『表現と倫理の間で』


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遠藤
僕自身、実は薄情な人間で他者に対する想像力が希薄なところがある。それでもなんとかこの社会で生きていこうと思って、かなり努力をしています。そういう立場の人間という設定から話します。もう一つは最近の美大生などをなんとか理解しようと思って、僕が想定したことについても話します。なんとか若者の代弁をしてみたいということです。40男なので滑稽かもしれませんが(笑)。いまおっしゃられたような大文字の教養教育に至る以前に、いくつかの困ったメンタリティがあると思うんです。
例えば、まず想定されるのは、アーティストたち自身がなんの勉強もしてないにも関わらず、自分が単独のマイノリティだと思っている現象がある。唯一の、最低ラインの、言ってしまえば最強のマイノリティであるとアイデンティファイする。そういう傾向があるというのが一つです。私が、理念的に、一番迫害・差別されていると感じる権利を有している、と自認している状態です。
 
ブブ
アーティスト個人がですか?
 
遠藤
はい、個人ですね、勉強の多寡に関係なく。
それともうひとつは、内容の問題ではなく形式の問題というかパフォーマティヴィティの問題を優位に置く傾向です。内実よりも言い方が先行している、ないしは価値をもっているということです。それによって内容をそのまま伝える以前の問題が発生している。
 
ブブ
何のですか?
 
遠藤
つまり言い方に対する反応のほうが価値をもつというか。特にツイッターの影響なんでしょう。例えば、パレ・ド・キョートのあのひどい文章…僕は事前にアドバイスしたんですがあまり聞き入れられなくて、なんで?ってなったんですが。
 
ブブ
何を聞いてたんや、と。
 
遠藤
そうそう。で、あそこで顕著だったのは、右左の問題や差別の問題ではなくて、「規定力が非常に高い言い方をするのはやめてください」というメッセージです。エスニシティにおける差別について議論する方向ではなく、それ以前にある言い方の問題、つまりステレオタイプ化やレッテル張りをすること、されること自体がおかしい、自分たちはそれを拒絶するというトーンがある。言い方の政治が内容の政治に先行しているんです。
 
ブブ
「言い方」ね。
 
山田
なるほど。
 
遠藤
彼らが、内容よりも先に拒絶しているのは、「強い規定性」を伴った言葉ですね。この感覚はわからないでもないんですが、個人的には「言い方」と「内容」はわけられると思う。言い方がひどくても内容が正しかったら、ひどいけど同意しているよ、と。
 
ブブ
言い方、とはつまり言葉遣いとか?例えば左翼っぽいとか教師っぽいとかフェミっぽいとか。
 
遠藤
そうですね。空気を読むとか、コミュニケーションがなめらかであるということが価値あるものである、という前提にたったうえで、どこまで自分のコミュニケーションスキルの複合性を示せるか、というアート的な勝負をしているように思います。この場合、もはや右左とか、良心を持てとか、勉強せよとか、いう以前の問題なんですね。条件反射みたいなところがあって、そこがディスコミニケーションを生んでいるのではないかと、推測しています。
 
ブブ
ツイッターでの議論が不毛になりがちなのはそういうことですね。言い方の揚げ足取りとかつっこみの技術が重要で。たいてい誤解の蓄積になってしまう。
 
遠藤
それは、すでに間違った使い方で、なんていうんだろう、エラーみたいなものなんですね。言い方が悪くて、相手に不快感をあたえるという事態は、いまを生きる若者としてはあり得ないことなんじゃないかと思うんです。この不況下で青春時代を過ごしてきた人間にとって、人を不快にする表現を自分がするなんて当然ありえないし、自分がされるなんてまさかありえないと思っている。というのが前提で、その上で何か起こった時にどう対処するのか、というパフォーマティヴな「対処法」こそが問題なのであって、繰り返しますが内容ではないんです。
 
ブブ
たとえば顔文字とかはそれと関係がありますか?
 
遠藤
ありますね。
 
ブブ
敵意は無いよ、笑っているんだよ的な。
 
遠藤
僕は(笑)までは使える。けど絵文字は使わないし、スタンプも使わない。そこまでの細かいコミュニケーションができないくらいには、中年です。ということで、アーティストが無条件に自分を最強マイノリティ化しているというのと、内容よりもコミュニケーションモードを優位においている、という二点が同時に出ると、アートに関しては、ひどい炎上が発生する。という観察です。しかしまあ、内容というか、リアルな経験を持って語れることを語り、語れない場合は黙って怒られるしかない、というのが基本だったはずだし、大枠においてそれは変わってないと思うんですけどね。ツイッターが先行してしまっている、というだけで。
 
山田
そうなんですよね。リアルな人間が想定できれば、できないことってあるんですよね。言えないことってあるんですけど、そこがないから、抜け落ちるんですよね。それは、在特会とかネトウヨが、在日コリアンの友達が一人できると抜けていくというのと同じで、実際に目の前に現れるとわかるんですよね。
 
遠藤
そうですね。ただ、リアルポリティクスよりも、スピーチアクトの政治学というか、コミュニケーションポリティクスの方が現実に影響力を及ぼす、という「経済的価値判断」を先にせざるをえないところがやっかいなんですよね。ブブさんがおっしゃられていることは、すごく近代的な啓蒙であり、まっとうに市民社会を信じる方法だと思います。その教育は様々なルートでなされてきた。きつく言う人もいればゆっくり教えてくれる人もいる。寺子屋の謎のおじさんもいるし、自分の人生経験で学んでいく人もいる。というふうに全体でゆっくり良い方向に一緒にしていこうというのが共通化された社会性だと思うんですが、その前提が崩れていますよね。それよりも経済的価値を伴った言葉の流通のほうが速くてリアリティがあるということなんだと思うんです。
 
山田
それってどうなんですか?さっき遠藤さんが言ってた、表面的なことが内容にとってかわられるということがアートにおいても起こるということですか?
 
遠藤
変わらないはずですね。それがアートのいいところだと思っています。作品がありますからね。
 
山田
でも取って代わり得ると思ってるんじゃないですかね。
 
遠藤
キュレーションの概念が二つあるんですよ、最近。僕らが使っているキュレーションというのとIT用語のキュレーションと。IT用語のキュレーションは情報を有用に、効果的にまとめ上げる編集に近いものなんですが、その概念が美術の側に逆流してきているかもしれない。例えば、グループ展であれば、名前の並びであるとか、その広報の仕方、告知の拡散のコントロールとか、展覧会制作のプロセスを公開するとか。物理的な「展覧会」にとどまらない、情報操作の技術がキュレーションに入り込んできています。名前が連鎖的に流通することや、評判が広まることなどの価値をコントロールするという発想がキュレーションに入ってきている。それは、若い企画者は考えるでしょう。
 
山田
なんか、ちょっと今の話を聞いていてわかりました。今回の件に関して、私たちの書いたタンブラーに関して批判的なツイートがあると言うので見てみたんです。それを書いた人もアーティストらしいんですが、空っぽなんです。一応文字はつづられている。でも内容がないんです。でもちょっとだけわかるところがあるんです。2割くらいは正しいことをいってるなあと。それが何かよくわからなかったんですが、今話を聞いていてよくわかりました。
 
ブブ
ひとことでいうと?
 
山田
要するに言葉の表面的なつじつまはあってるんです。流通する言葉としての、見かけ上の論理的な整合性はある、だから見る人が見たら、もっと言ったら騙されやすい人が見たら正しいことを言っているように見えるわけです。でも、それらの言葉が指し示している具体的な人とか、具体的な現象とか、感情とか、いわば内容とでも言うべきものが見事に抜け落ちているんです。なので一見正しそうにみえるけど腑に落ちてはこない。言葉が内容を拒絶しているんです。これは何とも奇妙な現象です。なぜならばここで私が内容と言っているものも言葉だからです。本来、言葉と内容は切り離せるわけがない。日常生活の中で言葉を発するとき、その一言の言葉にはさまざまな行間や言外の意味があり、伏線や延長があって、その複雑で多様な言葉の広がりが豊饒なその人の存在そのものを感じさせる。人間が豊饒な存在であり、その豊饒な存在である人間が言葉を発する以上、たとえそれが一言であっても、豊かな内容を内包せざるを得ないはずです。その意味で、言葉と内容は切り離せないはずです。言葉が内容を伴わずに存在できている場合、あり得る可能性は二つです。そもそもその言葉を発しているその人自身が「豊饒ではない」か、戦略的に内容を見えないようにしているかのどちらかです。私は人間を信じているので、前者はないと思う。だとするとわざとやっているということになる。それが遠藤さんのおっしゃる情報操作なのだということがわかりました。でもそれは禁じ手ですよ。わたしはそう思います。
 
遠藤
世代論というのは僕はあんまりしたくないです。若いって、バカだし、社会経験ないし、物も知らないし、しょうがないじゃないですか。間違うに決まってると思うんです。あんまり人のこと言えないんですけど(笑)。しかしメディア環境によって、その状況が公開されてしまう。ただそれだけの問題という気もします。僕の時代は、20代の頃なんて、無名で誰にも知られなかったです。誰にも見られていなかった。10代、20代の頃から強制的に社会化されるという状態に今はなっていて、社会経験のないアホなやつはそこで大人に怒られる。窓ガラスパリーンと割って、こら!って怒られる。そして、それを見られてしまう。
 
ブブ
丹羽さんに関してはそうだと思います。
 
遠藤
ところが、見られているから、訂正しないといけない、立ち直らなければいけない、カバーしなければいけない、自分自身を社会でまだまだ有用な人間ですよと言い訳しないと、そのミスはいつまでたっても致命的に残り続ける。だから、「窓ガラス、確かに割りましたけど、遊ぶのは子供の本分じゃないですか。そこまで否定するんですか?」とか言い出すんですよ。黙って怒られることができない。
 
ブブ
でも今回、芸大の学生と話すと表現する側の責任ということも考えていたりして、考える人は考えていると思うんですよね。それがどう見えるかということの計算や不安も含めて考えている。
 
遠藤
震災以後の一時的な誤謬のなかにある、という気がします。思考停止というか、一時的なショックによる反動。震災があって、若いなにも経験のない人たちがずっとテレビやインターネットで情報をみて、何が正しいかわからなくなって、全部やだ、全部醜い、何も信じられない、本当らしいことを言う人はみんな嘘つきだ、物事を決めつけること自体が間違いだ、と。若くて経験がないから、そのように感じるのもわからなくもない。僕もそのように感じることがある。しかし、そのように感じることと、「全部やだ、醜いと嘆いている俺を見てくれ」、「そのように感じられる私は正しい」と言う、のは全く違う話です。そのような自己肯定を求めるのは、非常に短いこの時期だけの現象の気がします。だからこの段階を経て、社会経験を積むことで、言い方はひどかったがあの意見は正しかった、その通りだと聞こえたけれど実際は間違っていた、と内容だけで判断できるようになればいいと思うんです。そうなるかどうか。
 
ブブ
なるほど。
 
遠藤
言葉の表面的な規定性に対するヒステリックな自己保身と嘆きと自意識の表明みたいなものが、続いていくことで、それが無関心性とか、他者への想像力をいつまでも得られないということになるのであれば問題ですよね。そこでアートがもう一度役に立てばいいんですが。アートとは徹底的にリアルな他者性の問題だし、リアルな経験の問題でしかない。どうしようもない作品のレベルがあって、それは変えようがない。
 
ブブ
そういう意味では何を面白いと感じるか、という観客側の態度やリテラシーでもあると思います。そのためには規定性の高い言い方、言語ですよね、その意味を変えていくというか、意味を探っていくというか。それは私はリアルで探るということを増やすしかないんじゃないかなと。その経験に対しては臆病になってほしくないと思っています。

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