僕は建築のいらない世界をずっと夢見てきた。:岡啓輔インタビュー

 
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小川てつオ君はサラリーマンを僕が辞めて東京でふらふらしていた頃、知り合いました。遊びにいった友人宅で、突然僕の顔に小川君が絵を書きはじめて、このまま原宿にいってライブやる、とか言い出す人でした。何だこれは?と思いつつ惹かれていくものがあり、後々、二人で美術のことをやるスペースをつくることになります。『岡画郎』(*2)と名付けました。
 
ぼくの中の迷いがあちこちに飛散して、またいろんな人が、こっち来いよとか、引っ張られたりして、わかんないけど舞踏とかもはじめちゃったりしました。
 
踊りとか不得意で、体育や音楽は通信簿が1とか2なんです。自分でもわけがわからない。でもこういうことに誘われるんです。こうして、少しずつ、表現をする人たちと関わりあいを持つことになっていきます。
 
自分ではできない「表現する」という部分にぐいぐいひっぱっていかれる感じがあって、それはそれで僕なりにがんばってみました。
 
でもあるとき駄目になっちゃうんですよ。
 
それは、建築のデザインを消して透明な浮いてるようなものをつくったときに、自分でも気が付いてしまったことがありました。僕はいい建築をつくりたくて、デザインをしたくて生きてきたはずなのに、一番大好きな建築を消すところまで来てしまった。こんなところまで逃げてきちゃった。何やってるんだというような思いがありました。
 
またその頃、型枠大工とそのあとに住宅メーカーで大工をして働いていたんですけれども、建築材料に含まれている化学物質で身体の調子がおかしくなってしまい、化学物質過敏症になってしまいました。
 
31、2歳の頃に身体がぼろぼろになっちゃったんです。真夏に暖かいお風呂にはいって震えてるんです。手足は痺れが来て、仕事で化学物質をいっぱい吸った次の日とか電車の乗り方もわからなくなるんです。頭にも来てるんですよ。あれ、切符ってなんだっけ?駅で立ち止まって、あれ、どうやって切符買って乗るんだ?という状態です。そのころは本屋さんにも行けない。本の接着剤のノリとかインク匂いとかでガタガタになってしまうんです。ぼろぼろでした。
 

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