Exhibition Review

2020.01.24

ぼくらとみんなは生きている5 〜持続可能な愛のステージ〜

大川原暢人、川又健士、迫 竜樹、鷲尾 怜

京都市立芸術大学ギャラリー

2019年8月31日(土) - 2019年9月16日(月)

レビュアー:小松千倫 (27) 学生

9月に入って夏が重い腰をあげたようだ。世間は9月からは秋だと言わんばかりだが、終わったのは夏休み期間や24時間テレビである。夏があまりに多くの代名詞や風物詩を抱え込まされていることが気の毒に思われる。何度も終わりが断言されるのは四季のなかで夏くらいじゃないか。サヨナラを言い渡され、疲労と倦怠感がせつなさにすり替えられた。ともあれ筆者もまた、夏の終わりを認めることができない一人だ。倦怠感を確かめるように自転車で30分かけてたどり着いた京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでは大川原暢人、鷲尾 怜、川又健士、迫 竜樹による展覧会「ぼくらとみんなは生きている5 ~持続可能な愛のステージ~」が開催されていた。

1階の別の展覧会を見終えると、展示室の奥の階段の手前に2階へ誘導する手書きの矢印が見えた。階段をのぼる途中、天井に2つ映像が互いにかぶさる形で投影されていることに気づくが、上を向いたまま階段を登るのは危険なので登りきってから振り返り観た。それぞれの映像に人物が写っており、何やら会話や作業を行なっている。展示室の手前に置かれた解説と、事前に行われていたという往復書簡の記録を見れば、登場するのは参加作家の4名であり、続いて設置されているモニターやプロジェクションされた映像、再生される音声も、全てある一連の会話や作業の記録になっていることがわかる。それらは東京を拠点とする2名(川又健士、迫 竜樹)と京都を拠点とする2名(大川原暢人、鷲尾 怜)が定期的に様々な荷物を郵送し合い、それらを開梱する作業と、それにまつわる会話の記録である。作業は当の展覧会の設営期間にまで及んでおり、展示物の搬入、開梱、設置の様子と、ようやく空間を共有することになったであろう4名の意思疎通が記録されているようだ。同じく筆者の隣で解説を読み終えていた人が、展示室の中を一瞥し「なるほど」と言って同伴者とともに足早に会場を去って行った。

その後の展示室内でも、言ってしまえば「なぜこの展示形式がありえたのか」だけが広げられている。とりあえず会期が始まっちゃったから仕方ない、というふうに、梱包材と開梱された物品があからさまに雑然と置かれ、状況説明に転じている。この場合「展覧会」は作業の中断でしかないだろう。さらにそれを印象付けるかのように、メインの展示室を出て、出口へ進むあいだの廊下にも、スペースの許す限り、開梱を記録した映像や開梱物が床に文字通り広げられている。ここでは展示にまつわる事前の準備作業を遅延しかねない行為(業者に委託する運送)を当たり前のように引き受けることによって、言ってしまえば延々と終わらない準備によって「終わりの始まり」(展覧会)が否定されているようだ。準備する行為の「持続可能性」がその中断というかたちで表わされている。しかしある行為が(記録)物に絶えずスライドする展覧会=ステージが仮設されなければ、その中断の「上演」もあり得ない。

そもそも何が持続可能なのか、可能でないのか。それ自体普段は信じられているシステムに時々噴き出てくるエラーをできる限り捉えることでしか判断できないのではないか。例えば、私たちが今日体験する「巨大台風」や異常気象などの非常時に、まさに運送システムが機能すべきか、そもそもできるのかという問題がある。このようなエラーによって物流の神話、インフラストラクチャーという幻想それ自体が表面化するのではないか。本展覧会で「上演」される持続可能性も実際は、それを抱含する現実のエラーによって幻想であったことが明かされるに過ぎないだろう。 

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