Exhibition Review

16_2017

2018.01.24

《EXP 2017》牧野貴/ピーター・バー作品上映

牧野貴,ピーター・バー

同志社大学寒梅館クローバーホール

2017年11月7日(火) - 2017年11月7日(火)

レビュアー:植松由希子 (35) 会社員


移動しながら映像を作る作家の作った映像作品は、同じ街を撮影した映像を210程も重ね合わせたものだった。その街は変化ばかりの街で、世界中の至るところと比較しても、その街の変化は類を見ない。作家はその街で生まれ育った。だけど、その街にノスタルジーなど一切感じないという。

上映作品のひとつ、タイトル「On Generation And Corruption」は、「生成と消滅」のことである。映像の物質性を考えるための言葉として選ばれた。作品制作中、作家が移動先のギリシャでアリストテレスの著書を教えられ、宗教も科学も使わずにただ思考のみで生成と消滅をの著書に感銘を受けた。作家は自身の映像作品の上で、政治性も否定する。あらゆる否定の上に、作品に立ち上がってくるものが何であるか、関心が生まれる。

実際のその映像は、終始とても深くて黒い画面をしている。暗さの中に深さを感じるのは、黒さの闇の中に、終始高度な抽象が常に展開していき、変化するからだ。けれどその黒が表すものは詩ではない。作家が否定するように、感傷的な夜の闇ではないからだ。ではあの闇は何なのか?

どこまでもずっと続きそうな映像に、鑑賞中ふと終わりの形が気になった。

実験映像について考える際、構図という言葉は大事な手掛かりになる。映像は構造による2つの山があり、それぞれの山の終わりに白い画面が出来る。そして、3つ目の山が始まろうとするときに映像は終わる。音楽はその映像の構図とは全く別の動きをしながら流れていく。終始抽象的なモチーフが黒い画面の中に蠢いる。その上で、映像に映っている原型を感じる場合もあった。それは水面がたゆたんでいる様子でもあり、別の場面ではたくさんの人が行きかっているようでもある。だけどそれはすべてが鑑賞者の想像が入り交じる。

画面が終始暗い映像上映の場合、自分と映像を直接的に結び付ける。画面の明るい映像は、目が慣れてくると、自分が映像の前にいることを空間として把握できる。だけど、暗い画面であるなら、それは空間ではなく、画面と自分の目との距離でしかなくて、目から入ってきた像が頭の中で直接的に像を作り出す。画面の暗闇の中に奥行きを持って流れていく映像は、つまり、自分自身のまぶたの裏側の世界に等しい。

まぶたの裏側の世界は、人が本来目を閉じれば自分の中で見る事が出来る暗闇の世界である。すぐ簡単に見る事が出来るはずの自分自身の中の映像を、普段ほとんど意識もせず、忘れてしまっている。忘れ置かれた世界を思い出すと同時に、その世界で自身が観るに耐えうるだけのものとして、何を見る事が出来るのか。たとえば、帰り道の道路に、小さい柿が点々と離れた場所に4つ道なりに落ちていた、なんでもない経験を思い出す。自分が観たままの出来事から生成と消滅を作り出すこと。表象に物事の経緯や物語を持たせないことは、どこまでも可能であり不可能なのだ。それは曖昧さではない。

鑑賞者が外界に対するあらゆる影響と否定を繰り返して、まぶたの裏側に立ち現れる世界は、深くて黒い映像の世界を表わす。その世界は、映像の物質性における生成と消滅の考察と同様に、終わりがあるようであって終わりがない。

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