Exhibition Review

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2013.11.05

芸術家

伊東宣明

Antenna Media

2013年5月21日(火) - 2013年6月2日(日)

レビュアー:吉田モモコフ


「アートが先か、アーティストが先か。」もちろん、どちらが先か、ということが問題なのではない。タマゴとニワトリについての問いに答えが見つからないのと同様に、「アート」と「アーティスト」もまた、相互依存的に生成され続けるプロセスの渦中にあるのであり、そのプロセスに依存することでしか「アート」も「アーティスト」も考えられず、そこではむしろ、その問いを繰り返す地平を支配しているものについて問わなければならない。

今回の「芸術家」の展示は、作家自身が撮影したモキュメンタリーという形の映像作品を主とする。その中で伊東は自身が恣意的に選んだ過去の芸術家の言葉を「芸術家十則」として芸大卒の岡本に唱えさせる。そこでは「社会人」を参照あるいは揶揄するかのように「芸術家/アーティスト」というある種の枠組みが想定されるのであるが、それは多分に疑わしい枠組みでもあり、何度も唱えられる「芸術家十則」によって逆説的に、「アーティスト」とはそもそも何者なのだろうか、という問いが強調されることになる。

「アーティスト」とは、しばしば自称され、あるいは権威によって賦与される名前である。何かモノをつくる人のことを、私たちは便宜上、そう呼ぶことが多い。伊東が「洗脳」という言葉を用いたように、それは多くの場合、ある種の「思い込み」のような、実体のない概念であるように思われる。かつて「アーティスト」が「職人/技術者」であった時代には、その所産としての「アート」は何かの役に立ったり、誰かの目や耳を楽しませたりするものであった。しかし現代における「アート」は、何かに仕えたり、誰かの感覚を楽しませたりといった側面を、デザインやエンターテインメントに譲り渡してしまった。あるいはその「技術」という側面を、文字通りの「テクノロジー」によって侵食されつつある。「アート」は何かの役に立つものではない、「アート」は「美しい」に安んじてはいけない、「アート」は消費されてはならない…。それはまるで否定神学のように、何かを否定することでしか自己を規定することができない。何かの「外部」であり続けようとするような、常に「外側」へ這い出そうとする力そのもののことを、いま私たちは「アート」と呼びたいのではないだろうか。そうだとすれば「アーティスト」とは、他の何者でもないユニークな自己というものを持った主体であり、それを自由に表出し「作品」とする人のことである、ということになる。

展示スペース一階に、一言ずつ絵とセットになって並べられた金言は、まるで「芸術家」を宣伝するポスターのような佇まいを見せていた。「芸術家」とはかくあるべし、というありがたいアフォリズムは、広告のキャッチコピーのようにキラキラと輝き、夢を語っているようだ。壁に並べられたそれらの言葉は、間違いなく、心地よいものであった。ところが、この作品において伊東は心地よいはずの言葉に、一分以内というほとんど無意味な制限を課し、声が嗄れるほどの声量を要求することで、金言からその輝きを削ぎ落としてしまう。それは狂気じみた「絶叫」と化し、それによって「芸術家とは何か」「自分は何者か」と自問自答することの苦痛が視覚化されているようだ。そこでは、自らを安全に保つための砦であったはずの「芸術家とは」の金言が、翻って自らを縛り上げ苦しめる重壁となり、迫り来るように感じられる。自らの身を守るための刀であったはずが、諸刃の剣となり自らをも切り付けてしまう。その残酷さを最も目の当たりにさせるのは、声を嗄らして絶叫する岡本を鏡越しに撮影したシーンである。狂気じみた姿ははっきり言って、目を背けたくなるものだ。鏡越しに彼女を観ることは、カメラ越しに観ることとは決定的に違う。自分自身を見ている彼女を、私たちは観るのであり、それは彼女を観ることではなく、彼女自身の自意識を観ることである。「自分は何者か」という問いに「わたしはアーティストである」と答えようとする、しかし「アーティストとは何者か」というすぐ次にやってくる問いは「芸術家十則」を唱えることによっては決して解決されない。なぜなら、そこでは「自分は何者か」という問いを凌駕する勢いで「自己表現」という言説が駆動しているからである。ともすれば「人と違うことをすること」と容易に翻訳されてしまうような「自己表現」という言説は、他の何者でもあり得ないユニークな存在である「自己表現」者としての「アーティスト」を、その「芸術家十則」さえをも越え出てゆかなければならない運命に付すのであり、その暗黙の了解が絶叫を悲鳴へと変えるのである。そして結局、「自分は何者か」という問いは空回りしながら擦り切れてゆき、ヒリヒリとした痛みとして残存する。

しかし、そうであるならば、そもそもこの「十則」を唱えることは、「芸術家」にとって、彼女の自意識にとって、どのような意味があるのだろうか。実のところ、そんな金言に縋ったところで何ら安全ではないということは、冷静に考えればわかっているはずだ。それがただ「心地よい」だけの、まるで個包装になったキャンディのような救済に過ぎないということを、私たちはおそらく初めからわかっていたはずだ。重要なのは、それでもなお私たちはその救済に縋ってしまうし、縋らざるを得ないのだということである。それが自分の心底信頼できる救いなどではなく、切り捨てることも可能ではあるが、しかしそれでもやはり掴んだままでいる、そんな後を絶たれた、鬼気迫った必然性のようなものを、私たちは鏡越しの絶叫から聞き取ることができるのではないだろうか。

「アートが先か、アーティストが先か」を繰り返すまさにその足場には、私たちの「自己表現」への信仰がある。神聖化された「自己表現」は過大に期待され、形骸化し物神化してしまっている。だからこそ「自己表現者」である「アーティスト」が「自分は何者か」という問いの根底に「自己表現」を措定するやいなや、その問いそのものがトートロジカルに内側から崩れていくのである。しかし、それでもなお彼女の絶叫は空虚なものではなく、血の通った生々しさを持ったものとして迫り来る。この作品は「アートが先か、アーティストが先か」と問うことによって、そんな「自己表現」への空虚な信仰を浮き彫りにする。更に、決して楽観的にそこに安住するのではなく、ヒリヒリとした「自意識」への痛みを自覚しながらも、それでもなおそこに留まるような、そんな流血を目の当たりにさせるのである。

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