”命の砦”に生きた歌人、政石蒙の足跡を辿って

 

山川冬樹

1.瀬戸内:2016年08月27日

 
 

1.瀬戸内

 

 視界いっぱいに広がる青、青、青…。いつも瀬戸の海は訪れる者の網膜をその豊かな青のグラデーションで満たしながら優しく迎えてくれる。青色の虜となった画家は多いが、ここの青はどんな絵の具をもってしても再現することはできないだろう。そんな格別な青の中を高松港から船に乗って揺られること二十数分、北東へ約8キロの位置に「大島」と呼ばれるひょうたん形をしたその小さな島はある。
 
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瀬戸内海に浮かぶ大島(写真中央)

 
 「国立療養所大島青松園」。大島は島全体が国立のハンセン病療養所となっている。現在では瀬戸内国際芸術祭の会場の一つにもなっている大島青松園だが(*1)、離島ということもあり、特別な目的がなければ普段はあまり訪れることのない場所であろう。その歴史は古く1909年に中国・四国8県の連合県立で「第四療養所」として開所、翌年「大島療養所」と改称。さらに1941年には所轄を厚生省に移管し「国立らい療養所大島青松園」となり、そして1946年に「国立療養所大島青松園」となって現在に至る。 
 
 かつて国はハンセン病を患った人たちを全国各地の”療養所”と呼ばれる施設へと、警察権力によって強制的に収容した。もともと「らい菌」の感染力は極めて弱く、発症しても自然治癒するケースもあることが知られており、さらに1947年には特効薬プロミンが国内に入ってきていたにもかかわらず、国は戦後何十年にもわたって不当に隔離を続けた。「隔離する=isolate」という言葉の語源には「島=isle」があるというが、周りを海に囲まれたこの大島ほど「隔離」という言葉を象徴してきた島もないだろう。今ではアート作品を観に人々が訪れるようになったこの美しい島で、かつてたくさんの人の自由が、そして未来が奪われた。過酷な労働に従事させられ、家族との絆も断たれ、絶望して自らの命を絶った人がいた。子孫をつくることも許されず、非道な断種手術・堕胎手術が強いられ、生まれてくることができなかった命があった。亡くなると多くの人が解剖台の上で解剖され、骨になっても故郷に帰ることができなかった。
 
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左:島で生きた人たちの遺骨が納められている納骨堂
右:2010年に「やさしい美術プロジェクト」の高橋伸行によって海から引き上げられた解剖台(写真提供:高橋伸行)

 
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島の北の山から南の山をのぞむ。

 
 1996年、90年にも及ぶ強制隔離政策は「らい予防法」が廃止されることでようやく終わりを迎えた(*2)。現在、大島青松園には平均年齢83歳になる63人の方が穏やかに暮らしている。今はもう自由に島の外に出られるので、船に乗って島外のゲートボール大会へ出かける元気な方もある。全員とっくに治療を終えているため、もうここには「患者」はいない。しかしこうしたかつてハンセン病だった人たち(*3)のことを、テレビや新聞では「元患者」と呼ぶ。病が治ってからも「元患者」などと呼ばれ続け、かつて患った過去の病がその人のアイデンティティであるかのようにクローズアップされて語られるのはハンセン病だけである。治療法も確立され、新たに発症する患者もいなくなり、それが完全に過去の病となった今、この国では”ハンセン病”とはもはや肉体の病そのものではなく、病が治ってからも消えないスティグマ―社会から個人に押し付けられた負の烙印―となっている。
 
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らい予防法御署名原本 国立公文書館蔵

 
 
 ようやく近年になって国の強制隔離政策が誤ちだったという認識は世間一般に定着してきたが、かつてハンセン病だった人たちや、その家族への偏見が消えたわけではない。家族に迷惑がかかるなどの理由で未だ多くの人が本名を伏せて生活し、故郷に帰れないでいるのが実情だ。確かに露骨に差別的な言動をする人に出くわすことは少なくなった。しかし何気ない日常会話のなかで、しばしば無自覚な偏見が根強く残っているのを感じることがある。それらの偏見は、自分たちとかつてハンセン病だった人たちとの間にはっきりと境界線を引きながら、彼らを”同情すべき不遇な弱者”としてひと括りにカテゴライズする点で共通している。こうした無自覚な偏見は集団意識のなかにコードとして組み込まれ、忌避の空気を醸成し、さらに日本のムラ的なメンタリティがそれを促進しながら、集団意識のなかに見えない制度や規範をつくり出していく。一方で逆にがちがちに凝り固まった過剰な”配慮”が壁をつくってしまうこともある。また時に「差別が存在している」という事実を指摘することが、いつの間にかその差別を消えにくくしてしまうことさえある(その意味でこの文章もその危険を孕んでいる。しかしそれでも私は書かなければならない)。強制隔離を定めた法が廃止されて20年経った今も、目に見えない隔離は続いている。スーザン・ソンタグはその著書『隠喩としての病』のなかで、病が持つ肉体的・医学的側面とは別の「隠喩=メタファー」としての側面を鋭く指摘してみせたが、すべてのハンセン病が肉体的に完治しても、「隠喩としてのハンセン病」が完治しなければ、社会意識のなかで未だに続く「隠喩としての隔離」も終わらないだろう。
 
大島より対岸にのぞむ高松の灯。

大島より対岸にのぞむ高松の灯。

 
 肉体的なハンセン病にはプロミンやDDSが特効薬となったと聞くが、「隠喩としてのハンセン病」に効く薬とはなんだろうか。そもそも「隠喩=メタファー」とは単なる文彩ではない。それは人間にとって世界を抽象的に把握し、理解するための基本的なイメージの作用である。集団意識によってつくり出された世界がそう簡単に変わらないのも、煎じ詰めればその集団を構成する人間一人一人のなかの基本的なイメージの問題に行き着くだろう。ならば「隠喩としてのハンセン病」に対して効果を発揮し得る”薬”とは、従来の基本イメージを解毒し得る、また別の強いイメージということになるはずだ。思い返してみるとこうしたハンセン病をめぐる”イメージの薬学”には前例がある。かつてハンセン病だった人たちの粘り強い運動によって、この病の呼称が「癩病」から、らい菌の発見者アルマウェル・ハンセン医師の名前にちなんで「ハンセン病」と改められたとき(*4)、カタカナで書かれたその新鮮なイメージは、やたらと画数の多い「癩」という字にこびりついた隠喩、すなわち「業病」や「仏罰」、「不浄」や「穢れ」、「不治の病」といった非科学的なおどろおどろしいイメージを解毒する”薬”として人々の心理に作用したのではなかったか。ハンセン病はその時はじめて、純粋に医学的な「病」の一つとして認識されるようになったのかも知れない。
 
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らい菌の発見者、アルマウェル・ハンセン医師(ノルウェー/1841-1912)

 
 しかし旧来のおどろおどろしい隠喩が解毒され、肉体的にもとっくに治っているにも関わらず、かつてハンセン病だった人たちは、いまだに過去の病にしぶとくこびりついたネガティブな隠喩に苦しめられている。大島青松園に入所されている方々ももうかなりの高齢だ。時間がない。このままでは彼らはネガティブな隠喩や負の烙印を負わされたまま、いまなお続く「隠喩としての隔離」から解放されずにネグレクトされ、忘却され、存在しなかった人として歴史に埋もれてしまうだろう。今ここで必要とされているのは、私たち一人一人の意識のより深いところに作用し、あらゆる隠喩を暴露するような、人間の剥き出しの命の力であり、さらにそれを実感ある形として広く伝達し記憶するための術である。
 
 こうした命と呼ばれるものの得体の知れない力や、他者との間に共振を生みながらそれを記憶していく術を扱う分野といえば、芸術をおいて他にないだろう。現に瀬戸内国際芸術祭で大島が会場になっていることの意義はここにある。ここでの芸術は大島が持つネガティブな隠喩を更新し、閉ざされた島を開き、出会いをもたらし、この島で生きられた命の力を広く伝達し、記憶していく役割を求められている。この点において大島でのプロジェクトは、いわゆる観光客を呼び込むことで経済の活性化をめざす行政主導の”地域アート”的な”町興し”とは根本的に異なっている(*5)。芸術はここで人間の尊厳に関わる極めて切実な使命を負っているが、それは芸術が単に差別や偏見をなくすための道具として使われるということではない。なぜならこの島で芸術に期待されているのは、有用性や実利といったレベルの「役割」ではなく、人間が人間として生きるために不可欠な活動として、芸術自身が自らの原点に立ち返ることだからだ。
 
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左:政石蒙歌集『乱泥流』1964年 大島青松園入所者自治会図書室蔵
右:瀬戸内国際芸術祭2016ポスター

 

 瀬戸の海に囲まれたこの小さな島は、もはや”隔離の島”ではない。島に生きた人たちが自らの尊厳をかけ、執念で築き上げた”命の砦”なのである。かつてこの”命の砦”に生きた芸術家たちがいた。哲学者たちがいた。革命家たちがいた。彼らは歴史に埋もれているが、表現とは何か、創造とは何か、国家とは何か、法とは何か、平等とは何か、自由とは何か、尊厳とは何か、生とは、死とは、私たち人間とは何なのか…、これら根源的な問いの答えを誰よりも命がけで追い求めてきた偉大な精神である。私はこの”命の砦”に足を踏み入れた芸術家として、子孫を残すことを許されなかった彼らの”文化遺伝子”を受け継がなければならないだろう

 
大島よりモンゴルの方角をのぞむ筆者。

大島よりモンゴルの方角をのぞむ筆者。

 

 ”命の砦”に通ううちに私はある人物と運命的な出会いを果たした。その人の名は「政石蒙」。愛媛県は松野町に生まれ、戦時はモンゴルに抑留され、ここ大島でその生涯を終えた歌人である。私は歴史に埋もれた彼の命の痕跡を拾い集めるために、瀬戸内海に浮かぶ小島から、モンゴルの草原へ、さらに奥伊予は松野の里山まで出かけていくことになるのだった
 

(この項つづく)

 


 
(*1)かくいう私は今年の瀬戸内国際芸術祭の秋会期に、参加アーティストとしてここ大島で作品を発表する予定である。秋会期は10月8日(土)から11月6日(日)まで。http://setouchi-artfest.jp/
 
(*2)1931年、「癩予防法」の施行によって、国は日本中すべてのハンセン病患者を強制的に隔離できるようになった。そして1953年、患者たちの猛反対を押し切り「癩予防法」を一部改定する形で「らい予防法」が成立。戦後の民主化の流れに逆行して強制隔離が続けられた。「らい予防法」は1996年に廃止、2001年には熊本地裁判決で強制隔離の違憲性が認められ、国は控訴を断念、謝罪した。「らい予防法」に反対し、人間回復を求めて立ち上がった患者たちによる「らい予防法闘争」は、ハンセン病史に留まらず、日本の近現代史において最も重要な市民運動として記憶されるべきであろう。
 
(*3)言葉とはある対象を抽象/捨象し、記号的に整理することで他者へ伝達可能にするテクノロジーであるが、私はこの文章を書くにあたって「元患者」という単語を、多少回りくどくなったとしても「かつてハンセン病だった人たち」とセンテンス化することで、その人とその人の属性を分離し、可能な限り「元患者」という単語がもつ記号性を解体したいと思った。
 
(*4)1952年「全国国立癩療養所患者協議会(全癩患協)」は政府に対し「癩病」を「ハンゼン氏病」と改めるように要望。翌年「全国国立癩療養所患者協議会」は「全国国立ハンゼン氏病療養所患者協議会(全患協)」へと改称するも、厚生省は「癩」をひらがなの「らい」に変更するのみに留まった。当初はドイツ語訳の影響で「ハンゼン氏病」と濁音表記になっていたが、1959年、全患協はより英語読みに近い「ハンセン氏病」に改称。さらに1983年には「ハンセン病」と改称し現在に至る。以後も厚生省や日本らい学会は「らい」という名称を使い続けたが、1996年の「らい予防法」廃止を受けて、官民ともに「ハンセン病」が正式な名称となった。
 
(*5)北川フラムは瀬戸内国際芸術祭の総合ディレクターを引き受けるにあたり、大島を会場の一つとすることを条件にあげたという。
 


山川冬樹(やまかわふゆき)
 現代美術家/ホーメイ歌手。 1973年、ロンドン生まれ。横浜市在住。音楽、美術、舞台芸術の分野で活動中。主な作品・展覧会に 『山口小夜子 未来を着る人』展(2015 東京都現代美術館 東京)、『コレクション・ビカミング』展(2015 東京都現代美術館 東京)、『札幌国際芸術祭2014』(札幌駅前通地下歩行空間 北海道)、『Omnilogue:Your Voice is Mine』展(2013 NUSミュージアム シンガポール)、『3.11とアーティスト 進行形の記録』(2012 水戸芸術館 茨城)、また、横浜文化賞 文化・芸術奨励賞(2015)、ユネスコ主催 第4回国際ホーメイフェスティバル アヴァンギャルド賞(2003)を受賞している。
『瀬戸内国際芸術祭 2016』では、大島にてインスタレーションとラジオ放送から成る新作を公開予定。
 
 

2016.08.31

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