『表現と倫理の間で』


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山田
単純に今回、アクアの大学側の皆さんはどうしてダメって言わなかったんでしょうね。
 
ブブ
その場に居た京芸の教員は、ポーランドのアーティストがセックスワーカーをギャラリーに呼んだ例を引いて「セックスワーカーに対する真面目な人権運動だけでなく、芸術のとんでもない力で状況を変えていくことも有効なのではないか」とおっしゃっていたということです。つまり、その教員はそれが可能だしそれが「真のアカデミー」であると、その時は本気でそう思っていらっしゃったんだと思います。あと、ワークショップの直後に私が電話で話した時には「自分は教員なので現場にあまり介入すべきではないと思った」と。
 
山田
でもその現状認識は不十分ですよね。
 
ブブ
不十分です。自制する部分を間違われたと思います。でも、そのように加須屋さんが信じていたのはなぜか?それは、私は京都市立芸大、ひいては大学自体の社会性の無さじゃないかと思ったんです。
 
遠藤
最近の社会的なアートやリレーショナルアートなどは、よく「社会的な事象をメディウムとした作品」ないし「コミュニケーション自体をメディウムとした作品」と説明されます。作品の素材が「社会性」だったり「コミュニケーション」だということです。そう考えると、キュレーターは専門家なわけですから絵画を扱うのであれば絵の具やカンバスに詳しくなければいけないのと同じように、最近の社会的なアートを扱うキュレーターは、社会性やコミュニケーションの専門家でなければいけない。これは、当たり前の話だと思うんです。そうでないと、そういった作品についての判断ができないということになる。しかし、おそらくそうなっていないんですね。端的に社会学や人類学の勉強が圧倒的に足りていないし、社会運動を含めたさまざまな社会事象への理解も浅いのではないか、と思っています。キュレーターになるための専門性と、実際に現代美術でいま起こっていることに求められる専門性の間に乖離がある。これが問題が起こってしまう大きな理由だと思います。一般論で話をするならば、学芸員さんになる人って、だいたい学部のときに美術史をやろうと思えて、そのまま大学院に行った人だから、育ちがいい。いい大学も出てる。ざっくり言うと、まあ社会経験ないですよね。
 
ブブ
「育ちが良い問題」って私は呼んでいます。世間知らずってことに対する自覚がね、それは善意の暴力であって、不見識なことをしてしまいかねないという自分への警戒というのが無さすぎだと思います
 
山田
でもそれは少なくともヨーロッパやアメリカでは違う、さっきいったように状況が全く違うし、知識人がちゃんとキャッチアップしている。肌の色で人を馬鹿にしちゃ駄目ってみんなわかってる。
 
ブブ
そうそう、キャッチアップしなくてもその地位に留まれるという制度の問題があるんじゃないですか?
 
山田
そうですよね、そこはすごい根深い問題。
 
ブブ
アーティストだけの問題ではなくて、中間のそれを社会化する人たち、公然・公共化する人たちの問題ですね。公然・公共化される以前の創造行為は、クラブやインディペンデントの空間でいくらでも出来るわけですから。その俎上というか俎(まないた)自体が崩壊しているというか。ハイアートに対するローアートも存在しない。
 
遠藤
芸術制度と社会制度、ハイアートとローアートが対立しあいながら、関係しあっている構造への理解が足りないと。
 
ブブ
そう、で、ローアートとサブカルはまた別の文脈やと思うんです。
 
遠藤
ハイとローの間をサブカルチャーで中和する、という日本の特殊事情はあるでしょうね。
 
ブブ
それこそサブカルはデリヘルと似ていると思っていて、日本で特殊に発達した業態というか消費形態なんですよね、直感的な意見ですけど。
 
遠藤
会田誠さんや Chim↑Pomへ、そしてさらに若い人へと至る流れは、サブカルチャーによってハイとローの違いを止揚して、どちらにしても成功するという話だったはずなんですけれども、たぶんそうはなってないと思うんです。一方でハイアートのフィールドで成功しつつ、同時に、底辺にいるような若者たちが「チンポムかっこい」、「俺たちにとって希望になっている」と言われていたら、僕はほんとうにすごいことだなと思いますが、そうではない。むしろそういった若者たちに支持されていない。サブカルチャーの装いで、実質はハイカルチャーのほうに寄っている。サブカルチャー的な心性でハイカルチャーとして機能する仕組みが、日本のアートシステムにおいてのみ発達してきた。これは、例えば日本より後に現代美術システムができたと考えられる国、中国でも韓国でもフィリピンでもインドネシアでもいいんですが、どこにも見られない現象です。
 
ブブ
ハイカルチャー、ローカルチャーのハイとローって階級の話だと思うのですが、そのことが、サブカルっていう言い方ですり抜けられている気がして、ハイとローについて考えた方が面白いと思っているので、私はそうしています。
 
遠藤
そちらの方が現実的なダイナミズムが生まれますよね。
 
ブブ
はい。単純に自分と違う人と会わないとできないことなので。自分がどちらに属するにせよ。ハイカルチャー、ローカルチャーといった場合、今の日本ではアートはすべからくハイカルチャーに属してしまっていると思うんですね。例えば私立公立問わず巨大な美術館や東京芸大を頂点とした単調なヒエラルキー。アートが半分しかないというか。ハイアートでないと経済的に生活していけないとか。
 
山田
食っていけるかどうかはやはり気になりますよね。海外では地方議会などだとお給料は全く無いか、極めて低額というケースが珍しくありません。他の仕事をやっていて、議会のあるときだけ議員をやってという形。それが正しいと思うんです。リアルな世界を知った上で、それを議員として実現する。アーティストもたぶんアートの世界だけだといろいろわからなくなっちゃうから、何か他に、社会の中に足場をもちながら表現活動をすればいいんだけど、そういう考え方自体が主流とはなっていないですよね。
 
遠藤
そうですね。仮にハイアートに身を置いていたとしても、エリート的・貴族的な考え方で社会に責任を持つというのが欧米的な考え方ですよね。上層階級として社会に責任を持つ、という。堂々とやられると、たまに僕は鼻白みますが、啓蒙の概念がいまだにある。あるいは、昔のインテリ左翼のように労働者を理解する、彼らと団結するという美学もなくなってしまった。そうなると「公共性」を成り立たせるというミッションが醸成されないのかもしれません。
 
ブブ
路上にでてくる市民たち、例えばSEALDsとか反原発とか反レイシズムのカウンターとかですが、そういった行動に対してアーティストの中で最初に動くのはいつも音楽系の人達なんです。それもラッパーとかDJとか。音楽の発生はたぶん庶民からで、階級的にローな人達が育ててきた文化です。でも今、日本の美術系の人たちは、自分のはハイアートだと思っているから、市民運動には合流しにくいのかもしれない。市民運動に合流するには言い訳が必要みたいで。
 
遠藤
めんどくさいですよね。
 
ブブ
来たかったら来たらいいやん、という。「アーティストとして何が出来るか」とか自問したり。そんなん関係ないし。
 
山田
そうそう
 
遠藤
一方でサブカルチャー的なアートがハイアートのマーケットと結びついて、他方で地域のアートプロジェクトのようなものが、公共事業としての有用性をアピールしている。美術館はあらゆる手段を用いて「健全な」市民の参加を呼びかけている。全体として、なにか歪んでいる気がします。それぞれ結びつかなければいけない何かと結びついていない気がするんですよね。アートの場合は、です。
 
山田
なるほど。たしかにそうかもしれません。
 
遠藤
マンガや音楽や映画の方が、よっぽど機能しているということになりますね。それらがアートのシステムの中に侵食してくると歪んでしまうことも多々あります。そう考えると、アーティストってなんなんでしょうね?HAPSをやってて言うのもなんですが。
 
山田
「アーティストってなんなんでしょう」という問はそのまま、「芸大ってなんなんでしょう」という問になりますね。アーティストにとっての経歴という意味では重要なのかもしれないけど、実際に何をするのか曖昧すぎますよね。
 
ブブ
ひとつには、今の芸美大では現代思想や哲学へのアプローチが少ないんじゃないですか?
 
遠藤
教養主義の崩壊、ということですか。
 
ブブ
そうですね。どこでどう崩壊したのかもよくわからない。一部の人はわかっているのかもしれないけど、広く共有はされていない。すべての大学がいま生き残りをかけて大変なことになっているじゃないですか。その中で、ある意味危険な状態だと思うんです。ポピュリズムとか。安倍政権がそういう方向にもっていこうとするときに、何をもってそこに歯止めをかけるのかという根拠が言語化されていない、されているのかもしれないけれども、市民や学生には伝わっていない。それやばいよね、とほとんどの人が感じていても、どうしたらいいのかわからないとか。その、やっぱり大事なところを担う機関のひとつが芸美大でもあると思います。芸美大行った人がせめて希望すれば現代思想の基礎を学べるとか。
 
山田
授業としてはありますよ。
 
ブブ
どこに?京都市立芸大にありますか?
 
山田
いや、あるある。哲学とか社会学とかあるはずです。大学なら必ず。
 
ブブ
それでも、内容が精査されていないと思います。
 
山田
それはあるかもしれませんが、一応学生が勉強したいとおもえば選択できるはずです。でも教養教育が十分かという意味では、やはりはなはだ不安ではあります。

さっき遠藤さんがいった地域型のアートとか、リレーショナルアートの「肝心なものが抜け落ちている」感じはその通りだと思います。その肝心なものとは、私の言い方では「現実の社会」ということになるのだけれど、学生は本当に現実の社会を知りません。まあ大人も知らない人はまったく知らないけど。芸術に携わる人たちの貴族趣味のようなものを感じます。まあさっきの、ハイカルチャーしかないという話と同じですけれど。現実の社会とかけ離れているので、内容がないからすぐに賞味期限切れになるわけです。それを延命させるためにいろいろ名前をかえてやっているという感じでしょうか。現在の社会そのもの、もうちょっと限定して言えば今の社会の抱えている困難な部分とどう関係を切り結ぶのかということです。
 
ブブ
社会が抱えている本当に困難な部分とは何か、という意識。
 
山田
差別とか、環境問題とかいろいろあると思うんです。例えば京都のすぐ近くの大阪では、毎年いったい何人の人達が路上で亡くなっているか。路上生活者の健康問題は重要ですよ。大阪府大の研究グループが報告書を出していますが2000年から2004年の5年間で1052人です。凍死や餓死だけではなく自殺も多い。路上生活者の健康問題が身近に感じられないなら、まずは自分自身や、そのまわりの事柄からでもいいんです。ジェンダーやセクシュアリティ、貧困や格差、レイシズム、安保法制に対する是非、いろいろあります。それらに背を向けて、社会とアートといくら言ってみてもね。
 
ブブ
げいまきまきさんがアクアに呼ばれたときに、参加者のひとりから「ところで京都にホームレスいるんですか?」という発言があったと聞きました。ホームレスのことひとつとっても、アーティストはその問題とどう関係を作っていけるのかいけないのかということは、最早見過ごすことはできないというか、社会的な課題ですよね。弱者とは何か、マイノリティとは誰か。そこに女性の人権とか、子供の貧困とか、環境問題とか、低賃金の問題が繋がってくる。それを単にアートの題材探しとか自分のリアリティー探しとかではなく、つまり「怒りを盗」みに行くのではなく、どうすんねん?という突きつけに飛び込む飛び込み方ですね。
要は、芸大は一定の教養内容を保障すべきではないかという話と、芸大出であろうがなかろうがアーティストがどれだけ現実社会にコミットできるかという2点です。

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