Exhibition Review

2017.03.10

キュレータードラフト2017『スポンテイニアス・ビューティー -作家のいない展覧会-』 キュレーション:笹原晃平

京都芸術センター

2017年2月18日(土) - 2017年3月26日(日)

レビュアー:岡本秀 (22) 学生


 

展示物のなかに、展覧会会期中に配布されているフライヤーを全て収集し展示したものがあって、それがどうしても気になる。
地域やコミュニティといった集団のなかで消え、忘れられてしまったものに眠っている「スポンテイニアス•ビューティ(なりゆきの美しさ)」
たしかに、いままさに消費され、広告から考古物へと移ろい行くフライヤーたちが、会期を同じくしているという偶然から協奏する一期一会には感じ入るところがある。
しかし、広告を寄せ集めただけの展示がそこに眠る美を顕在化しているかというと疑問だ。
この作家のいない展覧会では、企画者である笹原晃平という作家が隅々まで自身の指向性を働かせている。ステイトメントでは「キュレーティングという「技術」をつかって何ができるか?」と提起してすらいる。どうやら笹原さんは、自身が作家であると半ば自認しながら、それでもなお美術作品制作者がいない、借りて集めたものだけで構成された展示を“作家のいない展覧会”と名付けているようだ。
しかし翻って、先のフライヤーの展示に作家はいないのだろうか。
壁面にこつ然と集められたフライヤーたちをデザインしただれかは、作家ではないのだろうか。宣伝のため、これらを各地に貼り歩き回ったり送付しただれかは、フライヤーの所在を指揮し、膨大な都市パターンのひとつを形成するキュレーターと呼ぶことが出来ないのだろうか。
本当に見えなくなっている美とは、そうした実在を慮ることすら危ういヒトの存在と、その苦労のあり方ではないのか。
集団から立ち現れてくる美は、膨大だ。だから、あまりにも多くの他者が《不在》となってしまう。その《不在》を想うことにはある種の官能がある。私は知らずと、この展覧会にそうしたものへの慈愛を期待していたのだが、行って感じたのは展示構成のバリエーションの展開だった。
改めて考える。ギャラリーや特定の場における作家《不在》の展覧会など可能なのだろうか、それにはなんの意味があるのだろう。誰にも名指されず宙づりになった意味が、街中にはすでに溢れかえっている。

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