Exhibition Review

2018.01.10

ALLNIGHT HAPS 2017前期「日々のたくわえ」

井上亜美,廣田真夕, 迎英里子,札本彩子

HAPS

2017年8月1日(火) - 2017年12月4日(月)

レビュアー:渡辺洋平 (32)


 「日々のたくわえ」と題され、「狩猟」、「畜産」、「屠畜・解体」、「加工・消費」をそれぞれテーマに開催された、井上亜美、廣田真夕、迎英里子、札本彩子による連続個展。その始まりとなった井上の展示についてはすでにレビューしたが(http://haps-kyoto-com.check-xserver.jp/haps-press/exhibition_review/07_2017/)、四人の展示が出揃った今、あらためて全体を振り返ってみたい。
 まず四者に共通していたのは、作品内部における作者の存在の希薄さという点であろう。最後の札本を除いた三名の作品には作者自身がなんらかのかたちで現れていたにもかかわらず、そこに現れるのは作品のすべてを把握し、統合するような絶対的存在ではない。むしろひとつの被写体であり、子どものような記録者であり、抽象化された工程の部品である。作者は、作品の外部にある創造者ではなく、作品そのものの一部になっているのである。最後の札本だけが作品内には登場しない。しかし逆説的にも、作品の内部に登場することのない札本の作品が最も生々しいものだったようにも思う。これは以下でも確認するように作品の優劣というよりは、扱っている主題によるものだろう。
 井上は自分自身を被写体とするセルフ・ポートレートによって、みずからを対象化する。淡々と映し出される狩猟の場面のあいだには短い文章が挿入されているが、そのほとんどは事実を淡々と報告するだけで、感情的な色彩を帯びてはいない。また獲物を捕らえる瞬間もおそらくは意図的に排除されており、このことは井上が動物とのドラマチックな対峙というステレオタイプな狩猟のイメージではなく、現実に行われている狩猟をそのまま提示することを意図していることを示しているだろう。おそらく、同様のことが次の廣田にもあてはまる。フランシス・ベーコンを思わせるような力強い筆致で養豚場の光景を描いた絵画と、そこでの日々を綴った絵日記によって構成された廣田の展示は、その絵が力強く養豚場の場面を描き出しているのに対し、絵日記に書かれた文章はすべて短文であり、感情表現をほとんど持たない。絵日記という形式同様に子どものような文章ですべてが記述されており、そこに現れるのはなにかを伝えるために意図的に再構成されたものというよりも、廣田自身に対して現れた現実そのものである。
 迎は、本来生々しいはずの屠殺・解体の工程をいわば「抽象化」することによって再演する。血液がビーズに、臓器がビニールバッグに変えられたのと同じく、パフォーマンスを行う迎自身もまたひとつの部品へと変貌し、機械的な過程の一部となる。淡々と動作をこなしていく迎の姿は、機械的に行われる屠殺の行為だけでなく、文字通り機械的工程の一部として機能する人間の姿をも表しているだろう。最後の札本は、自作の食品サンプルによって作られた大量のコンビニ弁当と、同じくサンプルの牛丼でかたち作られた脳や、ポテトサラダで作られた大腸といった臓器のオブジェを展示する。これらのサンプルは街でよく目にするものであり、単純な作家性をその造形から見出すことは難しい。
 このように四人は、みずからの作家性を一旦宙吊りにすることで、社会の中にありながら通常は見過ごされているような場面を主題化する。養豚場での豚の世話であれ、その屠殺であれ、日々必ずどこかで行われている。そうでなければ毎日スーパーにならぶ食肉はどこから来るというのか。しかし私たちは、そうした職業に従事でもしていないかぎり、これらの過程を意識することはない。大多数の人間が毎日行っている食事という行為にしても、それが文字通りみずからを作り上げているということをどれほどの人が意識しているだろうか。狩猟という一般人からすればなじみのない世界にいたっては、言うまでもあるまい。
 彼女たちの共通点は、現実の一部を切り取り、それを自分たちの表現に変えている点である。それによって彼女たちの作品は、現実とのひとつの回路を与えてくれるのである。現実は多様な面を持ち、そのすべてをとらえることはできない。無数の要素が錯綜した現実の中で生きざるをえないこと、彼女たちの作品はこの当然とも言える事実をもう一度教えてくれるだろう。したがって、鑑賞者に求められるのは、彼女たちが提示してくれた視線に対して自己を開くことであり、現実との新しいつながりを獲得することである。
 とはいえすでに述べたように、最後の札本の作品は、他の三人のものとやや位相を異にしていたように思われる。それ以外の三人の作品には、作者自身がなんらかのかたちで登場していたのに対し、札本の作品にはそれがない。しかしそれにもかかわらず、札本の作品は最も生々しく鑑賞者に訴えかけてくるのである。だがそれは作品の優劣ではなく、主題そのものに由来する性質だろう。他の三者が主題としてきた「狩猟」「畜産」「屠殺」が、それらの活動に従事しない人々にとっては、同じ社会の中にありながらも疎遠なままにとどまりうるのに対し、「食べる」という行為は他者によって代替されることが不可能である。私たちは誰かの代わりに食べることはできず、また食事を代わってもらうこともできない。この代替不可能な行為としての食事、そしてこの食事が文字通り自分自身を作り上げているという事実。これらの事実が、札本の作品を必然的に生々しいものへと仕立て上げているのである。
 現実に対する新たな視線や回路を作りだすこと、これはあらゆる芸術に共通する主題だと言うこともできようが、彼女たちはその視線や回路を自分たちの身近な場面に対して作り上げようとするのであり、この意味でかつてポップと呼ばれた一群の作家たちと近しい位置にいるように思われる。名もなき人々の死を前景化するウォーホル、拡大されたマンガのコマによってステレオタイプのイメージを突きつけるリキテンスタイン、ファーストフード食品をソフト・スカルプチャー作品に仕立て上げたオルデンバーグなど、彼らもまた身近にありながら、あるいは身近にあるがゆえに素通りされてしまうような現実を表現の対象としていた。そしてポップの作家たちが社会批判や風刺を目指していたわけではないように、彼女たちもなにかの答えを与えることはしないだろう。それはテーマ自体が単純な答えを阻むものだからであり、結局のところ答えなどないからである。しかし彼女たちが問題とした場面は決して虚構ではなく、現実に存在している。この現実とのつながり、これこそが彼女たちの作品が与えてくれるものなのだ。

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