開催情報
【作家】浜崎 亮太 Ryota Hamasaki
【期間】2024年7月26日(金) – 9月8日(日)
【時間】12:00-18:00
【料金】無料
【休館日等】月・火・祝日
*夏季休廊:2024年8月11日(日)~20日(火)
*臨時休廊:2024年9月5日(木)
【レセプション】7月26日(金) 16:00-18:30
会場
会場名:MORI YU GALLERY KYOTO
webサイト:http://www.moriyu-gallery.com/index.html?l=jp
アクセス:〒606-8357 京都府京都市左京区聖護院蓮華蔵町4-19
電話番号:075-950-5230
概要
『Self Portrait』statement
昨年、一昨年と MORI YU GALLERY の作家である黒田アキさんと幾許かの時間を共有する機会があったのだが、彼の仕草でとても印象に残っているものがある。
ある時、誰かがアキさんに向かって熱心に話をしていて、それを退屈でつまらなさそうに聞いているアキさんは、不意に私の方を見て「おまえもそう思ってるんだろ」と言わんばかりにニヤリとし指を差してきた。私も同じ様に感じていたから、たまらず笑ってしまった。そうなると熱心に話している人は急に笑い出した私を怪伬そうに見て、場の空気が変わる。つまりアキさんは私をダシにして状況を変えるずるい人なのである。そんな事が何度かあって、彼のそんな表情と仕草が脳裏に焼き付いている。
年齢の事を言うと彼に苦笑されるかもしれないが、黒田アキは今年の10月で80歳になる。彼からしてみれば私など小童の小僧なのだが、とても気遣ってくれる素敵な紳士だった。
そして黒田アキ氏の『Self Portrait』シリーズの制作を目の当たりにし、いま私がそのタイトルで作品を作るのであれば、いかなる作品が相応しいのかと考えるようになっていた。
Self Portrait / 自画像 という作品形態はこれまでも多くの作家によって制作されているが、本来は全ての作品がセルフポートレイトと呼び得るものなのではないかと考えている。それでもあえてセルフポートレイトと冠して作品を作るとはどういう事かと思案し、今回の展覧会タイトル、そして新作の『Self Portrait』の制作に至った。
自画像。私を見つめ、また私に見つめ返され、輪郭と突起物をなぞり、穿たれた穴を覗き込み、さらにはそこに指を突っ込む。そうして自分で自分を描く。また創る。それは自分で自分を掘るという事、もう少し生々しく言えば、自分の内部をまさぐる事だと言えるのではないだろうか。そう考えてみた。
そうすると私の中で幼い頃の経験や人類創世神話、また若い頃に大きな影響を受けた書物、自分自身の過去作の内容などが結びついて立ち上がり形を成してきた。
「Self Portrait」
人間が土や泥から作られたという人類創世神話は世界各地にある。残念ながら日本の古事記、日本書紀では人そのものの誕生は書かれてはいないが、創世記をはじめ中国の女媧や古代インドのバラモン教など調べればとても書ききれないほど出てくる。
私が20歳前後の頃に詩のようなものを書く事をやめたきっかけである詩人パウル・ツェラン、彼の詩のひとつに『彼等の内には土があった』というものがある。
旧約聖書、創世記のアダム、最初の人間は神によって土から創られた。だから人の内部には土があり、自分を掘り下げるためには自分の内にある土を掘らなければならない。あなたに届くまで。
アダム/Adamはヘブライ語で地面や大地の意のadamahの男性形で、人間/Humanという言葉の語源はラテン語の大地/Humusとされている。
ハイデガーの『芸術作品の根源』では”世界と大地”が対になって論じられるが、ハイデガーの用いる”大地”はドイツ語の”Erde”でありAdamではない。しかしドイツ語の創世記では”Gott den Adam aus Erde”となっていて、AdamとErdeは同義であると理解する事も出来る。
ハイデガーが大地という言葉に人間の内部の土・大地という意味を込めていたかはわからないが、そんな読み方が許されるなら”世界と大地”という概念に親しみを覚える事もできるだろう。
ここ数年、私には制作する時の最初のアイデアに辿り着こうとする度に思い出す過去の経験がある。
本当に小さい子供の頃、小学校1年生になるかならないかの頃、たった独りで干潟のぬかるみに足をとられ、もがくほどに沈んで抜け出せず、ただただ独りで取り残されて、このまま消えてしまうのではないかという経験をした。
その時はなんとか抜け出して、片方の水雪駄(和歌山弁でのビーチサンダル)を犠牲にして生還した。泣きながら帰った記憶はなく、片足は裸足で心細さもあったはずだが、無くしてしまった水雪駄の事よりも生還できた安堵の方が大きかったと記憶している。
その時に味わったような泥の中に自ら手を突っ込んでいくようなイメージ。なんのあてもなく真っ黒で底も知れない泥の中に手を突っ込み、ひたすらなにかを手探りで探し続けるようなイメージ。そしてそんな得体の知れないところに手を突っ込まなければ、自分が納得できる作品にはきっと辿り着けない。そんな感覚がある。
これを書きながら、もしかしたらあの時に無くした水雪駄を探しているのか?とも思ったが、私は過去の遺失物よりも、まだ誰も見た事がない様な真正な作品を探り当てたい。
浜崎亮太