『表現と倫理の間で』


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遠藤
僕はあまり詳しくないんですが、カウンターと呼ばれる人たちは、法律の制定を要求する団体ではないですよね。つまり、そのための署名活動やデモはしていないですよね。
 
ブブ
個人的に、法律や地方条例の制定をすすめる活動をしている人は居ます。
 
遠藤
僕の理解では、カウンターはその名のとおり、レイシスト的なグループの行為を打ち消そうとしているんですよね。だから、彼らの街頭での行為を無効化するための方法や技術が対抗措置的に開発されてきた。そういう形式なんだと理解しています。そこにいたるまでには、紆余曲折があったと思うんですが。
 
ブブ
そうです。カウンターはかっちりとした組織ではなくて、主にSNSでの呼びかけによってその行動にぱっと集まってぱっと解散する。お互いに名前も知らない人たちがほとんどです。レイシストたちは「表現の自由」や「デモの権利」を最大限に「活用」して路上で差別扇動を行います。彼らは特定の民族を殺せと叫んだりプラカードに書いて掲げたりします。カウンターは、それへの怒りを可視化する人たちです。
「カウンターって、なんか罵倒していて怖い」というイメージを持っている人も居るかもしれませんが、そういう人は確かに目立ちますが(笑)、声や音でヘイトスピーチをかき消す人だけでなく、プラカードや横断幕でメッセージを示す人、道行く人に周知チラシを配って状況を説明する人などが居ます。勉強会やイベントを開催する人も居ます。法律や条例の制定に尽力する人も居ます。最近は、その街の事情や状況によって「サイレントカウンター」という方法も採用する場合もあります。
 
遠藤
それだけしかやり方がないのか、と勝手に決め付けられて言われても困ると。
 
ブブ
はい。いろんな方法が必要だし、実際にやってもいるわけですから。
そこで表現規制の問題なんですが、ヘイトスピーチ規制法を作ろうとする時、例えば海外ではどうなっているのか。アメリカとヨーロッパでも随分違っていて、アメリカではヘイトスピーチ規制法というのは無くて、基本的に言論はすべからく自由であるということですよね。なぜそれで大丈夫なのかというと、市民がすぐ抗議や議論をする。ヨーロッパではヘイトスピーチ規制法的なものがあるけれども、運用のされかたが例えば人種差別と性差別でも違うし、それぞれの内容についても細かく議論されています。

そうした状況を日本と比較するといろんな点で議論がたぶん足りていないと思います。そもそもなぜ在日コリアンの人たちが日本に居るのかも知らなかったりする。外国人と一言で言ってもどんな人達が居るのかを知らない。
 
遠藤
なるほど。法規制のために細かい議論がなされて、それに公開性があり、例えば在日外国人に対して差別するとはどういうことなのか、といったところまで共有が深まっていけば、自ずと法律に内実が伴うことになる。しかし、単純にとにかく酷いことをいってるから止めることには賛成、くらいの気持ちで法律がつくられるのだとしたら、同じくらい酷いようにみえる表現も止められてしまうかもしれないという懸念ですね。
 
山田
ちょっとアメリカの話をすると、合衆国憲法の修正第一条にフリースピーチの原則というのがあります。アメリカでは「表現の自由」は何があっても守らなければいけない重要な理念なんです。最近のドナルド・トランプの演説などを見ていてもわかりますが、民族差別であれ何であれ、法的には責任を問われないという意味で、言っていいんです。修正第一条をふくむ合衆国憲法の修正条項は権利章典とも呼ばれたりしていて、いわばアメリカの建国の理念なんです。だからこれは絶対に守ろうという社会的意思がある。でも一方で、ヘイトクライム防止法というのもあるんですよ。ヘイトクライムと言うのは差別を理由とした殺人や暴力で、憎悪犯罪と訳したりします。2009年にはオバマ政権のもと、条文の中に保護されるべき人々として性的少数者が加えられました。国籍や人種、民族、性的指向や性自認を理由とした殺人や暴力は防止しなければならないと、決めたわけです。表現はしてもいいけど、実害が及ぶのはだめだよということです。先ほど挙げたような人たちは特に社会のなかでも弱い立場の人たちだから、ちょっとしたことで被害が及ぶ可能性があるわけで、まずはこの人たちは守りましょうということですよね。ヘイトクライムの犠牲者である二人の名前をとって、この法律は「マシュー・シェパード、ジェームズ・バード・ジュニア、ヘイトクライム防止法」と呼ばれています。
 
ブブ
言語化しているわけですよね。たとえばエスニックマイノリティとか。セクシャルマイノリティとか、貧困層とか。
 
山田
そうです。言論や表現を法で規制せず、フリースピーチの原則は守るけど、一方で「社会的に脆弱な立場にある人々」をはっきりと言葉にするんです。これは「差別」の意味をはっきりと定義しているということでもある。日本社会ではここが整理されていない議論って多いんですよ。私は性的少数者の人権が日本社会でも認められるべきだと思っているし、そういう活動もやっていますが、ある時こう言われたことがあるんです。「同性愛者の人権容認は、同性愛が嫌いな人々に対する逆差別だ」。つまりどういうことかと言うと、同性愛者の人権が認められ可視化されると、同性愛者が嫌いな人々が望んでもいないのに同性愛者の姿を日常的に目にして不愉快な思いをすることになる。それは「同性愛者が嫌いな人々」に対する差別だっていう主張です。もう10年ぐらい前のことなので掘り返すつもりはありませんが、公の委員会で言われました。発言したのは教育委員です。異性愛の強固な社会規範がすでにあって、その中で性的少数者は常に極めて脆弱な立場におかれています。はじめから圧倒的に力関係が違うわけです。だから逆差別などありえない。この教育委員の発言そのものが差別なんです。社会的に指導的な立場にある人からしてこの程度の社会認識ですから、法規制が必要なのではという思いも私の中にはあります。差別をはっきりと定義するべきではないのかと。先ほどブブさんがふれられたカウンターをやってる人のなかにも法規制を望むひとはたくさんいるんですよね。その気持ちはよくわかります。ただ、かつての治安維持法のように表現規制が権力者のためにつかわれて小林多喜二のように拷問で死ぬというようなことが、再び起こるかもしれない。そういう危惧ももちろんあります。そういう危惧も持ちつつ、市民が広く議論をして法制化すればいいんでしょうね。

このような社会的課題を市民が広く議論をするとき、知識人の役割は重要です。研究者だけでなく、キュレーターももちろん知識人です。人権に関する知識はひととおり持っている必要があります。それは教養です。欧米を中心に、20世紀に入って人権意識が変わっていくじゃないですか。急速に進展していきますよね。オバマが2013年の二度目の大統領就任演説のときに、アメリカは三つの段階で変わってきたと言うわけです。その時に彼は三つの地名を挙げる。一つはセネカ・フォールズです。アメリカの女性解放運動の発祥地ですね。これは19世紀です。その次がセルマ。公民権運動の最中に黒人と州警が衝突して死傷者が出た、いわゆる血の日曜日事件の起こった場所です。そして三つ目がストーンウォールです。1969年にニューヨークのゲイバー、ストーウォール・インで起こった反乱を契機として大規模なLGBTの解放運動がはじまるわけです。差別は厳然として存在していたんだけれども、社会はそれを見過ごし、大した問題ではないと思ってきたわけです。でもやっぱりこれダメでしょう。これは差別でしょうということが次々に表明され、人権意識がこれまでと全く変わってきたのがここ100年なんです。アメリカとかヨーロッパだけかもしれないけれども、その蓄積が、たとえば今回の出来事では全く踏まえられていないと思いました。人権意識にキャッチアップできていないというか、さすがにそれはあかんでしょうと、わかるはずなのに、スポンと抜けている、こんなに抜けていていいのか。

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