、どんなに人生が豊かになったか。作家さんとお友達にもなるし、作品を通して全然知らない人ともお話できるし、何より、作品と話し合える幸せ。
仮の宿りとして、作品たちが私のところへ来てくれた。そして田中恒子を通して、いろんな美術館へ、行くべきところへ行ってくれた、それが嬉しいんです。

※注1 「自宅から美術館へ 田中恒子コレクション展」(和歌山県立近代美術館、2009年9月8日〜11月8日)https://www.bijyutu.wakayama-c.ed.jp/exhibition/tanaka_tsuneko.htm
※注2 『自宅から美術館へ 田中恒子コレクション展』和歌山県立近代美術館、2009年

田中恒子(たなかつねこ) 
1941年、大阪市生まれ。関西の作家を中心とした現代美術のコレクター。1989年日本人現代美術作家の作品を初めて購入。2009年、和歌山県立近代美術館にコレクションの大半である1000点近くの作品を寄贈した。「自宅から美術館へ 田中恒子コレクション展」(和歌山県立近代美術館/2009)。住居学・教育学者。現在、美術館にアートを贈る会理事。大阪教育大学名誉教授。

関連記事


アーティスト・プレイスメント・グループ(APG)

:60年代後半から70年代ロンドンのソーシャル・プラクティス

小林瑠音

1960年代後半から1970年代のロンドンで活動したアーティスト集団「アーティスト・プレイスメント・グループ」(APG)。近年、彼らの芸術実践はイギリスにおける社会関与型の芸術の先行例として再評価が進んでいます。東山アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)の語源にもなったその挑戦と葛藤について紐解きます。

(図a)公開ディスカッション「アーティスト・プレイスメント・グループ:制度や組織における
社会的戦略としてのアートー政府に向けた付帯する人のアプローチ」
ウィーン近代美術館、リヒテンシュタイン・シティ・パレス、 ウィーン、1979. Courtesy Tate Archive © APG

はじめに

 「プレイスメント」という言葉は日本ではあまり馴染みがないかもしれない。ラグビーやサッカーなどでは、ボールを所定の位置に「配置すること」、テニスでは高難度なきわどい「ショット」のことをさすが、一般的には「職業斡旋」という意味で使われることが多い。大学の授業などでは「インターン」に近い形で学生の「就労体験」として多用される単語でもある。
 1966年に西ロンドンを拠点にした非営利団体として設立された「アーティスト・プレイスメント・グループ Artist Placement Group」(以下APG)は、まさにアーティストを様々な職場に送り込む就労斡旋型のプロジェクトとして始まった。そのスローガンは‘Context is Half the Work’ (状況が半ば作品である)。メンバー達は自分自身のことをアーティストではなく‘Incidental Person’ (付帯の人)と呼んだ。スタジオベースの作品制作や既存の美術制度からの脱却をめざして、APGのメンバーは常に「アーティスト」ではない新たな呼称を求め、鉄工所、テレビ制作会社、市役所などに潜り込み、一定期間一従業員と化して就労に従事することで、自分たちに課せられた社会的役割を模索した。
 このような彼らの実践は近年になって、脱物質化(Dematerialism)、ブリティッシュ・コンセプチュアリズム(British Conceptualism)の先駆けとして、あるいは社会関与型の芸術(Socially Engaged Art)の先行例として再評価される傾向にある。例えば、2006年にテート・アーカイブに関連資料が収蔵されたことを皮切りに、2012年にはロンドンのレーベン・ロウ(Raven Row)、2015年にはベルリンのクンストラウム・クロイツベルグ/ベタニエン(Kunstraum Kreuzberg/Bethanien)でまとまった回顧展が開催された。2012年に公刊された美術史家クレア・ビショップ(Claire Bishop)のArtificial Hells(翻訳版『人工地獄』は2016年刊行)で大きく紹介されたのも記憶に新しい。
 しかし、1970年代当時のレビューや批評に目を通してみると必ずしも高評価であったとはいえず、1971年にロンドンのヘイワード・ギャラリー(Heyward Gallery)で開催された個展に至っては、ヘイワード史上最も動員数が少なかった展覧会として酷評を得た。長らく注目をあびることのなかったAPGが近年になって再評価の途にあるのはなぜか。彼らはなぜ「プレイスメント」つまり就労にこだわったのだろうか。1960年代から1970年代に至るポストスタジオの時代にあって、アーティストの社会的役割を模索した彼らの足跡をたどりながら、その挑戦と葛藤を紐解いてみたい。
 (ちなみに、「東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス/Higashiyama Artists Placement Service (HAPS)」の名称は、このAPGから着想を得たものだと伺った。この論考には、そのオリジナルを探るというミッションも込められている。)


1.基本理念:自由な職務、付帯の人、状況が半ば作品である

 APGは1966年にロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズ (Central Saint Martins)の同僚でありパートナーであったジョン・レイサム(John Latham) (1921-2006)とバーバラ・ステヴィニー(Barbara Steveni)(1928-)によって結成された。当時、レイサムは大学図書館の蔵書にあった美術史家のクレメント・グリンバーグ(Clement Greenberg)(1909-1994)の著書『芸術と文化』(Art and Culture 1961)を噛み砕き、ドロドロになった残骸を小瓶に入れて返却するというパフォーマンス《蒸留と咀嚼》(Still and Chew 1966)を行い、それを事由に大学を解雇されるなど、ラディカルなモダニズム批判を展開していた。
 他方、ステヴィニーはフルクサスのメンバー、 ロベール・フィリュウ(Robert Filliou)とダニエル・スペーリ(Daniel Spoerri)のために西ロンドンのスラウ産業区(Slough Trading Estate)で廃材を拾っていたときにAPGの初期構想をひらめいたとされている。工場の外に捨てられた廃材を使うよりも、実際にこの工場の中で働くほうがアーティストにとって社会的に有益ではないかという考えである。同時にタイムベースドかつイベント的な構成をふまえた作品を模索していたレイサムは、彼女のアイデアに共鳴した。彼らは、アーティストを非美術業界である産業界や政府機関に一定期間送り込むことで、アートの新たな社会的機能を探求しようとしたのである。
 その後彼らは他のメンバー1とともに、西ロンドンのノッティングヒルにあったレイサムの自宅を拠点に、APGの目的や体制を話し合う「シンクタンク」(「弁証法」と呼ぶこともあった)という定期的なミーティングを開催した。そこで議論されたAPGの基本理念は大きく3つに集約できる。
 まずひとつめは、APGの大前提である ‘Open Brief’(自由な職務)であった。つまり、プレイスメントの明確な目的や具体的な到達目標をあえて定めないという取り決めである。さらに、このオープンエンドな枠組みを担保するしくみとして、派遣されるアーティストは受け入れ側の従業員とほぼ同等の賃金を支払われるという契約が交わされた。本来、プレイスメントとは、職業体験者の受け入れを無報酬で実施することが通例である。APGはあえてこの通例を破り、アーティストの社会的貢献を貨幣価値に換算して評価した。そうすることで、アーティストと他の就労者との間の平等な力関係を担保すると同時に、アーティストの自律性を強調したのであった。受け入れ団体はアーティストに対して作品をコミッションするかわりに賃金を支払う。アーティストはその対価として、作品を制作するのではなく、第三者的立場から受け入れ団体の日常業務に関するレポートやプロポーザルを提出し、長期的な組織改革に貢献する。このような方法で、APGは新たなパトロネージュの形態を提唱するとともに、アーティストがある組織内の「意思決定」(Decision-making)に直接的に関与することを求めたのである。
 この意味でさらに強調すべきは、APGの活動は決して「アーティスト・イン・レジデンス」ではないという点である。先述のとおり、ある団体に派遣されたアーティストは、そこで自身の作品を制作するのではなく、アーティストと産業界、政界との間の断絶を緩和し、その中に新たなダイアログを創出するインターフェースとしての社会的機能を期待される。美術史家のグラント・ケスター(Grant Kester)も、APGの活動がアーティスト・イン・レジデンスではなく、組織の日常業務に直接介入する「同僚」(Co-worker)であることが鍵であると指摘している。2
 しかしAPGの意に反して、この「自由な職務」に賛同する企業や団体は数少なかった。ステヴィニーは根気強く手紙を書き、ミーティングを重ね、ビジネスマンや行政マンと関係を築いていったとされる。現在では、クリエイティブな人材がビジネスや公共事業に新しいアイデアやリエゾンを造りだす存在として重宝されるようになったが、60年代から70年代当時は、そのような考え方は稀有であり、その意味でAPGはパイオニアだった。「コンサルタント」「仲介者」あるいは「エージェント」として組織の「意思決定」に関わるアーティストの社会的機能、彼らは、この第三者的な役割を ‘Incidental Person’ (付帯の人)と呼んだ。つまり、決して主要な立場ではないものの、様々な状況に付帯する潤滑油的な役割といったところだろうか。これがAPGの理想形として最も重要な2つめの基本理念である。ポストスタジオ、脱物質化の気風が席巻する時代背景の中にあって、アーティストに求められる新たな社会的役割は何か。英国では、アーティスト自らが積極的に非美術圏に出向き、その現場に「同僚」として溶け込みながら様々な状況に「付帯」していく、そういった身体を張った社会実験が繰り広げられた。
 さらに3つめの理念は、冒頭にも述べたスローガン ‘Context is Half the Work’(状況が半ば作品である)であった。実際のプレイスメントは、1~2ヶ月にわたる「実行可能性の研究」(Feasibility Study)を経て実行に移された。その後、実務・法務的な契約を経て、実際のプレイスメントに入り、最後に展覧会を実施するというのが一連の流れであった(ただし展覧会は必須ではなかったためほとんど開催されなかった)。実行可能性の研究および実際のプレイスメント双方において、アーティストに唯一課されたことは、彼らの経験に関するレポート、映像、写真、インタビュー、詩そしてインスタレーション等を通して、プレイスメントの最中におこった具体的な状況を記録することであった。そしてAPGの展覧会は、基本的にこれらの素材をもとに構成されたリサーチ・ベースの空間あるいは徹底したディスカッション形式のイベントであった。例えば、1971年6月15日から17日にデュッセルドルフのクンストハーレで開催された合同展 ‘Between 6’3では、《彫刻》(The Sculpture)と題された3日間におよぶディスカッション・スペースが設けられた(図1)。
 この《彫刻》は同年12月2日から23日にロンドンのヘイワード・ギャラリーで開催されたAPGの個展 ‘Art & Economics’(通称Inno70)でもお披露目された。この展覧会は3部構成で、プレイスメント活動を紹介する映像や事業報告書などの資料展示、立体作品やインスタレーションの部屋、そして《彫刻》と題したオープン・ディスカッション・スペースであった。特に、この《彫刻》の部屋では、アートフェアのブースのように仕切られたスペースに、ステヴィニーが常駐するインフォメーション・デスクとミーティングのためのテーブル、椅子、棚が配置された(図2)4。文字通り、様々な媒体の資料展示と実際に目の前で繰り広げられたディスカッションによって、プレイスメントにまつわるコンテキストつまり状況が存分に再現された実験的な展示であったと推察する。
 しかし、Bishop(2012)で詳察されているように、この展覧会は多くの批評家やアーティストから酷評された。実際にヘイワード史上最も集客数の少なかった展覧会であったということに加えて、「無味乾燥とした趣の不可解さ」「企業の広報イメージと変わらない」「重役会議の実演」5といった印象が人々の混乱を招いたのである。後述するように、APGには一貫した政治的思想とその表明が欠如していた。実際には、あえてそのような無色透明の第三者的立場をとることが彼らの信条であったのだが、それは血気盛んなカウンターカルチャーの名残がくすぶる当時のロンドンでは奇妙な存在に映ったのだろう。
 いずれにせよ、この展覧会は、今日頻出しているアーカイブ形式あるいはリサーチ・ベースの作品展示の先駆けとも言える一方で、APG史に大きな痛手を残した。実際にこれ以降、メンバー間の関係性も変化し、スチュアート・ブリスリー(Stuart Brisley)ら初期メンバーが、APGのコンセプト・メイキングに関わる中枢部会である ‘Noit Panel’を辞職し、レイサムもAPGの名誉議長の座を退くこととなった。6

(図1)Between 6展 (1971)

出所:Debattey (2012)
Courtesy Barbara Stevini

(図2)Art&Economics展のインダストリアル・ボード・ルーム (1971-1972)

出所:Tate Archive
© APG/Tate Archive.

 
2.プレイスメントの事例:協働と対立

 1966年の旗揚げから1970年代後半まで、APGは21のプレイスメントを斡旋したことが確認できる(表1)。最初は産業界へ、そして70年代後半に入ると政府機関へと積極的に乗り出した。以下では、2012年にロンドンのギャラリー、レーベン・ロウで開催された初の大規模な回顧展‘The Individual and Organisation: Artist Placement Group 1966-1979’で紹介された事例を中心にいくつか詳細をあげてみたい。
 APG最初のプレイスメントは1969年から1970年にかけて2年間実施された彫刻家ガース・エヴァンス(Garth Evans)7の英国鉄鋼公社(British Steel Corporation:以下BSC)への派遣であった。プレイスメント中に彼は、英国中の鉄鋼職人を訪れ、製鉄の最終工程についてリサーチを行った。その間に撮影された写真は後に、BSCによって単行本Some Steelとして出版された。エヴァンス自身も、この写真撮影を通して出会った見習い溶接工の技術を、レディメイドの抽象的なスチール彫刻と評価し、プレイスメント中に自身の作品《フレーム》(Frame 1970-1971)(図3)を制作した。さらに、エヴァンスは、BSCの組織運営に関するいくつかのレポートを提出した。そのレポートは、PR担当のクリストファー・パティ(Cristopher Patey)によって好意的に受理され、彼は後にAPGの産業界担当スポークスマンに就任することとなった。他方、BSCの上層部は彼の企業文化に対するアイデアには終始懐疑的であった。
 このように、APGのプレイスメントはスタート当初から、アーティストと受け入れ側の協働をうまく引き出した場面と、逆にお互いの立場の齟齬を明らかにした場面とが混在していた。まずは、いわゆる成功例、つまりアーティストのレポートや提案が受け入れ先に好意的に採用されたケースをみてみよう。

(図3)ガース・エヴァンス《フレーム》(1970-1971)

出所:Debattey (2012)

2−1.協働

 APGのプレイスメントの中でうまくコラボレーションがうまれたケースとして代表的な事例は、1970年にAPGの初期中心メンバーであった前述のスチュアート・ブリスリーが家具会社ヒール(S.Hill&Co.Ltd.)へ出向いたものがあげられる。彼は週に3日から4日ヒールの工場で金属研磨の工程に配属された。当初、作業員たちは、管理部門から突然押し付けられたアーティストの存在に疑いをもっていたが、ブリスリーは積極的に彼らにアプローチをかけ、管理部門との間の仲介役を担うようになったという。例えば、生産ライン内の研磨機を作業員が選んだサッカーチームのシンボルカラーに塗るように提案したり、工場内に可動式の掲示板を導入したりした。また、212脚の「ロビン・デイ・チェア」を重ねて円形にした彫刻作品《連結車輪》(Poly Wheel)(図4)を作業員と共に制作した。彼いわくこの彫刻作品は、閉鎖的な店舗フロアーのメタファーであり、1971年のArt&Economics展でも展示され、その後もサフォークにあったヒールの工場前に長年設置された。
 他方で、ブリスリー自身にとっては、このプレイスメントを機にAPGとは距離を置くこととなる。「芸術から現実的に離れて、ある種の潜在する集団的な状況へと移行していった」8ことや、「APGの活動は労働者ではなく上層部に深入りしている」9ように感じたことなどが要因であったが、彼は、ヒールでのプレイスメントを契機として、「アーティスツ・ユニオン」を立ち上げ、その後の彼のパフォーマンスにも大きな影響を与えた。

(図4)ヒールでのプレイスメントで制作された《連結車輪》(1970)

出所:Stuart Brisley (online)

 その他にも、APGと政府機関のコラボレーションは比較的うまくいった事例が多いようである。例えば、APG初の政府機関でのプレイスメントであったのが、1975年に実施されたドキュメンタリー映画制作者のロジャー・コワード(Roger Coward)によるバーミンガム市環境課への出向である。彼はインナーエリア調査局(Inner Area Study:以下 IAS)の都市計画専門家や社会学者とともに、当時荒廃していたスモール・ヒース(Small Heath)地区の再生計画に携わった。彼は、2ヶ月間に渡る最初の「実現可能性の研究」期間中に、地元の住民とともにビデオ・ワークショップを開催し、スモール・ヒース地区が徐々に荒廃していった経緯をたどるとともに、再生計画に対する彼らの意思を明らかにした。これらの成果が評価され、コワードは他のアーティスト達とともに、さらに3ヶ月のプレイスメントを認められる。そこでは、地元住民とアマチュアのシアター・グループとともに4つの演劇作品を発表した。この実践は、コワード自身の「グループ・オーサーシップ」理論に基づいたもので、グループ内での協働の経験が近隣地域のダイナミクスを理解する有効な手法であるということを提示したものとなった。
 コワードはその後、映画作品 ‘The Most Smallest Heath in the Spaghetti Junction’(1977)を制作し、スモール・ヒースの住民と政策立案者との間、あるいは行政内部部局間の意思決定過程を詳細に記録した。このプレイスメントの成果は、コワードのレポート All Fine and Contextと、それをもとに作成されたIASの成果報告書 You and Me Here We areで具体的にとりあげられ、写真や映像は、1977年にロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アートで開催された彼の個展 ‘You and Me Here We are – What Can be Said to be Going On?’の中で初めて公開された。
 他にも行政機関での事例としては、1978年から1979年にサウンド・アーティストのヒュー・デイヴィス(Hugh Davies)らによる保健社会保障省でのプレイスメントがあり、デイヴィス達は認知症の高齢者を対象にした、自己認識の改善や孤立感の軽減をサポートするプロジェクトに参画した(図5)。その中で彼らは、ロンドン各地の介護施設でインタビューを実施し、そこで使用した写真と音声をもとにスライドを作成した。それらは、高齢者の過去の記憶を刺激する資料として活用されることになり、その後、英国放送協会(BBC)サウンド・アーカイブの協力等を得て、第一次世界大戦期から1970年代に至るまでの高齢者の経験として6つのチャプターに編集され、1980年にはHelp the Agedというチャリティ団体によって、視聴覚キットとして実用化された。

(図5)ヒュー・ディヴィスらによる保健社会保障省でのプレイスメントにて介護施設でインタビューをする様子(1978)

出所:Kunstraum Kreuzberg/Bethanien (online)
© Carmel Sammons

 このように、アーティストのスキルが、都市再生や社会福祉の現場で活用されるケースは、現在ではもはや珍しい事例ではないが、1970年代当時としては相当新しい挑戦であったと推測できる。実際に1980年代後半以降のリバプールやグラスゴー、バーミンガムなどの都市政策の事例をまとめたチャールズ・ランドリー(Charles Landry)の著書The Creative Cityが刊行されたのは1995年であるし(翻訳版『創造的都市』は2003年刊行)、1997年のブレア政権発足と同時に、文化・メディア・スポーツ省が創設され、「クール・ブリタニア」の名のもとで、クリエイティブな人材を産業界や外交手段の中で積極的に活用するという現在の英国文化政策の基盤が整備され始めたのも1990年代半ばのことである。これら政府主導の文化政策、文化外交の登場に遡ること20年前に、既にAPGという作家主導の実験グループが類似した実践を展開していたという事実は特筆すべき点であろう。

2−2.対立

 他方、APGと受け入れ先の意向があわず、物別れに終わった事例もいくつか存在した。その代表的なケースが、ジョージ・レヴァンティス(George Levantis)による船舶運営会社Ocean Fleets Ltdでのプレイスメントであった(図6)。彼は、2ヶ月におよぶ東京湾への航海に加えて、コートジボワール、東南アジアへの航海に同乗し、船員とともに寝食をともにする中で、その経験をドローイング、日記、写真として記録し、Pieces of Sea Fall Through the Starsと題したインスタレーションを制作した。当初、船員の間の厳格なヒエラルキーに戸惑いをみせるも、レヴァンティスは日常業務の補助や夜間の飲み会などに積極的に参加した。ところがその後、彼らの関係には徐々に暗雲が立ち込めていくこととなる。その背景には、Ocean Fleets LtdとAPGの間の根本的なスタンスの違いが存在していた。つまり、船長および船員は、長期間の船旅による退屈さを軽減するために、アーティストに絵画などのアートクラスを開催することを期待していたのに対して、APGは前述の「自由な職務」の理念にのっとって、プレイスメント中の業務を特定することを望まなかったのである。レヴァンティス自身も三回目の航海で、アートクラスの開催を拒否したことで、船員達との関係が悪化したと記している。後に、Ocean Fleets Ltdの代表は、航海業務へのアーティストの帯同は比較的好意的に受け入れられたものの、社会学者が必要とされていたのであれば、アーティストではなく社会学者の方を雇用しただろうと述べている。

図6 ジョージ・レヴァンティスによるOcean Fleets Ltd.,でのプレイスメント(1974-75)

出所:Kunstraum Kreuzberg/Bethanien (online)
© George Levantis

 さらに、APGと受け入れ側の対立が生じたケースとしては、ヴィジュアル・アーティストのイアン・ブレイクウェル(Ian Breakwell)による保健社会保障省でのプレイスメント(1976)がある。そこで彼は同省の精神病を担当するグループに設けられた建築ユニットとともに、危険な暴力的・犯罪的行為を起こした人々を治療する高度保安病院(精神病院)のひとつであるブロードモア病院10での環境改善プロジェクトに加わった。最初の「実行可能性の研究」期間中に提出した日記形式の報告書やスライドが評価され、保健社会保障省内の学際チームに招かれたブレイクウェルは、実際に職員や患者へのインタビューを実施し、病院内の物理的なコンディションの改善だけでなく、患者の生活水準を向上させる必要性を指摘した。しかし、この提案はブロードモア病院の保守的なマネジメントチームと保健社会保障省の検閲によって却下されてしまった。この報告書は度を超えた内部干渉に至っており、「省内の上層部におけるヒエラルキーを当惑させる」11ものとされたのである。彼は、病院内の悲惨な状況を目撃したにもかかわらず、その実態を公開することを禁止されてしまったわけだが、その後この経験を自身の作品制作として継続させていく。例えば、プレイスメント中のダイアリーを再編集したAn Institution in Englandを公刊、さらに映画 ‘The Institution’を発表した。これらは後にヨークシャー・テレビジョンが制作した 精神病院に関するドキュメンタリー映像‘Secret Hospital’の素材として活用された。ブレイクウェルは後に、最も効果的なプレイスメントは常に「(アーティストと受け入れ側を)互いにイライラさせるような議論」12を伴うものであると結論づけている。
 このように、それぞれのケースにおいて、アーティストの専門的技術が社会的課題を解消するための手段として使用されている。これらはまさに、1990年代以降、イギリスが得意としてきた経営コンサルティング企業によるアーティストの起用、クリエイティブ産業や創造都市といった戦略の先駆けであったといえるだろう。
 また、受け入れ先との間で齟齬が生じたケースであっても、それぞれの作家がその結果を自身の作品に昇華させている点は注目すべきである。実際、プレイスメント中の経験を実際に自身の作品へと昇華させた事例は、実は多い。例えば、前述のエヴァンスの《フレーム》やブリスリーの《連結車輪》に加えて、化学企業インペリアル・ケミカル・インダストリーズ(Imperial Chemical Industries)に出向いたレオナルド・へッシング(Leonard Hessing)は、ファイバーの立体作品を、石油会社エッソ(Esso)に出向したアンドリュー・ディッパー(Andrew Dipper)はペルシア湾へのオイルタンカー航行に同行した際のクルーの様子をおさめた8ミリフィルムの映像をそれぞれArt&Economics展に出展している。
 このように、作品制作がプレイスメントの主目的ではないとはいえ、多くの作家がプレイスメント中あるいはそこでの経験に感化されて、自身の作品を制作していることがわかる。しかし、この点は、冒頭で示したAPGの基本理念「自由な職務」、つまりプレイスメント中は必ずしも作品を制作しなくてもよいというモットーとやや乖離してしまったともいえる。この結果、APGの実践とアーティスト・イン・レジデンスとの違いが曖昧になってしまった。当初の目論見に反して、APGのプレイスメントは、受け入れ先から供給された素材や技術をふまえて作家が作品を制作するという予定調和な成果に結実したという批判を招くこととなったのである。Rasmussen (2009)はその意味で、APGは既存の美術制度からは完全に脱却することはなく、あくまでもその内部にとどまりながら変革を試みたのだと結論づけている。

(表1)APGによるプレイスメント一覧

氏名プレイスメント先
ガース・エヴァンズ英国鉄鋼公社(1969-1970)
スチュアート・ブリスリー家具会社ヒール(1970)、ピーター・リー・ニュータウン開発公社(1975)
デビッド・ホールスコットランド放送テレビ局(1970)、英国欧州航空(1970)
レオナルド・ヘッシングインペリアル・ケミカル・インダストリー(ICI)(1970)
ジョン・レイサム全国石炭公社(1970)、クレア・ホール病院(1970)、
プロテウス・ビギング(1973)、スコットランド省(1976)
イアン・ムンロブルーネル大学(1970)、郵便局(1970)
マリー・イエーツブルーネル大学(1970)
ルイス・プライスミルトン・ケインズ開発公社(1970)
アンドリュー・ディッパーエッソ(1971)
デビッド・トゥープエッソ(1971)、ロンドン動物園(1976)
バリー・フラナガン/アラン・シーカーズスコット・バーダー(1971)
イアン・ブレイクウェルイギリス国鉄 (1973)、保健社会保障省(1976)
デビッド・パーソンズイギリス国鉄(1973)
ジョージ・レヴァンティスオーシャン・フリーツ(1974-1975)
ロジャー・コワードバーミンガム市環境課(1975)
ジェフリー・ショウ英国バス公社(1975)
ヒュー・デイヴィス保健社会保障省(1976)
筆者作成(1976)

 
 
3.ヨーロッパ各地での展開
:ブリティッシュ・プラグマティズムとジャーマン・アイデアリズムの共演

 
 1970年代後半に入ると、APGはヨーロッパ各地へ繰り出し、その基本理念である ‘Incidental Person Approach to Government’(政府に向けた付帯する人のアプローチ)を広めるべく、地元のアーティストだけでなく、自治体や中央政府の職員との討論会に参加していく。例えば、1978年にはウィーンのギャラリーで開催されたシンポジウム「アーティスト・プレイスメント・グループ:制度や組織における社会的戦略としてのアート‐政府に向けた付帯する人のアプローチ」(Art as Social Strategy in Institutions and Organisations-The Incidental Person Approach to Government)に参加し、その後リヒテンシュタイン・シティ・パレスにて地元の作家や政府関係者と懇談を行った(図a)。
 翌年1979年にはパリ市立近代美術館で開催されたブリティッシュ・カウンシル主催のシンポジウム‘L’Engineering Conceptuel’の中でプレゼンテーションを行った。続いて、1982年にはオランダ、アイントホーヘンのアポロハウスにて地元の作家と地方自治体職員とのディスカッションを開催。1985年には欧州経済共同体(EEC)から助成を受けてヨーロッパでのプレイスメント・プログラムを設立した。
 このように、ヨーロッパ各地でアートの社会的役割に関する討論会に参加し、行政との対話を促進していったAPGであったが、海外では特にドイツで大きくとりあげられた。既述のように、APG初の展覧会は、1971 年にデュッセルドルフのクンストハーレで開催されたBetween6展であったし、ヨーロッパ初のプレイスメントは1982年にノルトライン=ヴェストファーレン州にて交通安全プロジェクトに参画したものであった。
 その中でも特筆すべきは、1977年のドクメンタ6にて、ヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)(1921-1986) が組織した「自由国際大学」(Free International University)13(図7)への招聘、それに続くボン美術館での個展「アーティスト・プレイスメント・グループ:制度や組織における社会的戦略としてのアート‐政府に向けた付帯する人のアプローチ」(Art as Social Strategy in Institutions and Organisations-The Incidental Person Approach to Government)である。  
 実際にドクメンタでは、政府機関でのアーティストのプレイスメントに関する対話が繰り広げられ、ボンでの展覧会のオープニングでは、当時の教育科学大臣であったライムート・ヨヒムセン(Reimut Jochimsen)(1933-1999)14が主催し、Between6展を企画したデュッセルドルフ・クンストハーレ・ディレクターのユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten)(1895-1952)が司会をした討論会で、ドイツの政府代表者との間でディスカッションが展開された。その後、レイサムとボイスは「プラグマティズムとアイデアリズム」と題した討論会でも同席することとなった(図8)。すなわち彼らの対話は、いわゆる英国実用主義(British Pragmatism)とドイツ観念論(German Idealism)との対抗的エンカウンターとして捉えられたのである。
 同様にビショップも、レイサムとボイスの思想は根本的に相反するものであると述べている。つまり、レイサムは、アート(およびアーティスト)の役割を第三者的な立場(third ideological position)として位置づけている一方で、ボイスは、テクノクラートの存在はあくまでもアートの傘下にあるものであると説く。この意味で、レイサムの思想はボイスのカウンターパートにあるものと言えるのである。ところが、実際のボイスは、レイサムすなわちAPGの思想に対しては強いシンパシーを抱いていた。ドクメンタでの対話の中でも、「付帯の人、Yes。アーティスト、No」15と述べ、APGが提示するアーティストに代わる新たな呼称とその役割について同調している。
 このように、APGの思想は、ボイスとの数奇な共演を果たし、ドイツ政府からも「行政のタスクを実行する際に芸術的専門知識を生かしていく」16という目的で財政的援助を受けることとなった。しかし他方で、地元の作家達の反応はというと、必ずしも好意的なものではなかった。彼らはむしろAPGのアプローチには懐疑的であり、行政の課題解決のために活用される芸術実践の在り方に危機感を抱いたのである。実際、ノルトライン=ヴェストファーレン州でのプレイスメント以降、ドイツでの事例は継続されることはなかった。

(図7)ドクメンタ6「自由国際大学」に登壇するAPGメンバー (1977)
左からイアン・ブレイクウェル、バーバラ・ステヴィニー、ニコラス・トレシリアン、ジョン・レイサム、ヒュー・ディヴィス

出所:Tate Archive
© APG/Tate

(図8)ボン美術館でのシンポジウム「プラグマティズムとアイデアリズム」に登壇するレイサム(左)とボイス(右)(1977)

出所:Tate Archive
© APG/Tate

 
 ここで最後に、欧米各地の同時代的な動きと比較してAPGの特性を再度整理しておきたい。1960年代から70年代当時、産業界や政策領域とコラボレーションを図るアーティスト達の動向は世界的にみて決して珍しいものではなかった。例えば、APGが実際に影響を受けた事例として、アメリカで1966年にロバート・ラウシェンバーグ(Robert Rauschenberg)(1925-2008)とベル電話研究所のビリー・クリュヴァー(Billy Kluver)(1927-2004)によって設立されたEAT(Experiments in Art and Technology)17や、APG設立の翌年1967年にオランダで設立されたイベントストラクチャー・リサーチ・グループ(Eventstructure Research group ERG)がある。また、フランスのシチュアシオニスト・インターナショナル(Situationist International)やニューヨークのアート・ワーカーズ・コーリション(Art Workers’ Coalition)、ドイツのIndustries’Ars Viva Program(Artists in working in Industry)などが存在した。さらに、製造業においても、オランダの電気メーカー、フィリップスがロボットをアーティストと共同開発したり、イギリスでも複数の彫刻家が、製鋼業、ニッケル製造業、グラスファイバー精製業との協働体制を築いていた。
 しかし、これらの事例との最も大きな違いは、APGの実践においては、アートとテクノロジーの協働が、具体的な作品制作や製品開発を主な目的としていなかったという点である(既述のように、プレイスメントに感化されて個々の作家が作品を制作したケースは多々存在したが、それはあくまでも派生的な結果でありAPGが当初目指していた目的ではない)。また、APGは、企業からのいわゆる資金提供というスポンサーシップやパトロネージュにも興味がなかった。つまり、APGの目的は、芸術の社会的役割を再考する行為そのものであり、非美術圏に飛び出し、ある状況に対して徹底的に付帯してみることだったのである。様々な状況に付帯する潤滑油的な役割、第三者的な立ち位置に身を置きながら、アーティストがどこまで組織内の「意思決定」に直接的に関与することができるのか。APGは、芸術実践を社会的な「研究開発」(Research and Development:R&D)の場へと変換させたといえる。この意味でもAPGの実践と今日の議論との間に流れる緊密な鉱脈を見出すことができるだろう。

おわりに:APGへの批判と再評価

 このようにヨーロッパ各地、特にドイツで好評を得たAPGの活動であったが、翻って国内では辛辣な批判に晒されていた。その最も大きな要因のひとつが、APGの政治的中立性であった。APGが提唱する「付帯の人」は、党利党略を超えて「その明白な衝突の場から離れた、第三のイデオロギー的立場を表明する」18のであり、APGが最も関心を寄せたのは、2つの対立するイデオロギーが衝突したときに何が起こるのかということであった。しかし、1960年代後半から1970年代前半のロンドンという街でこのスタンスはなかなか容易には受け入れられなかった。スウィンギング・ロンドンが最盛期を迎える反体制の時代から憂鬱な英国病の時代へと移り行く中で、APGの思想は多分に生ぬるく、ユートピア思想的に映ったのかもしれない。
 さらに、1966年の設立当初から継続的に支給され、APGの資金源の大半を占めていた英国アーツカウンシル(Arts Council Great Britain)からの助成金が、サッチャー政権発足の煽りを受けて1979年に完全に停止となった19。1982年にヨーロッパでの初のプレイスメントを実施し、その活動の拠点を国外へと移す方向へと舵をとったかに見えたAPGであったが、前述のように地元の作家たちからの評判が悪く早々に撤退した。そして、1989年にはO+I(Oraganisation & Imaginationまたは0+1 )に名称を変更した。以降、2004年にテートのアーカイブに関連資料が収蔵されるまで、APGの活動はとりわけ注目されることはなかったのである。政治的な主義主張の弱さ、就労としての成果のみえづらさ、組織運営の不透明さ、ビジネス界や政策領域に積極的にアプローチする胡散臭さ等に加えて、結局アーティスト・イン・レジデンスとの違いが曖昧となってしまったという帰結がAPGの活動を過小評価へと向かわせた。
 しかし近年、若手アーティストやキュレーターを中心にAPGへの評価と関心は高まりを見せている。2012年にロンドンのギャラリー、レーベン・ロウで開催された個展を企画したアンソニー・ヒューデック(Antony Hudek)とアレックス・セインズベリー(Alex Sainsbury)は、APGの活動は市場経済の要請に応える「コンサルタント」あるいは幅広い変化をもたらす「エージェント」としてのアーティストの先駆者であり、スタジオやギャラリーから「プロセス・ベースのソーシャル・エンゲージメント」へと移行したパイオニアであると評している20
 またその展評を美術雑誌Friezeに投稿した批評家のサラ・ジェームス(Sarah James)は、アーティストを一種の労働者として配役しなおしたAPGの功績は、現代の作家達、例えばキャリー・ヤング(Carey Young)、サンティアゴ・シエラ(Santiago Sierra)、ヒト・シュタイエル(Hito Steyel)の実践にもつながるものであるとしている21
 総じて、60年代後半に始まったAPGの実践は、今日の我々にとって非常に耳馴染みのよいものであった。コンサルタントや媒介者としてのアーティスト、プロセス重視の芸術実践、社会的課題を解決するための芸術的専門性、アーカイブ形式/リサーチ・ベースの展覧会そしてR&D(研究開発)としての芸術の役割など、近年興隆を極めている社会関与型芸術のエッセンスの多くを既に体現していたといっても過言ではない。しかし、それら今日の実践との決定的な違いは、産業界や行政との距離の取り方であった。つまり、パトロンと作家ではない、アーティスト・イン・レジデンスでもない、同じ賃金労働下にある「同僚」としてある種過度に接近した関係性を構築したことにある。その一方で、アーティストの自律性に固執し、芸術の道具化に抗った。あくまでも作家性は放棄せず、匿名性を纏うことはなかったのである。APGがあくまでも、プレイスメントつまり就労にこだわったのは、芸術家と社会との間のこの微妙な距離感を模索するための初期設定だったといえるだろう。
 学際的な文脈でのアーティストとエンジニアの協働は今や物珍しいものではなくなったが、既に確立された財源システムのもとである程度制度化されてきたともいえる。特に、この種の「ソーシャル・プラクティス」は本来政治的・経済的不平等に起因して派生している政治的問題を解決するための道具として使用される傾向にあるため、ときに実用主義的あるいは官製アートとして捉えられがちである。しかし、ここでAPGの真髄として再度強調すべきは、彼らが掲げる「自由な職務」は芸術実践の機能化を徹底して否定するということである。むしろ、予測不能かつ無意味な結果をも容認しながら、芸術的研究と制作の自律性を強調し、それによって他の領域に対する純粋な芸術的効果を創出しようと試みたのである。
 芸術の自律性と道具主義との間のジレンマを身をもって体現しながら、「芸術にとって社会と関わることがよりよいことなのか」を問うたAPGの挑戦と葛藤は、まさに「芸術の機能という問題、芸術が社会的使命を持つことの(非)妥当性や多様な評価方法の可能性をめぐる、今日の議論の核心に触れている」22といえるだろう。
 現在でもロンドンではAPGの理念を継承する動きがみられている。例えば、レイサムの意思を継いで2008年に南ロンドンにオープンしたフラット・タイム・ハウス(Flat Time House)では、現在も「付帯するユニット」(Incidental Unit)と名付けられたグループがAPGの方法論を研究・開発する活動を行っている。イギリスで静かに展開している60年代から70年代の芸術実践に対する再評価の動きには引き続き注目していきたい。


1 初期のメンバーとして、ジェフリー・ショウ(Jeffrey Shaw)、バリー・フラナガン(Barry Flanagan)、スチュアート・ブリスリー(Stuart Brisley)、デビッド・ホール(David Hall)、アンナ・リドリー(Anna Ridley)、モーリス・アギス(Maurice Agis)、イアン・マクナルド・ムンロ(Ian McDonald Munro)がいた。彼らは必ずしも国際的に目立った存在ではなかったが、70年代の英国アートシーンにおいては著名な作家であった。1968 年には既に68人のメンバーがいたとされる。
2 (Kester 2013)
3 クンストハーレのディレクターであったユルゲン・ハルテン(Jürgen Harten)(1895-1952)のキュレーションで、他にマルセル・ブロータース(Marcel Broodthaers)(1924-1976)とパナマレンコ(Panamarenco)(1940-)が参加した展覧会であった。
4 実際にディスカッションに招待されたのは、産業界や行政からの関係者であり、一般鑑賞者は参加できなかった。
5 (ビショップ 2016: 266)
6 APGの上層部(APG Research Limited)14名のうち、2名がSirの称号、2名がCBE、2名がOBEを持つ文化行政の専門家であり、Noit Panelは8名のアーティストから構成されていた。その他にもAPG内の役職の多さも組織の複雑ぶりを助長していた(Metzger 1972)。

7 セント・マーチンズの彫刻科で講師として教鞭をとっていた。上述のヘイワード・ギャラリーでのAPGの個展Art&Economics展では、唯一彼だけが館全体におよぶインスタレーションを展示した。
8 (ビショップ2016:264)
9 (ビショップ2016:264)

10 英国内には他にもこのような高度保安病院が4つあり、ブロードモア病院、ランプトン病院、アシュワード病院、スコットランド州立病院があげられる。精神科医や臨床心理士が勤務している。ブレイクウェルは、「実行可能性の研究」の過程で、ランプトン病院にも調査に訪れた。
11 (Breakewell 1980:6) 筆者翻訳
12 (Breakwell 1980:6) 筆者翻訳、()内筆者追加

13 《作業場の蜂蜜ポンプ》(会場中に張り巡らされた長いホースの中に蜂蜜を流し、ポンプ循環させた)の傍らで、100日間におよんで、様々な社会問題を話し合うプログラムが開催された。
14 APGのアプローチをドイツ政府に積極的に紹介した重要人物のひとりである。
15 (Bishop 2010:234) 筆者翻訳
16 (Kunstraum Kreuzberg/Bethanien online) 筆者翻訳
17 アーティストが自分の作品に新しいテクノロジーを使いたいときにアクセスしやすくする目的で、会員向けのニューズレターの発行や、コラボレーション可能な科学者の紹介サービス、科学者によるレクチャーを行った。設立から3年のうちに2000人のアーティストと2000人の科学者が会員として登録。1968年にロンドンのマーメイドシアターにてAPGが主催した‘Industrial Negative Symposium’では、EATのクリューヴァーを招聘している。

18 (ビショップ2016:268)
19 APGの活動資金は、その他にも私的な寄付と受け入れ先からの給与およびマネジメント料によって成り立っていた。英国アーツカウンシルからの助成金は1972年にも「正当なアートよりもソーシャル・エンジニアリングに深く関わっている」という理由で突然カットされている。
20 (Hudek and Sainsbury 2012)
21 他方、彼らは、APG同様に後期資本主義グローバリズムの中で労働者の世界や産業界へと介入する一方で、特にシュタイエルは、「芸術的労働者」というコンセプトをあえて使用し、崩壊を迎えようとしている資本主義の形態を再建する方法に関心を向けているという意味でAPGとは一線を画すと強調している(James 2013)。
22 (ビショップ2016:274)

参考文献
Bishop.C (2010) “Rate of Return: Clair Bishop on the Artist Placement Group” Art Forum, Vol.49, No.2, pp.231-236.
Bishop.C (2012) Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorship, London and NewYork:Verso(大森俊克訳(2016)『人工地獄:現代アートと観客の政治学』フィルムアート社).
Breakwell.I (1980) “From the Inside : A Personal History of Work on Placement with the Department of health and Related work, 1976-1980” Art Monthly, No.40, pp6.
Brisley. S (1972) “No, it is not on”, Studio International, 942, pp.95-96.
Brisley.S, “70’s works, Hille Fellowship”
http://www.stuartbrisley.com/pages/27/70s/Works/Hille_Fellowship/page:4, (参照2019/5/19).
Debatty.R (2012) “The Individual and the Organisation: Artist Placement Group 1966-1979” We Make Money not Art, http://we-make-money-not-art.com/the_individual_and_the_organis/ (参照2019/5/19).
Fuller.P (1971) “Subversion and APG”, Art and Artists, pp.22.
Graham.S (1992) “How the Arts Council destroys art movements” Journal of Art and Art Education, NO.27, PP.1-2.
Hudek.A (2012) “Artist Placement Group Chronology”, http://www.ravenrow.org/texts/43/ (参照2019/5/19).
Hudek.A and Sainsbury.A (2012) “Introduction”, http://www.ravenrow.org/texts/40/ (参照2019/5/19).
James. S (2013) “Artist Placement Group” Fieze, (30 March)
https://frieze.com/article/artist-placement-group (参照2019/5/19).
Kester.G (2013) Conversation Pieces: Community and Communication in Modern Art, California: University of California Press.
Kunstraum Kreuzberg/Bethanien, “Context is half the work”
https://en.contextishalfthework.net/about-apg/artist-placement-group/ (参照2019/5/19).
Metzger.G (1972) “A Critical Look at Artist Placement Group”, Studio International 183, no.940, pp4-5.
Slater.H (2000) “The art of governance: On the Artist Placement Group”,
http://infopool.antipool.org/APG.htm, (参照2019/5/19).
Tate Archive, Artist Placement Group, http://www2.tate.org.uk/artistplacementgroup/default.htm, (参照2019/5/19).
Rasmussen.M (2009) “The Politics of Interventionist Art: The Situationist International, Artist Placement Group, and Art Workers’ Coalition” Rethinking Marxism, Vol.21, No.1, pp.162-172.
Walker.J.A (1976) “APG: The Individual and the Organisation, a Decade of Conceptual Engineering”, Studio International, 191, no.980, pp162-165.


小林瑠音(こばやしるね) 
英国ウォーリック大学大学院ヨーロッパ文化政策・経営専攻修士課程修了(MA)。神戸大学大学院国際文化学研究科博士課程修了。博士(学術)。
2015年度まで浄土宗應典院アートディレクターを務め、劇場型仏教寺院にて現代美術の展覧会や子どもとアートをつなぐ企画の運営等を行う。
専門は英国文化政策、コミュニティ・アート史。

関連記事


「終わってる」アートシーンに革命を起こす?椿昇が欲望するアートのエコシステム

2018年3月19日 京都造形芸術大学美術工芸学科 研究室にて
インタビュー・構成: 島貫泰介
写真: 前谷 開

作品制作だけではアーティストは生活できない、日本でアートは盛り上がらない、というのは何十年も前から言われてきたこと。だが、ここ数年の不況や国際情勢のシビアな変化は、その感覚をより強めているように感じられる。そんな状況のアートシーンでは、コレクターやパトロンの登場を期待する声も少なくないが、果たして今日におけるアーティストの支援者とは、どんな存在としてあり得るだろうか?
京都造形芸術大学・美術工芸学科学科長の椿昇は、アーティストとして自ら活動するだけでなく、教育の場を起点にして、アートを社会に届ける活動を続けている。アーティストが主導するアートフェアのディレクションや、作家自ら市場経済にかかわるためのシステムづくりなどに挑む椿に、「パトロンは必要なのか?」と尋ねてみた。

「パトロン」は時代遅れ


——ズバリ聞きますが、アーティストにパトロンって必要ですか?

椿: いやあ、このインタビューの依頼をもらったとき、頭のなかで「チ〜ン」って葬式の鐘の音がしたね(笑)。クラウドファンディングっていう新しい資金調達方法があって、ビットコイン(仮想通貨)が動く時代に、アートの世界はなんて古色蒼然・旧態依然な考え方をしているんだろう、と。
 日本の教育機関や文化機関がアートマネージメントやエデュケーションを奨励するようになったのはまあよいけれど、じゃあそれは何を目的にして活動しているのか? 正直言って「アートマネージメントのためのアートマネージメント」でしかなくて、それはごっこ遊びでしかない。ファクト(内実)がどこにもない。 
 僕にとってはこの問題はめちゃくちゃ簡単で、単純に「どうしたら(アートで)ご飯を食べられるか?」ってことに集約できる。例えばお百姓さんがかぶらをつくったとして、それをお代官様に納めるのか、それとも道端のお地蔵さんに供えるのか。お地蔵さんはお金を払ってはくれないけれど、心的な充足感が得られるかもしれない。一方、お代官様に納めたところで何もよいことはない可能性だってある。これはあくまで例えだけれど、そういった経済活動の発想がアートには組み込まれてなさすぎるし、アーティスト自身も仮想現実のなかで生きているからアクチュアルさがない。
 かつてヨーゼフ・ボイスは社会変革を目指したけれど、その裏に経済的に支えている第三者がいたからあんなファンタジーを続けられた。だから、アートのファンタジーを成立させるために、誰かが湯水のようにマネーを供給するシステムはそもそも成立しえないんだよ。けれども、その幻想の周辺でアイスブレイクごっこを延々と繰り返しているのが日本なんだ。
 経済が「もの」だけでなく「こと」へもシフトして、実際的な収益がゼロだとしてもそこから何を生むか、どんな市場価値を形成するかを追求する時代に、六本木や代官山に住んで数億円の年収を稼ぐ30代の連中に向けて、アートの人間が「パトロンになってください!」なんて言ったって通用しない。彼らの生活に適合したシステムを構築するか、アーティスト自身がまったく異なるシステムを生み出して提示しなければ、彼らの関心を惹きつけられないという確信が僕の根底にはある。そうやって互いが挑発し合うことで物事は動き出すわけで、やっぱりアートの人はのどかだなって思っちゃうよね。
 

——その考えは、椿さんがアーティストとして活動しはじめた80年代から続くものですか?

椿: 僕のちょっと上が学生運動の渦中にいた「革命の世代」だったから、その影響がとても大きいね。中学2年のときに『毛首席語録』(注1)を読んで、北京放送を聴いて、中国共産党員になりたいと思っていたんだから(笑)。その理想に共感しつつも、もちろんその終焉・失敗も知っている。だから、昔からずっと考えていたのは安易に集団に属さず、アートを含めたシステム自体から逃れることだった。根性がレボリューションだった。
 だから僕の仕事はつねに「Go public」。公共性に向かっている。ビットコインに共感するのも、サトシ・ナカモトって名前を使ったヨーロッパのプログラマーが、危険性があったとしても資本主義に変わる新しい何かを模索しようとして生まれたもののはずだから。国家に管理されず、人が自由に動くためのエンジンとしてブロックチェーンはすごく重要なシステムなんだよ。革命に興味があって、たまたま自分が生まれ落ちてたどり着いた場所が美術。そのなかでのテロ、クリティカルなアクションを考えてきたのであって、じつはアートのために何かしようと思ったことはない!
 

——自分の活動がテロだという発言を、椿さんは頻繁にしていますね。

椿: そうだね。歴史上、あらゆる抵抗はテロ。成功すれば革命と称揚されるけど、失敗すれば単なるテロで終わってしまう。だから、絶対に勝たなきゃいけない。僕は、アートに限らず僕の先輩らが負けて、殲滅され、転向するのを見続けてきた。だからこそ時代を冷静に見て、静かな革命を目指している。自分の周辺のできることから変えていく。僕は異常なくらい現実主義者なんです。
 

——現実主義という観点で言うと、若いアーティストたちは身の丈にあったつつましい生活のなかで制作活動を続けるための手段としてコレクティブ(共同体)を結成する動きを見せたりしています。

椿: それも僕からすると、その原始共同体的なコレクティブのあり方に、現実に対するアクチュアリティの欠如を感じる。自分たちの外に広がるネットワークを切り捨ててしまっている。つまり政治や官とのつながりを拒絶している。それは日本の現代美術の主流の潮流でもあって、日本だけの変な袋小路に思える。美術っていう奇妙なコクーン(繭)に閉じこもって、同業者同士で傷を舐め合っているだけ。日本画の排他性や党派性はよく批判されるけど、現代美術のやつらは連中の悪口なんてとても言えないよ。
 これまでアートの人間は、科学や経済の分野で活動する人たちと互角に戦うための言葉を持ってこなかった。若手・中堅のギャラリストだって「取扱作家です」なんて言って若いアーティストと付き合ってるけど、作品を売れてないじゃない。それは詐欺と一緒だよ。
 

研究室内に並ぶ購入者へ輸送待ちの作品たち

必要なのは作品を「買う」感覚をつくること


——実践の例として、椿さんは先日「ARTISTS’ FAIR KYOT」を開催したり、京都造形芸術大学では卒業制作展での作品販売を行っていますね。

椿: 卒展で作品の売買を始めたのは5年前。授業で国際市場を見据えた価格の付け方や、プライマリー・ギャラリー、セカンダリー・ギャラリーの位置づけなんかを教えて、作家自身が卒業作品に値段をつけるようにした。会場も京都市美術館から大学内に移した。
 最初はいろんな抵抗があったよ。親御さんにしてみれば市の美術館で展示できるのは晴れ舞台だからさ。でも美術館ってだいたい17時で閉まるでしょう。そうすると仕事を終えた購買層は見にくることができないし、その場でパーティーや作品について話してワイワイ盛り上がることもできない。
 僕のイメージしている理想の環境はロンドンのRCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)なんだけど、市場原理に則していくならシステムを全部一新しないといけない。そこでRCAのシステムを踏襲して、協賛企業も自力で見つけてきた。そうやって実際的に動くことで、反応がじょじょに変わってきたんだ。今年は、作品的には少しおとなしめで「販売額が落ちるかな?」と思っていたんだけれど、見に来る人に買い癖がついたからなのか数字はよかった。
 

——卒制作品はどのくらいの値段設定でしょうか?

椿: おおむね4~5万円あたりかな。学外のギャラリーやコレクターも買いに来るんだけど、じつは友だち同士や学生の親が買う。さらに職員、教員も買うようになって、局地的に活発な内需が生まれている(笑)。
 僕が立ち上げたプロジェクトで「アルトテック」(注2)というのがあるんだけど、先日のフェアで売り上げ上位5名はみんなそれにかかわる京都造形大学出身者だった。それはなぜかというと「普通」だからですよ。よい意味での普通さ。アーティストが作品の前に立っていて、作品について喋って、購入者はグッと感動して、パッと買う。アートにつきまとっている気持ち悪いさまざまなものを介さずに、直接人と人とがつながることが、結果的によい数字として現れている。
 日本のなかでアートが認められない理由はいろいろあるけれど、もっとも強調しておきたいのは「みんな作品を買わない」こと。日本のアート産業が盛り上がっているなんて言説もあるけれど、そのうちの半分がポストカード類の売り上げっておかしいでしょ(笑)。世界を見渡せば、アートにおけるBRICs(注3)の台頭が見えてくる。世界のマネーを支配していたアメリカのアングロサクソン系に対して、ブラジル、ロシア、チャイナが戦いを挑んでいる。世界の美術品の売り上げが6兆3000億円と言われているうち、ニューヨークが40%、ロンドンが20%。それに対してチャイナはもう20%に達した。それは、中国人はわけのわからんものでも国内のものであれば買うっていうメンタリティーがあるから。
 ややこしい理由だとか、パトロンの有無だとか関係なくて、日本は単純に作品を買わないから負けていくんだよ。本当なら総売り上げの10%は日本が食い込んでいてしかるべきなのに。
 

——日本の戦後美術、現代美術、古美術は国際的に見て決して評価が低いわけではないですね。

椿: ようするに、90年代以来、国公立の美術館が現代美術を買ってこなかったからですよ。その結果、名和晃平さんをはじめとする日本の作家の作品はみんな海外に買い漁られてしまった。網羅的に集めているのは高橋コレクションくらいで、他はほぼ全滅。僕に言わせるなら、日本美術市場最大の流出が90年代に起きて、それをアート関係者は手をこまねいて眺めているだけだった。古美術であれば、戦前の骨董屋が必死で海外流出を食い止めたのに。
 

——結果、日本の現代美術の国際市場はきわめて小さいままです。

椿: 日本が他の東アジアの国よりも早く近代化を迎えたこともあって、既得権益が巨大化してしまったんだよね。だからいまだに百貨店が強い。でも、ビットコインの時代に藩札を刷っているようなものだから、いつまでもつか。
 僕のところにも学生の作品を催事場で展示しませんか、って誘いがよく来るんだけど、人の気配のない最上階でなんて絶対にアートを見せたくない。2〜3階のハイブランドの店舗が並ぶフロアーで、1000万円以上の作品だけを並べてもいいならやる。そうすることでアートの価値・価格がわかるし、作品を見る人の目も成長する。高級ブランドや高級車以上の価値がアートにはあるんだから。
 

——デパートの顔になるスペースにアートが並ぶ風景は、見てみたいですね。

椿: 僕がさっきアートをBRICsにたとえたのは、もうひとつ理由がある。BRICsの国々は資源を握っている国でしょう。アートに関して言えば、日本はまさに油田。若いアーティストの作品もめちゃくちゃクオリティーが高くて、メタンハイドレードの比じゃないくらい高い価値を持っている。でも、それを見せるためのインターフェースのほうがぼけぼけしているから、みんな見殺しになってしまっている。この現実を変えていかないと。
 

現代のマルキストは、人が想いを寄せ合う社会を目指す


——でも見方を変えてみると、そういう空間をつくって目利きやプレイヤーを育てること自体が、未来のパトロンを育てることにもなるのではないでしょうか?

椿: それはやっぱりパトロンじゃないんだな。そんなかっこいいものではなくて、シンプルに心を寄せ合うことができる空間、システムをつくるってこと。
 聖書に「はじめに言葉ありき」という一節があるけれど、一説によると、そこで言うラテン語の「ロゴス」の意味は言葉ではなかったかもしれない。実際には「想い」という意味だったかもしれず、それは最初にイメージがあってそこに言葉がついていくってこと。日本人は欧米社会を「言葉の社会」と思いこみすぎて、自分の言語化能力の欠如にコンプレックスを抱くけれど、そんな必要はないんだよ。普遍的な「想い」への感覚は普遍的なものなんだ。そしてそれは大勢の人たちのあいだでシェアできる。そういう意味でも現在のシェアリングエコノミーとアートはつながっていると思う。
 パトロンって言葉には、上から目線の感覚があって気に入らないよ。俺が誰かを応援してやるって発想はおっさんぽくて、ある種のハラスメント感があって気持ち悪い。そうじゃなくて、ただ想いを寄せる。肩を組んで、ハグしあう。そういう気持ちのよさが大事。
 

——なるほど。最後の質問なのですが、日本でアーティスト活動していこうとすると、やはり別に仕事を持って制作していくダブルワークのスタイルが現実的に思えます。椿さんは、そのあり方をどう思っていますか?

椿: タイプによる。名和さんやヤノベケンジさんや僕のようなプロジェクト型の作家は、ネットワークを使いながら進めていくので教員や別の仕事をしながらでも成立する。でも、ペインターのような最後まで自分一人でやる職人肌のタイプは制作に専念しないと難しい。作品に向ける時間と執念が薄まってしまうと、クオリティーの低下が明らかだから。
 プロジェクト型の作家も大変なのは同じだけどね。僕は第一回横浜トリエンナーレでバッタのプロジェクトをやるまでは、中高の美術教師としてバスケ部の顧問をやって、担任をやって生き延びてきた。家も裕福ではなかったから、まずは作家活動のための資金源を確保することが最優先で、そのために先生になった。そうやって当座の資金源を得た後は、とにかく寝ずに仕事をした。子どもが生まれた後は、ちょっと田舎に引っ越して、子どもをお風呂に入れて寝かしつけてから零下7℃の環境で朝4時まで制作して、学校行って教えてた。這うようにして生きてた。
 

——過酷ですね!

椿: 大きなシステムに対する敵愾心、カウンターの精神があったからこそできたと思ってる。そしてやはりレボリューション。中学のときに影響を受けた、しかし成就されなかったものの幻影を追い続けているんだ。だから僕にとっての作品は態度(アティチュード)なんだ。何かをつくる、ではなくてどっちを向いて進んでいるってことが僕のアーティストとして存在する意味。
 ARTISTS’ FAIR KYOTOの依頼があったときも、主催の京都府に言ったのは「言うことは何も聞きません。やりたいようにやります」ってことだった。そのかわりに協賛企業も自分で見つけるし、施工も自前でやる。そうやってこれまでやってきたからね。そうしたらこないだの報告会でやたら絶賛された。「放し飼いにしておいてよかった」と言われたよ(笑)。
 

——(笑)。

椿: そういう意味でも、オーガニックなエコシステムの開発が僕のやってること。余計なものをなるべく入れず、直接的な関係性を重視する。だからARTISTS’ FAIR KYOTOでは作品が売れても作家から手数料を取ったりしてない。売れたら100%作家に入る。そのかわり発送とか事務作業も全部作家自身がやるんだけど、もちろんその方法もしっかり教える。今年はフェアと卒制を合わせて売り上げが3000万円くらいあったから、ようやくいろんなものがちょっと変わってきた感じがあるね。
 

——革命の成就が見えてきた?

椿: う〜ん。でも目的地の国際市場まではアンドロメダ星雲くらいの遠さがあるからね。残る手段は宇宙戦艦ヤマトをつくってワープするしかない。空間曲げて追いつくしかない(笑)。何か奇跡を起こさない限りは、アジア諸国とも同じフィールドに立てない。これからの数年の課題はそれ。
 具体的には政治に訴えて、法律を変え、税制を変えたい。そして例えば羽田空港にスタジオ、レジデンス、ギャラリー、ホテルを併設した無税の芸術特区をつくって、そこに世界の富裕層が自家用ジェットで直接やってきて作品を買って帰れるようにする。いま香港に世界の富や知識が集中しているのは、あそこが作品売買において無税だから。もし作品を中国本土で売れば36%課税されるけれど、香港であれば100%作家に入ってくる。中国はそれをうまく使いながら統治をして、ニューヨークから権力を収奪しようとしているんだよ。そんな世界戦略が進む隣で、日本はなんで小学校の敷地に埋まったゴミの話をしているの?
 日本でも名和さんや草間彌生さん、村上隆が東洋の枠組みで利用されているけど、一部のピークだけがあって、裾野への広がりを持ったボリュームゾーンを形成するには至っていない。それじゃあ永久に日本の若いアーティストもギャラリストも食っていけない。僕がやっているのはその裾野づくりだと思っていて、名和さんがピークをつくり、僕は学生の作品を売る環境をつくって裾野を耕していこうとしているんだ。
 

——お話を聞いて思ったのですが、椿さんはヨーロッパ型の左翼なんですね。近年の日本の左翼は現状維持を重んじますが、向こうの左翼はもっと急進的ですよね。社会革新のためには手段を選ばないところがある。

椿: そう! 現実主義だし左翼だしマルキスト(笑)。アーティストも含めた、すべての存在の権威を引っぺがしたいんだな。
 

*注1 『毛首席語録』
中華人民共和国を建国した毛沢東の著作を引用した書籍
*注2 「アルトテック」
若手アーティストの作品を預かり、企業や個人へのリースを代行するシステム
*注3 BRICs
2000年代以降に経済躍進を遂げたブラジル、ロシア、インド、中国の4か国


椿 昇(つばき のぼる)
1953年京都府生まれ。1989年全米を巡回した「アゲインスト・ネーチャー展」、1993年「ベネチア・ビエンナーレ」に出品。2001年「横浜トリエンナーレ」では、巨大なバッタのバルーン《インセクト・ワールド−飛蝗(バッタ)》を発表。2003年水戸芸術館、2009年京都国立近代美術館、2012年霧島アートの森(鹿児島)などで個展。2013年「瀬戸内芸術祭」での「醤+坂手プロジェクト」など、地域ディレクション多数。2018年より「ARTISTS’ FAIR KYOTO」をスタート。現在、京都造形芸術大学美術工芸学科長、教授。

関連記事


千島土地株式会社 代表取締役社長 芝川能一インタビュー

2018年3月9日 千島土地株式会社 オフィスにて
インタビュー同席者:北村智子、木坂 葵(おおさか創造千島財団)
インタビュー:榊原充大 アシスタント:高橋 藍
写真:中谷利明(芝川氏 ポートレート)
写真提供:一般財団法人 おおさか創造千島財団

クリエイティブセンター大阪(CCO)、NAMURA ART MEETING ‘04-‘34、水都大阪へのスポンサードのみならず、設立した一般財団法人おおさか創造千島財団から大阪で活動するアーティストへの助成を2012年度から続けられています。「金は出すけど口は出さない」の言葉通り、アートやアーティストのあり方について多くは語らないものの、話す表情や行間から、アートやアーティストへの信頼や期待が伝わってくるようでもありました。


——芝川社長が芸術に関心を持つようになったきっかけは?
 
芝川:きっかけは2004年に名村造船所跡地で開催したNAMURA ART MEETING【以下:NAM】です。千島土地が貸していた名村造船所大阪工場の土地の返還を受けたのが1988年。当時は不動産バブルの絶頂期を迎える少し手前で、土地は貸したら借りた人のもので貸主には返ってこないと考えられていた時代でした。そんな中で結構な広い土地が返ってくるというので小躍りして、ドックが残ったままで構わないと言ってしまい、本当にそのまま返ってきた。しかしその後の活用方法がなかなか見つかりませんでした。 
それであるとき、劇場プロデューサーの小原啓渡さんに「造船所の跡地は真っ暗で人もいなくて、使い道がなくて困っている」という話をしたんです。彼はこれまで三条御幸町で1928ビルの立ち上げ、「三条あかり景色」等のイベントを運営していて、もともと照明技術者なので「真っ暗」に惹かれるらしい。それで彼が名村造船所跡地を勝手に見に行った。「これは面白いので、1回何かやらせてほしい」と動き出したことがNAMのきっかけでしたね。
 

初代実行委員は小原啓渡、高谷史郎(ダムタイプ)、松尾惠(ヴォイスギャラリー主宰)、木ノ下智恵子(当時、神戸アートビレッジセンター アートプロデューサー)らがチーム。
提供:NAMURA ART MEETING実行委員会 撮影:八久保敬弘

その少し前に扇町ミュージアムスクエアが閉鎖され、つい最近再開したけど近鉄小劇場が閉まり、設置者の勝手な事情でそういう拠点がどんどんなくなっていった時だった。そういう話の中で、NAMを30年続けようという話を含めて初めて記者発表をしたら結構話題になって、全国から人が集まった。「おお、なるほど、こういう世界があるんや。」というのを初めて知りました。

——それまではアートに興味がなかったんですか?

芝川:そう。だから徐々に興味が出てきた。NAM1回目の時に、椿昇さん、五十嵐太郎さん、橋爪紳也さんと話したんだけど、彼らのところにだけどんどん名刺交換の列ができるんだよね。自分は面識なかったけど、人気のある人たちなんだなっていう感覚だった。
 

——これまでどんな芸術支援をしてこられましたか?

芝川:基本的に不動産関連が圧倒的に多いですね。名村造船所跡地をクリエイティブセンター大阪(CCO)に改装したり、同じように借地返還の際に引き受けた旅館建物をアーティスト・イン・レジデンス(AIR)に供したり。AIR大阪がスタートしたのが2008年。それで同じ発想で町全体の空き物件を活用してもらったらどうかという案が出てきて、北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想(注1)が2009年から始まりました。
 

AIR大阪はいわゆるレジデンス事業ではなく、アーティスト向けの宿泊施設。
大阪でクリエーションする時にアーティストは安く長く滞在できた。

実は伏線として、街にあった小さなシモタヤ(注2)はみんな潰して駐車場にしてたんです。いくらでも需要があったからね。そのピークが平成9年くらいで、当時はマイカーを持ってる人が多かった。でも車離れもあってみんなだんだん車を持たなくなってきた。それで小さなシモタヤも空き家で置かれるようになった。そうすると固定資産税は安くできるけど、人が住まないからどんどん朽ちていって結局解体することになる。

じゃあ誰か住んでた方が水も空気も入れ替わるからいいよね、ということで、アーティストに住んでもらおうということになったんです。スキルがあるから自分でリノベーションもできるし、家賃を安くして原状回復しないで出て行ってもらってもいいじゃないかと。KCV構想として、空いてる物件にどんどん入ってもらうようになった。建物はもともと借地人が建てたものなので、家賃は地代+α程度でもいいわけですよ。

それに前後してメセナアワード(注3)の「メセナ大賞」を2011年に受賞した。前例がない中で自分たちが進んでいる方向性は大丈夫かなと常に不安はあったけど、専門の方々から表彰を受けて間違いないということがわかり、さらに活動を加速することになりました。
 

——「不安」な中でも着実に芸術支援をしてこられたのは、どういう思いがあったんですか?

芝川:忘れられない体験があって。2006年にフランスのナントを視察した際に、ロワイヤル・ド・リュクスのパフォーマンスを見たんです。巨大な操り人形が街中を練り歩き、それを見に何万人もの人がナントを訪れる。最後に象と少女の別れのシーンがあるのですが、皆が涙しているのを見て、芸術の人を感動させる力に圧倒されたんです。その時、自分は人を感動させる力はないけれど、その力を持つ人を支援することならできると思ったんです。この体験は今でも私の芸術支援の礎となっていますね。
 

——アーティストとどんな付き合い方をしていますか?

芝川:椿さんとは付き合い長いけど、話が面白いし、アート業界の動向が非常に俯瞰的に見えている。この間も京都造形芸術大学の卒業制作展を見に行ったんだけど、展示している作品を買うスポンサーも見つけいるし。
 

——そうやって情報を得ているんですね。

芝川:だから僕はパトロンというほどのパトロンでもない。プラットフォームをつくっているだけで、特別に個人のアーティストを応援しようという思いはあまりない。買うときもその絵が気に入ったからというよりは、椿さんに「この絵どう?」って聞いたら「ええやん」っていうから買っただけ。だからそんなに特別こだわりはないんです。
 

——買うときは何が一番背中を押しますか?

芝川:縁やね。そういう意味では《ラバー・ダック》を制作したフロレンタイン・ホフマンとのやりとりは印象に残ってる。
 

《ラバー・ダック》水都大阪2009 展示風景

——ラバー・ダックはどういう経緯で実現したんですか?

芝川:「水都大阪2009」(注4)にあわせて初めて展示しました。当初、水都大阪は30億円くらいの予算があって、その設立準備委員会が2006年に海外視察に行くということで同行した時に、ナントの町からロワール川河口のサンナゼールっていう港町まで水に関わる「エスチュエール・ナント – サンナゼール」というイベントが翌年にあって、案内パンフレットにCGでラバー・ダックを河口の元潜水艦基地のところに浮かべるプログラムが載っていたり、その翌年、スペインのサラゴサ万博を観に行くときに、マドリッドのシベーレスに浮かんでいたブサイクなアヒルのオブジェを見ました。その時はただそれだけだったんですが、その後、水都大阪は当時の橋下府知事のちゃぶ台返しがあって、予算が30億から9億になった。それでプログラムの再検討で目玉となるようなアートの企画がなくなって、何か水に関わるものがないかなと考えた時に「アヒルがあるよな」と思っていたら、うちの社員が「あれはオランダにいる作家の作品ですよ」と教えてくれた。それでアムステルダムの取引先経由で連絡して、本人に「会いに行っていいか」と聞いたら「いいよ」と言われ、直接会いに行って、日本でのラバー・ダック展示が実現することになったんです。
 

——つまり制作から関わってたってことですか?

芝川:そう。ナントでは26mの巨大なアヒルをつくったみたいだけど、大きすぎて設置後すぐ破裂したらしい。だから大阪はもっと小さくしたんだけど、やっぱり裂けちゃった。設営初日は非常に機嫌がよかったんだけどね。生地メーカーさんから「首の部分が力学的に弱い」というのは聞いていたんだけど、できるだけシワが寄らないように空気をいっぱい入れてた。それで前夜祭までは無事だったんだけど、翌朝「いつ膨らますんですか?」と電話がかかってきた。その時は既に空気の入れすぎで破けてたんですね。修理しようということで「アヒルは鳥インフルエンザで入院中」ということにして、2週間くらいかけて復元しました。

ただ、物事ってうまくいく時は失敗談も良い方にいくね。当時インスタグラムはまだ無かったけど、観客が写真を撮影して拡散したら、みんな「これはCGや」って思うわけですよ。で、実際に現場に行くとそこにはない。「やっぱりCGや」「いや俺は見た」そういうことが話題になって、2週間後に復活した時には「ほらやっぱりいるやん!」と、一気に人気が出た。水都大阪2009はほとんどアヒルとヤノベケンジさんの《ラッキードラゴン》が話題の中心になってしまった。

その後、アヒルの生まれ故郷のCCOでNAMがあるから水都大阪の会期終了少し前に撤収したら、その後大阪に台風が来た。水都大阪の現場はもう大変だったらしいですが、そんな中アヒルは生まれ故郷でスヤスヤと寝てる。僕は「アヒルは予知能力がある」と言ってるんです(笑)。
 

——すごいエピソードですね。

芝川:それから、子どもたちに「でかい」とか「可愛い」とか、そういう感動がアートの力で引き起こされていることを大きくなっても思い出してもらえるようグッズを売ろうと提案したら、実際には子供じゃなくて大人に人気が出て。作家のホフマンも全く想像してなかったけど、結構よく売れるので、今や展示時のグッズ販売が世界中で定番になってる(笑)。
 

——アートに愛着を持たれて作家さんとも色々向き合っておられますが、そういう中で何か心がけていることはありますか?

芝川:基本的には金は出すけど口は出さない。できるだけ。だから千島財団の助成選考には一切関与しないです。本業の方で儲けて財団への寄付が増えるように頑張ってる。ただ、ハードをつくるときは口出ししますね。例えば千鳥文化の新エントランスはガラス張りにする、っていうのは僕が提案した。建て直すより金かかるけど昭和の匂いを残そう、とか、「喫茶まき」の看板を残そう、とか、そう言う口出しはしてる。
 

大阪・北加賀屋に残る築59年の文化住宅を改修した、クリエイターや地域の人々がゆるやかに交流するスペース。

——芸術支援によって目指すべき理想はどういうものですか?

芝川:理想というより、もともと地主としての危機感がある。間違いなく人口が減るという将来、このまちがどういう姿になるのかと想像してみると、なんの特色もなければ滅びていくだろうなと。今ここで見ている景色は戦後70年くらいの間にできた景色であって、あと70年くらいすると大阪の人口なんて戦前と同じくらいに減ってしまう。KCV構想やNAMが話題になったから、その延長線上でこのまちに特色をつけていこうということで今取り組んでいますね。
 

——実際に空き家率が減ったなどの効果はありますか?

北村:劇的に減ったかといわれると難しいんですが、今アーティスト向けに貸している物件が40軒くらいあるんですね。その40軒は放っておいたらお客さんがつかなかったであろう物件です。風呂がないとか、相当な投資をしないといけないような物件。そんなところにアーティストが入ってコツコツと直してもらって使えるようになっている。その上で私たちは家賃をいただいてるので、収入が発生するようになったという成果はありますね。
 

——会社の事業の中での利点は確実に存在しているということですね。こんなアーティストがいたらいいなと思う方はいますか?

芝川:そういうの、あまりないな。コレクションももっと系統立ててせいと怒られる。気まぐれでやっているから(笑)。ただ、時にはパトロンに対して自分を戦略的に売り込む必要もあるのでは?ダヴィンチとかミケランジェロは間違いなく当時のローマ法王とかメディチ家とかに戦略的に近づいていたはず。

例えば東京画廊の代表、山本豊津さんの本なんかを読んでいると、「売れないと意味ないよ」とはっきり言い切っているね。「1回目の個展は安くでいいから全作品売り切れ」と言う人もいる。売り切ってからそれがセカンダリー・マーケットに出てくる時にだんだん値打ちがつく。その辺が値付けもアーティストには難しいから。しばらくほっといたら売れるようになるんじゃないかとは思ってるんやけど。
 

——アーティストの金銭感覚についてはどう思われますか?

芝川:金銭感覚はないというと失礼だけど、やってるうちに自分の中でどんどん広がっていくから当初の予算よりもどんどん膨らんでいく。

森村泰昌さんが制作のために北加賀屋に通われていた時期があって、来るたびにどんどんつくりたいシーンが増えていったらしい。やっぱりアーティストは最初に決めた枠の中に収まらず、どんどんはみ出ていくから、周りは大変だと思う(笑)。
 

2016年に開催された国立国際美術館での個展のため、映像作品の撮影と展示の大半を名村で実施。
森村泰昌アナザーミュージアム 展示風景
提供:NAMURA ART MEETING実行委員会 撮影:仲川あい

芝川:CCOで開催されたDESIGNEASTで、イタリアからエンツォ・マーリが来た時も面白かった。彼が来る前、実行委員のひとりに「芝川さん、彼の機嫌が悪くなったら困るから写真撮ったりしないでくださいね!」って言われていた。でもマーリさん、来た途端に会場の名村造船所跡地を見てテンションが上がって「思っていたのと全然違った。持って来たプレゼンテーション全部捨ててもう一度ゼロからやるから、これとこれを用意せい!」とか言って。その後女の子が写真撮ってもニッコニコしてて、「最初に言うてたこととちゃうやん。」て(笑)。場の力によって気分も変わっていくというのは、やっぱりCCOがポテンシャルを持っているのかなとは思うね。

——倉庫をそのまま展示空間にもするというMASK(MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)のアイデアも画期的ですよね。

北村:大型作品作っても保管する場所がない、というのは、それまで色々なアーティストから言われていて。でもただ単に作品を預かるだけでは我々にとっても地域にとってもメリットがないので、保管は無料だけど作品公開の際には協力していただくということを条件にしました。その大枠を作った上で、アーティストのヤノベケンジさんやキュレーターの木ノ下智恵子さんに相談にのっていただき、プロジェクトを具体化しました。

CCO近くに空いた大きな元鉄鋼倉庫を、不動産事業用物件とせずKCV構想の盛り上がりに合わせて大型美術倉庫にしよう、というアイディアからのスタート。2010年頃から構想が始まり、公開は2014年から。
撮影:仲川あい

芝川:近所の小学校の授業にも組み込んでもらっています。京都造形芸術大学ASP学科と連携して、1年生から6年生までに作品の見方のレクチャーをした後、実際にMASKに来てもらってワークショップをやったりしています。
 

北村:そうすると子どもたちも覚えているので、すみのえアート・ビート(注5)やMASKの公開時にリピーターとして家族を連れて来てくれるんですよね。
 

芝川:子どもたちが「アートの町や」って言ってるんやろ?
 

北村:「北加賀屋ってアートの町なんでしょ?」って。MASKについてさらに言うと、やなぎみわさんのトレーラー作品の関係で演劇の稽古場として使われたり、作品制作の場所としても活用しています。企業が運営している財団で、このような産業遺構を大型作品の保管・展示空間にしているのは珍しいですね。
 

芝川:やなぎさんのトレーラーの件も傑作やったな。「横浜から持ってこれへん」って。
 

《日輪の翼》大阪公演 撮影:仲川あい

北村:横浜トリエンナーレでの展示後、MASKの展覧会オープニングに合わせて持ってきていただく予定だったんですが、トレーラーが仮ナンバーなので大手の運送会社が移送を引き受けてくれない、と。それでアーティスト側が「さあ運べない、どうしよう」と困っていたんですよね。
 

芝川:みんな難しい顔してたから、「そんなんすぐ頼んだる」って地元の関係先にお願いしたら、パッパッと決まって取りに行ってくれた。それで南港の運送会社のおっちゃんがやなぎさん専属みたいになってしまった。トレーラーが舞台となる『日輪の翼』公演の最後、トレーラーが夜の闇の中に消えて行くんです。おっちゃんが運転してるんやけど、アーティストの気分になったみたいで、「片輪走行してもええですか?」って言ったらしい。彼はどこの展示にも行ってるから見てる中で「俺もいっちょ」って気分になってるんやろね。それは面白いなと思う。普段アートに関係無い人に、そういう変化を及ぼすのは、アーティストの大きな力だと思う。私も含めてね。
 

*注1 北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想
北加賀屋エリア(大阪市住之江区) を創造性あふれる魅力的なまちに変えていく試みとして、小原啓渡氏が2009年に提唱
*注2 シモタヤ
店じまいをして住宅としてつかっていた家のこと
*注3 メセナアワード
企業によるメセナの充実と社会からの関心を高めることを目的に、公益社団法人 企業メセナ協議会が1991年に創設
*注4 水都大阪2009
「水の都・大阪」の魅力を広く伝えるためのシンボルイベントとして、2009年に大阪府、 大阪市、経済界、市民が一体となって開催
*注5 すみのえアート・ビート
近代産業遺産である「名村造船所大阪工場跡地」を舞台に、アート・食・農を楽しめるイベント。地元の行政、住民、アート関係者、企業が実行委員会を組織し、一体となって企画運営している。


芝川 能一(しばかわ よしかず) 
昭和23年兵庫県生まれ。昭和42年甲南高校卒業。昭和47年慶応義塾大学経済学部卒業後、住友商事㈱入社。昭和55年千島土地㈱入社。平成17年代表取締役社長に就任、現在に至る。千島土地㈱は江戸時代から続く豪商 百足屋(芝川)又右衛門の資産を引き継ぐ不動産会社で、現在は土地・建物の賃貸に加え航空機リースも手掛けるほか、所有不動産周辺エリアのまちづくり活動にも積極的に取り組んでいる。

関連記事


HAPSウェブサイトがリニューアルしました

新しいウェブサイトがオープンしました。

関連記事


[締切] 一般社団法人HAPS 事務局職員を募集します

HAPSオフィス外観(撮影:前谷開)

HAPSオフィス外観(撮影:前谷開)

一般社団法人HAPSでは、事務局職員を新たに募集します。2011年から京都市の計画に基づき「若手芸術家等の居住・制作・発表の場づくり」事業や「文化芸術による共生社会実現に向けた基盤づくり」事業等に取り組んでいます。HAPS事業を遂行していく上で必要な経理業務および事業運営に従事可能な方を募集します。

募集内容

【主な職務概要】
(a)経理・税務業務(経理ソフトを用いての入力作業、伝票・書類作成・管理、出納管理、税理士との連絡調整など)
(b)総務・労務業務(保険手続、給与計算、書類作成など)、その他HAPS事業の運営にかかる業務 等

【採用・勤務条件】
採用予定日:2023年9月1日(金)(応相談)
雇用形態:契約職員(有期契約) 
採用予定数:1名
勤務地:京都市東山区

【応募資格】
・事務・経理業務の経験を有すること
・パソコンを使用した事務業務が可能であること(主な使用アプリケーションソフト:Word, Excel[基本的な関数程度]等)
・HAPSの活動および芸術・文化に関心があること
 ※3年以上の社会人経験者が望ましい

次のいずれかに該当する方は応募できません。
・成年被後見人又は被保佐人(準禁治産者含む)
・禁固以上の刑に処せられ、その執行を終わるまで又はその執行を受けることができなくなるまでの者
・日本国憲法施行の日以後において、日本国憲法又はその下に成立した政府を暴力で破壊することを主張する政党その他の団体を結成し、又はこれに加入した者

【雇用期間】
採用日〜2024年3月31日
※試用期間2ヶ月/契約更新の可能性あり

【勤務条件等】
給与:月額211,000円
※時間外勤務手当等の諸手当は当団体規程による
※公共交通機関利用時、規程に準じて通勤手当を支給
※雇用保険、労災保険、健康保険、厚生年金保険加入。定期健康診断あり

勤務時間:9時30分〜18時(1日7時間30分勤務)
※休憩1時間、イベント開催時等に変動あり
※変形時間労働制を適用

休日・休暇:週休2日(日・月曜日。祝日/イベント開催時等に変動あり)
※夏期休暇(5日間)、年末年始、有給休暇、慶弔休暇、産前産後・育児休暇、介護休暇あり(当団体規程に準ずる)

応募方法

1~2までの書類を郵送またはメールで提出してください。
1.履歴書(書式自由、顔写真は3か月以内に撮影した無修正のカラー写真を貼付)※連絡可能なメールアドレスを明記ください。
2.職務経歴書(書式自由、A4サイズに統一)

※送付先
メール:info@haps-kyoto.com(書類はPDFファイルで添付してください)
郵送:〒605-0841 京都市東山区大和大路通五条上る山崎町339 一般社団法人HAPS宛

応募締切:2023年8月18日(金)必着

【選考と結果】
・一次選考(書類) 選考後に結果を通知します。
・二次選考(面接) 一次合格者のみ下記のいずれかの日程に面接を行います。
 2023年8月23日(水)-25日(金) *オンライン可
・選考結果の通知 2023年8月29日(火)頃

【その他】
・応募資格及び記載事項等虚偽があった場合は、合格を取り消します。
・応募書類は職員採用選考の目的のみに使用します。なお、応募書類は返却いたしませんのでご了承ください。

応募・お問い合わせ先

一般社団法人HAPS
TEL: 075-525-7525 FAX:075-525-7522 E-mail: info@haps-kyoto.com

関連記事


【協力イベント】いきいき楽ちゃんフェスティバル 楽し夏祭り

HAPSスタジオ使用アーティストの三枝愛(禹歩)が、
「いきいき楽ちゃんフェスティバル 楽し夏祭り」に「紙屋川コーナー」のブースを設けます。

概要

いきいき楽ちゃんフェスティバル 楽し夏祭り

日時:2023年8月12日(土)17:00~21:00 ※小雨決行、雨天の場合は多目的ホールにて実施
会場:楽只保育所 園庭(京都市北区紫野西舟岡町2)

三枝愛(禹歩)は、紙屋川(現在の天神川)でかつてつくられていた和紙のリサーチを「紙屋川を漉き返す」と題して行っています。現在は11月に紙屋川で紙漉きを行うことを目標に、楽只児童館の子どもたちと和紙の原材料となるトロロアオイの栽培を進めています。
今回、元楽只(らくし)小学校跡地の楽只保育所園庭で開催される「いきいき楽ちゃんフェスティバル 楽し夏祭り」に「紙屋川コーナー」のブースを設け、紙屋川だよりの号外配布と、トロロアオイの葉をモチーフとした手ぬぐいの販売を行います。手ぬぐいの売り上げは「紙屋川を漉き返す」の活動資金として活用いたします。みなさまのご来場をお待ちしております。

アーティストプロフィール

三枝愛(みえだ あい)
アーティスト。1991年埼玉県生まれ。京都を拠点に活動。2018年東京藝術大学大学院美術研究科油画専攻修士課程修了。近年の主な活動に、2022年「ARTS CHALLENGE 2022」(愛知芸術文化センター/愛知)同展では沢山遼賞、竹村京賞をダブル受賞。2021年「ab-sence/ac-ceptance 不在の観測」(岐阜県美術館/岐阜)、「A Step Away From Them 一歩離れて」(ギャラリー無量/富山)、個展「尺寸の地」(Bambinart Gallery/東京)、「沈黙のカテゴリー | Silent Category」(Creative Center OSAKA/大阪)など。

禹歩(u-ho)
島貫泰介(美術ライター/編集者)、三枝愛(アーティスト)、捩子びじん(ダンサー・振付家)によるリサーチ・コレクティブ。ギリシャ悲劇『アンティゴネー』、大逆事件、葬送をテーマにリサーチを行い、そこから得た/派生した知見を作品化してきた。2021年度から京都市内のHAPSスタジオ使用者に採択され、活動を続けている。

関連記事



HAPSについて | アーティスト支援 | アートと共生社会
お知らせ | 相談・お問い合わせ | アクセス
サイトマップ | プライバシーポリシー



JP | EN

© 2014- 2025 一般社団法人HAPS