開催情報
【期間】 2025年6月28日(土)- 7月13日(日)
【開館時間】11:00〜19:00
【休館日等】水曜日・木曜日
【料金】無料
https://www.g-utsuwakan.com/gallery/exbt-20250628
会場
会場名:GALLERY器館
webサイト:https://www.g-utsuwakan.com
アクセス:〒603-8232 京都市北区紫野東野町20-17
電話番号:075-493-4521
概要
「おはようございます。昨日、撮影に使ってもらう作品をお送りしました。そのなかに青瓷が五点、真砂土を原料にした真砂青瓷が入っています。泉山、天草陶石、唐津紫砂と、胎土により釉調はそれぞれ違ってきます。今年は真砂土から粘土を精製できるようになりました。韓国慶尚南道を旅したときに地元の陶芸家から、ここら一帯は真砂地帯なんだと聞き、李朝時代に焚かれた御本手や玉子手、伊羅保、蕎麦茶碗などが一本のラインに繋がって見えるようになりました。帰国してすぐに似たような真砂を探して、それが青瓷に焚き上がったときには、言葉にできない気持ちになりました。あと一ヶ月弱、どうぞよろしくお願いします…」。
豊増から近況の消息がSNSで送られてきた。読んで真砂土とは何ぞやと怪訝に思った。〈浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ〉という石川五右衛門の辞世の句を思い出した。真砂は砂である。砂はいくらつき砕いてもやきものの土にはならないだろう。真砂土を得るために浜辺でも掘るのだろうかとあらぬ想像までしたが、聞けば真砂は〈まさご〉にあらず〈まさ〉ということだった。真砂土は〈まさど〉と読むのだと教えられ腑に落ちた。青瓷に仕立てるような素材だからなにか特別な土ではないかと思ってしまったのである。それならわかる。真砂土は庭土や園芸に利用される土で、花崗岩が風化し粒子化したカオリン含みの土である。いわばありふれた山土で、どこにでもあればどこででも買えるような土なのである。
青瓷を思うに、その発生当初、初源は図らずも青瓷になってしまったということだったのではないか。そこからあくなき美への追求が何世紀にも渡って続けられるわけである。偶然と蓋然の入り交じった〈なる〉から、それ自体で存在して〈ある〉といった青のイデアへの憧れに目覚める。無数の試行と吟味が行われ、宋代まで行って最高潮に達する。雨過天晴の青瓷を焼造した空間は、チリ一つ落ちていなかったのではないか。陶石も釉も、雑味皆無の稀少かつ最高の素材を持って来たにちがいない。あれはもう個がなし得るような達成などではなく、専制政治による有無を言わさぬ動員によってなされたことだと思う。そして人は消え美だけが残ったのである。
豊増は今回、真砂〈まさ〉青瓷で新味を出してきた。やり尽されて、ペンペン草も生えない青瓷というカテゴリーにおいて、作家としての面目をほどこしたと言えるのではないか。ひょっとして通販でも購入可能な真砂土を胎として、それを青瓷に翻案している。真砂土100%の単味である。庭に撒かれるような土に着目し、意表をついて新味を出すというスタイルに、いっそウィットというか、やつし、見立てといった彼の批評精神を見る思いがした。彼を知る者としては嬉しくも思いがけないことだった。
鉄混じりの土を薄く挽き上げ、深く鋭利な片切彫り、即興の唐草文様、釉調は安定して出せるのかわからないが、土が真砂土だからこその景色であろう、自然光の下では、沈んだ藍青色に幽かに緑をまとっているように見える。見込に白く浮かぶのは一群の白雲のようである。
作家は残酷にもつねに新味を求められる。しかし新味といっても人は神ならぬ身である。古今未曽有の全き新しいものを宙にぶら下げるようにして作り出せるものではない。豊増は付け加えを行ったのである。真砂青瓷という自身の新味を押し出してずっこけず、成功しているのである。苦心の末にである。付け加えを行えるということは、そこになにか付け加えを許す土台がなければ不可能であろう。その土台とは広範な彼の陶磁史的視座にあると思う。如何なるものかここで詳述はしないが、彼のそれは渉猟的でかつ深いものがある。温故知新というが、彼はそれの出来る人なのである。そこに確乎とした彼の自己同一性も見えてくる。温故知新、言うは易し行うは難しだが、豊増の付け加え、新味とは、そういったわけのものなのである。
二年ぶり、四回目の個展であります。他にも白磁、染付、紫砂青瓷などが見られることと存じます。何卒のご清賞を伏してお願い申上げます。-葎-