『表現と倫理の間で』


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ブブ
ところで遠藤さんはそもそもどうして今のキュレーターになられたのですか?
 
遠藤
惰性なんですけど…。そうですね、構造的な悪ってあるんですよ。構造的な矛盾が構造的な悪を産む。ぼくがアイデンティファイしようがしまいが、あるものはあるみたいな。それを是正することでお金がもらえる、みたいな。わりと下品な感じですかね。
 
ブブ
構造的な悪を意識したのには何かきっかけがあったんですか?
 
遠藤
最初に意識したのはフィリピンに行った時だと思います。好きだから美術館行くじゃないですか。でもお客さん一人しかいなくて。そこでもうハイアートの仕組みが機能していないのが明らかで。美術が社会に浸透していないという当たり前の構造的問題ですね。そこでそもそも必要ではない、という議論をされるとアートの根本問題になるんですが、僕は多くの人にとって必要であるという立場なので。仮にそれが「美術館」ではないとしたならば、どういった機能なのかというふうに考えて、それをやるのがインディペンデント・キュレーターなのかなあ、と。
 
ブブ
フィリピン、めっちゃわかりやすいと思います。病院も、金持ちの病院と貧乏人の病院があからさまに分かれていて、びっくりしました。
 
遠藤
はい。簡単に治る病気でも、お金がなくて死んでしまったりしますね。
 
ブブ
フィリピンって聞いていろいろ思い出しましたけど、自分が芸大生の時は漠然と欧米的な文脈でのアートというものへの理解や憧れがあって、その後HIV/エイズの市民運動をきっかけにフィリピンやタイやカンボジアやシンガポールや香港に行って、そこでアート関係者だけではない人達に出会って、地理的歴史的文化的経済的な日本の位置のイメージが大きく更新されました。「このエリアの東の端」にあるのだと。そこに、遠藤さんが悪の構造、とおっしゃいましたけど、私は力関係の構造を目から鱗的に痛感した時期がありました。
 
遠藤
階級、エスニシティ、セクシュアリティ等々の問題が社会的な不正義として確実にある、という前提を引き受けないとアートってできないはずなんです。その問題と直接格闘しろ、とは僕は思わない。遠回りの表現があっていい。しかし、抽象画にしても良かれ悪しかれそれが「平等」や「民主主義」という概念と結びついていなければ、何の意味もないでしょう。そういう当たり前のことですよね。「芸術」と「社会」の緊張関係がなくなった時代の現象なのかもしれません。アーティストだと自認している人たちが、実は制度に守られているにも関わらず、自分を仮想のマイノリティにできてしまうこともそうですし、教育者やキュレーターが「美学」や「美術史」だけで現代美術をやるときに決定的に欠落してしまう部分を精査していないことも。
 
山田
アーティストとしてのアイデンティティをもっている人の中に、自分こそが最強のマイノリティだと思っている人がいる。その人は世界の構造を、自分を中心に理解する。自分がマイノリティでしんどい時、手っ取り早い敵を想定して「あいつのせいで自分はしんどい」と思い込む。そういう思い込みはたいていの場合事実とずれています。在特会の言う在日特権と同じです。そんなものはないんです。その意味で、自分こそ最強のマイノリティだと思っているアーティストはネトウヨと同じです。それは妄想なんですよ。でもしんどいというのは事実でしょうね。でもしんどい時にちょっと踏みとどまって、ちょっと引いて世界を見ることができるか。そこで試されるのが人間性であり、その人の見識であり、教養であり、知性でしょう。
自分がしんどいのは「あいつ」のせいではなくて、社会の規範的な価値観や構造のせいなわけです。それを変えるということは、自分にとって住みよい社会をつくることとも言えますが、それは同時に自分の友人が救われるということも意味するので、自分のためにやりながら、他者のためにもなっているわけです。社会運動はそもそも、本来的に利己的だし、利己的でなければ欺瞞だと思うけど、その利己性は同時に利他的なんです。それが公共ということだし、その人の価値観や人間観が子供っぽいか、大人かの分かれ目になると思う。
 
ブブ
わたしはそれを「エゴの同心円」と名付けています。図で書くと、真ん中は謎の「自分」で、自分が幸せだと感じる範囲はその円の内側です。その外側は最初は「他人事」です。半径の長さは変化し得て、半径が長いとそこに他者が入って来ます。半径を短い範囲で追及したい時期と長い範囲でないと満足できない時期がある。その時期を私はルサンチマンの時代とエンパワメントの時代と名付けているんですけれども、ルサンチマンの時代も必要なんです。自分の苦しさとか理不尽さとか無力感や矛盾を、人間としても表現者としてもとことん掘り下げる時代。それがある時、他者を個人的にすごく意識した時に、それは犠牲ということとは別に、他者にとっての理不尽さの問題がエゴの円の内側になることがあります。そこでエゴの範囲が揺らぐ。それが、社会をよりよくするという規定性の高い言い方に私が含めたい内容です。
 
遠藤
僕はあまり人に同情したりされたり、自分のためにとか他人のためにとかいう感じも苦手な、ダメな現代っ子です(笑)。だから、考える。考えたらわかることはかなり明確で、キュレーションに関して言えば厳密に技術論だけでも適正な状態になりうる。たとえば、絵の中心の高さを145にするか150にするか155にするか、はもう政治です。これは亡くなった東谷隆司さんの受け売りなんですが。絵と絵の間隔の決定も、照明の配置も、導線も、チラシやポスターのデザインも、解説文の文体や内容も、すべてあからさまに政治。細部に至るまで政治でしかない。いわんや、クラシックな学芸員の場合、コレクションの選定と保存、再解釈をするわけですから、とんでもない政治ですよね。美的経験や人間性の条件を規定しうる立場にいるわけです。誰に何をどう見せるのか、何をどのように残し伝えるのか。全部、政治的な技術体系でしかありえない。その意識をどこまで高く持てるかというのがキュレーションの要点ですが、それがなあなあになっているのかもしれない。それがどれだけの暴力をはらんでいるかということですね。キュレーションには、残酷な切断や無謀な権力の行使があらゆる瞬間に内在していて、それがその都度公共性の再規定に関わっている。
 
ブブ
言語表記の問題もですよね。
 
遠藤
東京の国立近代美術館で藤田の戦争画を見に行ったんです(*4)。解説文が日英表記だったんですね。それで学芸員さんと話したんですが、これがたとえばタガログ語だったらとか、中国語やインドネシア語だったらと考えてしまいますよね。日本語の文章と、その直訳というのはやはり惰性だと思うんです。この種の惰性が、今回のアクアで起きていたのではないか、と僕は思っています。ホワイトキューブの中から、実際の社会と触れうる可能性のあるワークショップを行う、というのはかなり高い技術が必要になるはずなんです。どうして、そういうことがわからなかったのか。
 
ブブ
それは時間的に余裕がないということもあるんでしょうか?単に気付かないのか、体力的精神的に無理とか…。
 
遠藤
それもあると思います。キュレーターがさまざまな雑務に追われてしまうという現状が確かにあります。そうした中で、キュレーターが考える公共性が、いわゆる俗っぽい公共性、中流・普通市民、安全な鑑賞者の範囲に縮減されてしまっているんじゃないでしょうか。制度的にそうせざるをえないということもあると思います。
 
ブブ
それって、公共性の有無に対する切実さというか、公共性に対して鈍感であったらキュレーターとしてもアートとしても致命的だという切実さの度合いというか。さっきのエゴの話なんですけれども、自分にとって納得できないから切実になるわけですよね。リアリティというか。キュレーターやアーティストが仮に日本人ヘテロ健常者男性である場合のリアリティの置きどころ。マイノリティは切実さのとっかかりに近いけど、マイノリティでなければ気付けないわけではないと思うんです。マイノリティであるということは、幸か不幸か何かに気付きやすい存在なわけで、でもそれは実はその人の属性に関係なく、切実さというのは共有できるだろうし、せめて想像はできるだろう。その想像するための動機は、いちばん小さいエゴの中に居ては動機も欲望すらも生まれないのではないでしょうか。
 
遠藤
そのように想像力をベースにすることもできますが、僕はそうではなくて、想定されうる最大の多様性と深さを考えて、なにが足りないかという考え方なんです。何度もすみません、非人間糞野郎的な設定を通します。例えば、単純に白い壁の展示室、ホワイトキューブがあったとして、それがどんだけのものを切り捨ててんねん!というところにリアリティをもって、それに対して技術的に対処する。白い壁からして問題ありありなんです。それが普通ではない。むしろ、それを異常と考えた上で、そのうえで何故それを使うのか、という理由がまずは必要。そういった前提を失っているのが、いまの状況なんじゃないでしょうか。
 
ブブ
それが職業的アイデンティティだとしたら、そこには職業的なキャリアや得意技が含まれるわけですよね。
 
遠藤
キュレーターはルサンチマンなど抜きにして、テクノクラートとして働くべし、というのが僕の持論なんですが…。
 
ブブ
なるほど。キュレーターはアーティストにとって最大の理解者であり抑圧者であり、最大の共犯者でもあるし。その技術、ということなのかな。
 
遠藤
そうですね。このテクノクラート性の「罪」を明確に認識することによって、アーティストとの間に秘密の約束のようなものができあがる。これは「コーディネーター」がコミュニケーションの円滑さや経済によって、アーティストと関係を作るのとは根本的に異なっています。まずは、それを言いたい。で、先ほどキュレーションの概念には政治や公共性の引き受けが必要と言ったんですが、今回のアクアの問題やARTZONEでの鳥肌実問題では、大学側の人間がそれを引き受けなければならなかった。アーティストや雇われ企画者の罪ではないと思います。例えば、鳥肌実に関しては、それでもやりきるというのを「大学として」判断し、実行するという道もあった。その場合、その「判断」の性格によって議論が継続できたはずです。さらには、若いキュレーターたちが大学の公式ホームページに声明文を書いている。問われるべきは文面ではなくて、大学が彼らにそれを許可した、という点じゃないかと僕は思います。
 
ブブ
ARTZONEの鳥肌実問題では、京都造形芸大のアートプロディース学科がその後「学生が考える為の勉強会」を開催しました。さらにその後、私を含む学外の有志が呼びかけてARTZONE主催で「反ヘイトスピーチの基礎講座」という勉強会をやりました。
 
遠藤
そうなんですね。あの瞬間、キュレーションとしてはいろんな位相で技術的可能性がひらけていました。公的なステートメントを出す、討論会を開く、展覧会とイベントの性格の違いを明示する、私立大学における公共性とは何かを考える、アートとしての「パフォーマンス」と政治的な「パフォーマティヴィティ」の違いを定式化できるかどうか。これらを公的に開示する技術のことを僕はキュレーションと呼んでいます。そういう意味で、あの場所には、雇われの若い「キュレーター」はいましたが、「キュレーション」は存在していなかった。
 
ブブ
そう思います。
 
遠藤
間違っていても、技術を開いてもらえればあとで議論も修正もできるんですね。事なかれ主義やアリバイづくりが一番ダメな顛末ですよね。
 
ブブ
外への開き方には限界がありました。
 
遠藤
そうなんですね。
 
ブブ
あ、でも私達がやった勉強会は素晴らしかったですよ。文字起こしして、また公開したいです。

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