Exhibition Review

2019.01.29

Midnight Museum「Exercise for Death 2 」

水木塁、矢津吉隆、Benjamin Efrati

YOKAI SOHO、Midnight Museum

2018年10月5日(金) - 2019年1月27日(日)

レビュアー:黒嵜想 批評家


 
自死できるのは展覧会だけ

 
 

 『Exercise for Death 2』は「変身譚」を主題として敢行されたグループ展である。この主題は、各作品の内実としてはもちろん、展覧会そのものの展開においても試みられている。ほぼ同一の出展作品によって本展は、異なる二つの場所で二度開催されている。一度目はイベント会場である「YOKAI SOHO」にて、二度目は古民家を改修して開かれたギャラリー「Midnight Museum」にて催された。展覧会自体のパッケージがそうであるように、本展のステートメントにおける「変身」という言葉は、作品という静的な単位ではなく、展示という動的な行為への評価を要求しているように思える。
 しかし、本展がこのような構想の元に企図されたものであるならば、二つの展示のあいだに物理的な「作品」がなぜ温存される必要があったのだろうか。一度目の展示で白壁に掛けられた作品群は、二度目の展示においては元より民家であった会場に、まるで家具であるかのように再配置されている。矢津吉隆の作品は壁掛け鏡のように、水木塁の作品は柱の留め具のように。だがそうであるならば、端的に言って変身が観察されるのは、それぞれの空間から同一の作品群を引いた差分としての「展覧会」だけである。たとえ本展全体を「作品」と言い募ったとしても、二つの展示の推移が露わにする、不変の部位への問いは帰ってくる。
 本展は展覧会『Exercise for Death』に続くものとして企画されている。前回の展示において「死ぬことの練習」であった「睡眠」は、本展では「変身」に置き替えられ、日々精神と肉体を変化させる私たちは「絶え間ない死にさらされている」とされる。さて、再開不可能であることが死の定義ならば、展覧会にとっての原理的な死とは作品の物理的な破壊であろう。そう、作品は殺さなければ死なないのだ。そして本展が展覧会である限り、誰もが先述の「殺し(の練習)」を実行することはなく、この意味で作品はそもそも不死である。ならば、本展が述べる「睡眠」や「変身」は未だ、展覧会における再開可能な死、「会期」という区切りを言い換えたものに留まるだろう。

 Benjamin Efratiのパフォーマンスが表象する変身譚は、続く問いを立てる。
 私たちは変身しうる。だが、何によって?

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