『表現と倫理の間で』


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河本
ちょっと話が変わりますが、山田さんが先ほどちらっと話をされた、23歳くらいのときに、痛切に思い知ったといわれていたアートスケープでの経験のお話をお聞きしたいです。
 
山田
その頃、大学生のころですが。96年くらいですね。日本で性をテーマにした映画が非常に上映しづらい状況にあって、たとえばゲイを扱った映画であるとか、レズビアンを扱った映画とか、そもそもお客もそんなに入らないし、業者さんも扱いたがらない。日本にもあまり入ってこない。だから自分たちで輸入して映画祭を企画しようと。私はそこでボランティアをやっていたんです。当事者も多かったです。そういう集まりの中で、徹底的に私の考えが批判されるんですよ。なにかひとこというと、「あー、それって男の考えだよね」って言われる。そういう経験を積んでいくことによって、なんかね、壊れていくんですよ、今まで自分だと思っていたものが、
 
ブブ
それは、女性から言われたのですか?
 
山田
はい、かなり徹底的に言われたんです。
 
ブブ
認めざるを得ないかんじというか…。
 
山田
認めざるを得ないというか、発見でしたよね。はがれおちて、自分がゼロになるわけではなく、違うものが見えてくるわけですよ。そのプロセスが面白かったです。
 
河本
具体的にこういう話というのを覚えておられますか?
 
山田
具体的な話は忘れてしまいましたが、発言のジェンダー性はよく批判されました。そのほかにも軽く言った言葉について徹底的に、原理的に問われるんですよ。たとえば、「日本人」って言いますよね、そしたら、「日本人って何なの?」「日本国籍の人?」とか、「日本文化圏の人のこと?」「日本語を使う人?」「日本列島に住んでいる人?」とか、いろんな意味のうちのどれだ?といわれる。
 
ブブ
セクシュアルマイノリティと言っても男は男だよね、とか。
 
山田
たとえば1対1で付き合うというのは当たり前だと思ってたんです。でもポリガミーとモノガミーという言葉が語られる。たくさんの人と同時に付き合う。ある人と付き合っていながら、セックスは違う人とする。いろんな人間関係が実はもう名前が与えられて、定義をされていた。それは発見でした。

その中で、自分は男で、恋人と1対1でつきあって、日本人で、と、それまでなんの疑問ももっていなかったものが、だんだんとこわれていく、でもそれで何もなくなっていくわけではなくて、新しい自分の生き方、人間関係の作り方が構築されていくという時期でした。
 
ブブ
1対1で付き合って結婚して子どもがいるのが普通で、とか言うたら「普通って何?」とか。
 
山田
そうそう、普通って何?って本当によく言われましたね。いままで自分が信じていたものがようするに妄想だったということに気がついたんです。
 
ブブ
そしてそれは、逆張りではないんです。
 
河本
逆張り?
 
ブブ
反抗ではないんです。つまり「普通って何?」って聞くのは、なんでもかんでも反対ということではなくて、聞く方にも根拠があるし、言われた方もそう信じていたけどほんとうにそうなん?って言われたときに、あれ?って揺るがされるというか。特に根拠なく依存していたものが、あんたそれでいいの?と言われたときに、そんなふうに考えたことなかったみたいな。
 
山田
誤解を恐れずに言えばネトウヨの気持ちもわかるんですよ。まだ妄想の段階にいる人と言うことですよね。その意味では自分もそういう時期がありました。原理的に問うたこともないし、現実の社会も知らなければ、それはそうなりますよね。妄想に支配される。
 
河本
つまり山田さんは、当時、直接会った人から何度も何度も言われたから、妄想がはらはらとはがれていったということですね。
 
山田
そうそう。
 
ブブ
でも毎日そんな場所にでかけて誰かに会おうとした理由の一つはやっぱりその場の魅力というか…。
 
山田
微妙に妄想に固められた自分に未来はないと思っていた気もします。
 
ブブ
先はないなという…。
 
山田
はい。
 
河本
それはなんででしょうね。
 
山田
なんとなく感じた気がしますね。
 
河本
それは、妄想に気付いて、自分を壊す方が…
 
山田
未来は楽しいと。
 
ブブ
そう言う意味では直感に正直ですよね。楽しい方に行くという行動原理ですから。
 
河本
ネトウヨの人も、あの場にいけば仲間がいるというのもあるのでは。
 
ブブ
そうそう。だからさらに楽しいモデルを提示すればいいんだと思います。ある在日コリアンの友人は、最近はレイシストに向かって「そっちやめてこっちのパーティーに来たら?」って呼びかけたりしています。人は正邪で動くのではなくて、楽しいか楽しくないかという快楽原理で動くから。もちろん正邪で動く人もいるかもですが。でもさらに魅力的なものに出会ったとか、興奮するとか、そういうことで人を動かしたいし、動きたい。
 
山田
楽しいという感情の気づきがあるとおもいます。自分のことでないと楽しくないはずなんです。
 
ブブ
自分じゃないことで何かを成し遂げたとしてもそれは楽しくないです。自分が犠牲になったというヒロイズムは感じることができるかもしれないけど、それはやっぱりしんどいし、続かない。でも自分のことで戦ったということを経験すると、それは快楽やから、
 
山田
本当に自分のことで、自分のことを大事にして、いろんな人と力を合わせて何かをやるのは楽しいんです。SEALDsの人たちもよく言うことですが。
 
ブブ
自分たちが楽しくなくちゃ、世界は変えられないということがわかっているんですよね。
 
山田
そうそう、代弁になっちゃうから。しんどい人たちがいて、その人たちのためにがんばっているんだじゃ、だめなんだと。
 
ブブ
あと、自分を犠牲にしない、その為にも怒るというのは大事だと思います。
 
山田
ここで怒ることで少しでも自分が生きやすい世の中にしていくということですよね。
 
ブブ
それから「あ、女なのに怒ってもいいんだ」とか「50歳すぎても怒ってもいいんだ」とか、自分と属性が似ている人がエンパワメントされる可能性もある。それはさっきの同心円的に嬉しいです。

私は怒る感情や行為って自尊心と関係あると思っています。自尊心が低いと怒りにくいかもしれない。あることが理不尽だとか侮辱だと感じることが出来るのは、基本的な自己肯定がなされていないと怒れないかもしれない。
特に女性やマイノリティが差別やスティグマを内面化してしまうと、自分はどうせこうこうだからとか、やっぱり私が悪いんだしみたいな、諦(あきら)めですね。だから怒りは諦めと対局にある態度だと思います。怒ることが出来ない社会、怒ると非難される社会というのは、社会的に諦めさせられているのだと思います。あなたはせいぜいこの位の時給ですよと思いこまされ、とても巧妙に諦めさせられてる。諦めに慣らされていると思います。諦めが極まるとしんどくなるから、自死する人も居る。人に諦めさせる構造がどんどん強まっていると思います。
 
河本
自尊心ってなんでしょうね。
 
ブブ
自分がそこに居て良いという感覚だと思います。最も基本的に生きていて良いという感覚を持つことが保障されないのは、やっぱりおかしいと思います。
 
遠藤
今日の鼎談ではさまざまなポイントが提示されたと思います。それぞれの意見に偏りがあって当然でそもそもその前提でこうやって議論をしていくわけです。今後もこういった話し合いがいたるところでできればいいのではないかと思います。
ブブさん、山田さん、河本さん、本日はどうもありがとうございました。

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