『表現と倫理の間で』


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河本
今日は、記録担当として参加していて、黙っているつもりだったんですが、ブブさんに私も聞きたいことがあるので、質問してもいいですか?
 
ブブ
はい、ぜひ。
 
河本
先ほどからの話で、もし自分が若い人の立場だったら、どう思って聞いてるかなと想像しながらですが、たとえば、若い人が社会性がないという話については、いやいや、上の世代の人をみてて、「ああはなりたくない」と思うから、こうするんだよという理屈もあってもおかしくない気がします。
 
ブブ
そうですよね。さっき遠藤さんが指摘されたように、若い人が自分をマイノリティだと思わざるえない、そうでしか生き延びることができない、という状況はあるかもしれない。それは、個人が肯定される感覚の危機というか、一人一人の生き辛さという問題ですね。マイノリティというのは社会的な構造の問題ですが、個人の生き物としての基本的な生きづらさと、社会的なマジョリティ・マイノリティの構造の問題とは、まずは分けて考えたいと思います。
 
山田
先程も言いましたが、アーティストが自分を最強のマイノリティだと思うのは、要するに妄想ですよね。それはネトウヨが外国籍住民に対して抱くのと同じ種類の妄想だと思います。
 
ブブ
妄想だと言い切りたいです。でも本人たちにはそれが通じない。その時に、「それは妄想やで!」と言い続ける人と、「なんで妄想なのか一緒に考えよう」という人が居て、私は、ネトウヨというかレイシストに関しては、後者は今はあかんと思っています。なぜなら、その妄想は具体的な被害を生んでいるからです。まずはそれをやめさせないといけない。なんでもかんでもマイノリティと名付けたらあかん。ワタシの思い、オレの思いというのは、さっさと捨てる。それが芸術においても基礎教育のレベルだと思うんです。あなたが思いついたことはすでにもう何千年も前にすでに誰かがやっていると。魂の叫びみたいなものをまず捨てるのが基本やと思います。私の魂の叫びを聴けというのは芸術でもなんでもないです。
 
山田
でも妄想はスクスクと育つわけです。今回の件で、京都市立芸大も何か対応を考えているかもしれません。何かステートメントがでてくる可能性もあって「この度はお騒がせして申し訳ありません、以上」みたいなこともありえますよね。一方で違うやり方もある。それこそ20時間話しをし続けようよというような開かれた可能性のある場をつくるということもできる。それは技術ですよね。妄想を断つ技術。そういう技術のバリエーションのなさというのが気になります。やはり経験したことがないからですよね。
 
ブブ
経験したことがないということに対する危機感がないんだと思います。
 
山田
でもそれはすごくあやうい状態です。
 
ブブ
誰かがそれを伝えないと。それはショックを伴うと思いますが。
 
山田
私は23才くらいのときに徹底的に訓練されました。ものすごく学んで、いろいろな経験をしました。徹底的に批判もされ、論争の矢面に立たされ、自己批判を迫られ、悔しかったり、絶望したり、とにかく大変でした。ものすごく重要な時間だったけど、思い出したくないこともたくさんあります。やはりしんどい時間ではあったから。でも必要な試行錯誤だったんだと思います。楽しいこともいっぱいあったし。そう、それはもう数えきれないほどありました。
 
ブブ
それはどこで?
 
山田
アートスケープ(*5)で。
 
ブブ
アートスケープ!いまだに意外な人から「あの時アートスケープに居て影響を受けました」って聞くことがあります。あの場所にはそういう内実というか実態が確かにありましたね。若さというのは多分、絶望する勇気と体力のある人のことです。
 
遠藤
ミス、不格好さ、絶望。そういう隙をみせたらこの世界では抹殺される、殺されるんじゃないかというトーンがありますよね。
 
ブブ
例えば私が居た頃のダムタイプもそうで、対外的にはカッコ悪いところは見せないというのはありました。でもその表面や作品が形成されるまでのミーティングというのは全然カッコ良くなかった。延々と不格好な話し合いと試行錯誤を続けていました。そうしないと作品を作ることができなかった。今もそうかもしれない。
 
遠藤
使い分けられているんですよね。むしろ今の方が一元化してしまっているということなのかもしれないですね。

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