Exhibition Review

2019.12.05

The Voices of Time

国谷隆志、三宅砂織

絆屋ビルヂング

2019年8月30日(金) - 2019年9月8日(日)

レビュアー:かとうたかふみ (32) 大学講師


 

 〈DON’T FORGET ME〉という発話を受け止めることには、ある種の責任が伴う。これは理不尽な差別や抑圧を告発する声かもしれないし、「もっとちゃんと構ってよ」という馴れ合いの言葉なのかもしれない。しかしいずれにせよ、この発話を受け止めた側は「忘れないよ」という態度を返さねばならないような気がしてくる。そして、はたと考える。〈ME〉の何を、忘れないと返すべきなのだろうか。「忘れるな」と言われた時点では、「忘れるな」と言われている対象は定かではない。言われた時点から、言われた側が、「何を忘れるべきでないのか」を考えねばならない。
 ネオン管によって短文を成形した国谷の作品(《Untitled (DON’T FORGET ME)》)は、絶妙な高さにあるガラス板の上に水平に設置されているため、そのままでは文を読むことができない。身を屈め、ガラス板の下からネオン管を見上げる。そうして出あう〈DON’T FORGET ME〉。ただし、ここまでの過程で既にこの作品とのエンゲージメントは部分的に果たされている。そもそも、わざわざ身を屈めて仰ぎ見たから、きみとあえた。きみがここにいることは忘れない。でも、それだけでは不十分なのかもしれない。もっと何か、忘れるべきでないことがあるのかもしれない。ネオン管の青白い光が、そうした責任感を刺激する。
 緻密な配慮のもと張り巡らされたカーテンのおかげで、展示空間に外光は全く入ってこない。ここには光源が二つある。国谷のネオン管と、三宅作品を放映するブラウン管テレビだ。三宅は、銀座で同作品を展示した際には、プロジェクタを用いて壁面いっぱいに映像を写していた。しかし今回は、ブラウン管テレビを媒介とすることにより、像は小さくなったが、作品の支持体それ自体が発光し、かつ、周囲からの光を━━つまりネオン管の青白い光を━━受け止めるという構造が出来上がっている。こうしてあたかも、二つの光は何かしらのコミュニケーションを取り合っているかのようだ。
 三宅は、ベルリン五輪に出場した体操選手の写真と出あい、みずからベルリンに赴き、その記憶をたどった。そうした過程を経て制作されたのが本作品《Garden (Potsdam)》である。これは、三宅によって再構築された、あえて言ってしまえば捏造された記憶である。実際、本作品はことさらにみずからの仮象性を強調しているようにも見える。
 さて、三宅作品はいかなる形で〈DON’T FORGET ME〉に応答しているのか、と問うてみる。一般論として、写真は、あるものがかつて特定の場所に物理的に存在していたことを証言する。写真は思い出を物語っているなどと言ってもいいし、「インデックス」などという用語で語ってみてもいいかもしれない。ともあれ写真は、そこに写っているモノ・コトの存在を「忘れないで」と語りかける機能を持つ。三宅は写真と出あい、「忘れないよ」と応じてみた。しかしそうして責任を負ったものの、何を忘れるべきでないのか。三宅の対応はこうだ。彼女は、忘れるべきでない対象を、みずから再構築したのである。
 三宅はここ数年、《The missing shade》というシリーズ作品の制作を続けている。この連作は、スコットランドの哲学者デイヴィッド・ヒュームの述べた〈The missing shade of blue〉という思考実験に着想を負っている。ひとくちに「青」と言っても、濃紺からスカイブルーから、様々な色合いの青がある。あなたは、ある一つの色合いの青を除いて、あらゆる濃淡(※色合いは彩度や明度といった複数の次元を持つが、ここでは議論の便宜上、「濃淡」なる次元だけ取り上げることにする)の青を経験したことがあるとする。経験したことのない青が「The missing shade of blue」(以下MSB)と呼ばれる。あなたは、経験したことのある青色については、その色の観念を有していると認められるだろう。さて、あなたが有している様々な青の観念を、濃淡順に並べたとする。すると、ずらっと並んだ青の観念の列の中に一箇所だけ、本来ならMSBの観念が並ぶべきところに隙間ができる。ここで問題。あなたは、自分が手にしている観念から推論するなどして、MSBの観念を導き出すことができるのか。あなたは、MSBよりわずかに濃い青とわずかに淡い青の観念は有している。そうすると、それらの観念の間をとること、つまり両観念の色合いの中間にある色合いを想像することによって、MSBの観念を導き出せるのではないか。換言すれば、ヒュームの思考実験が示唆しているのはこういうことだ。人間は想像力の働きによって、個々の経験から、経験したことのないものの観念を導き出すことができるのかもしれない。そして三宅作品もまた、実在の写真から、経験したことのないはずの「記憶」を導き出す。
 国谷のネオン管と三宅のブラウン管のコミュニケーションに話を戻そう。両者は何を語り合っているのか。〈DON’T FORGET ME〉というネオン管の呼びかけに、ブラウン管は記憶の捏造によって応答する。しかしこの記憶は、どこか郷愁を誘い、蠱惑的で、見る者はこの映像空間に安寧を見いだす。もしかしたら、ここに映し出されているのは本当の出来事だったのかもしれない。そんな気がしてくる。経験したことのなかったはずの「The missing shade」が、具体性を帯び始める。

「忘れないで」
「忘れないよ、ほら、こういうことだろう?」

 犯罪を抑止すべく街灯に利用されることもある青白い光には、心を落ち着かせる効果があるらしい。ネオン管の呼びかけに、ブラウン管はきちんと応じてくれた。だから両者の関係は安寧のうちにある。「The missing shade」の隙間は、青白い光で満たされている。この事態は良いことなのだろうか。分からない。すぐには判断がつかない。ただ、「忘れないで」という声に応えること、記憶を思い返すことには、否応なくこうしたことがついて回る。この青白い、心地よい空間で、私たちに突きつけられているのはそういうことがらだ。こうしてまたひとつ、私たちは責任を負ったことになる。

 

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