座談会:ブブ・ド・ラ・マドレーヌ、山田創平、遠藤水城
記録:河本順子
場所:HAPSオフィス
日時:2016年2月23日 19:00-23:00
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ブブ
『わたしの怒りを盗むな』(*1)のタンブラーに対する反応で、最近ブブさん怒りすぎなんちゃう?という声があります(笑)。
遠藤
まず、明らかにしたいのは、その怒りが向いている対象は限定されているということですよね。差別の問題があります。あるいは、エスニシティ、セクシュアリティ、階級などさまざまな政治的社会的イシューがあります。一方でさまざまな自由な表現をする人間がいる。そのなかで、大学や美術館など「公共性」を担っている機関が問題を引き起こしている、という点に対して批判しているのだと思いますが、いかがですか。
山田
そう思います。
ブブ
そうです。遠藤さんがメールで書いて下さったように、今まで「当然ダメとされてきたこと」「言わなくてもわかること」が伝わりにくくなっている。それがなぜ伝わらないのかを今日は話すということだと思います。
「当然ダメとされてきたこと」「言わなくてもわかること」の中に、差別はあかんという「自明の理」も含まれていると思うんですけど、今回の事件も今までの芸大やったら実施される前に誰かが止めたはずだという意見をいくつか聞きました。その「自明の理」が崩れてきていると思っています。ではなぜ崩れてきているのか。それは、「どうしてそれは当然ダメなのか」「どうして言わなくてもわかるのか」ということが議論されてこなかったからではないかと思うんです。なんで差別はあかんのか、差別って何をどうしたら差別なのか、っていうことが広く議論されないまま漠然と差別はダメとされてきた。
遠藤
差別はいけない、無条件的にいけないといわれてきた。左翼的であることが共通の心性ではなくなってきている。結果として、心情的・道徳的好き嫌いだけが前景化してしまっている。その原理まで議論されていないということですね。同時にアートの社会的役割も原理的に語られていない。
ブブ
そうだと思います。あと「アート無罪」とか「アートは何をやっても良いはず」という意見というか言い方があります。その時のアートって何を指しているのか。アーティストのことなのか、作品なのか、キュレーションなのか、展示され公然化された場のことなのか、批評までを込みなのか。その同心円というか、レイヤーは複数あって、それをひっくるめてアートと称しているんだと思うんですけど。
アーティストって、憧れの職業みたいな、アーティストはモテるし儲かるし、みたいに思われているフシがあるんですけど、それって幻想ですよね(笑)。そういう人も一部には居るかもしれないけど、アーティストという職業は、社会性が無くても人に迷惑をかけても、素晴らしい作品を作れば評価されることもあるというだけだと思います。無茶苦茶な人でも評価されたり人を喜ばせたりする可能性のある職業だというだけで、無茶苦茶な人がただそれだけでアーティストであるということではない。アーティストは酷いこともやってしまう存在だし、でも同時にとんでもなく素晴らしいこともやってしまう時もある。そしてそれを公然化させるのがキュレーターの仕事だと思います。
私自身もいろんな所で作品を発表してきて、それぞれの場所でキュレーターが「その表現はこの場所じゃあまずいでしょう」とか「今回は難しいけど、こういう風にやったらいけるかも」ということをある種共犯者としてやってきました。それには私とキュレーターとの信頼関係も必要だし、発表する場所や時期の問題もありますよね。例えば東京と京都とロンドンではどう違うかのかということをアーティストとキュレーターはどう判断するのか。私はキュレーターがいなかったら展示や公演ができなかったり、ひょっとしたら逮捕されることもあったかもしれません。ということも含めてのアートということやと思います。
遠藤
ということは、ART ZONEでの鳥肌実問題(*2)に関しても、京都造形芸術大学の担当者がいたはずですね。この件に関しては、若いキュレーターたちもアーティストのように捉えるべきだと僕は思うんです。彼らが起こした問題を引き受けるべきは、彼らを選んだ大学側にあるように思う。そして今回のアクアでもその場に大学側の担当者がいたはずです。彼らこそ「キュレーター」としてある種の公共性を背負わなければいけなかった。キュレーターが表現の自由と公共性のあいだをメディエイトする。その機能が劣化しているのではないか。
ブブ
そう思います。今回アクアで起きたことについて(*3)、キュレーター的な立場にあった加須屋さんや藤田さんだけを責めたくて私は言ってるわけではないんですよね。彼女らに責任はあると思うけど、それだけを責めるつもりはない。問題が見過ごされてしまってわたしたちが怒るまで気付かなかった。それはアクアというギャラリー全体のムードかもしれないし、京都市立芸大全体のムードかもしれないし、アート界全体のムードかもしれない。彼女らの普段の人間関係や接している情報や環境の中では気付きにくかった。そういう意味では私自身もその環境に含まれると思うんです。
遠藤
なるほど。
ブブ
規制ということについて言うと、私はアーティストとしては規制される側です。当初より性的な表現を多くしてもきました。私の性的な表現というのは、わいせつ規制にたいする異議申し立てではなく異性愛男性中心主義に対する異議申し立てです。でも例えば裸であるというだけで規制される可能性がある時に、キュレーターも含めて皆で作戦を立てて、どうすれば可能かという方法を探してきた。
そこへ、3年くらい前からレイシズムが日本社会にも顕在化してきて、私はそれへの抗議行動も始めることになりました。レイシストたちは、基本的に「日本人を差別するな」と言います。在日外国人ばかりが優遇されるのはおかしい、というのが彼らの主張です。私は、いやいや、外国人だというだけで攻撃したらあかんやろと。そしてそもそも植民地政策から生まれた構造的な非対称による理不尽さに対する怒りがあって、でもその怒りを表明する時にいろいろ自分の中でも混乱があったんですよね。
エスニックマイノリティやセクシュアルマイノリティなど、マイノリティに対する差別扇動的な表現はある程度規制するべきだと思うんです。でも、規制ということでは自分の表現も、そして例えば政権やある企業に対する批判とか、そういうことも規制されかねない。
だからその中身はちゃんと自分で考えて、自分の頭で判断できるようにしておかないと、安易に規制するという方向にいくと危ないのではないか。今回のタンブラーもそこを含めて書きました。