Exhibition Review

ZOO

2017.02.11

篠田千明『ZOO』

篠田千明

京都芸術センター

2016年11月11日(金) - 2016年11月13日(日)

レビュアー:長谷川新 (28) インディペンデント・キュレーター


 

マヌエラ・インファンテによる劇作『動物園』を大胆に解釈して発表された篠田千明による演劇『ZOO』は、大きく失敗と成功に引き裂かれている。後者(成功部分)から先に触れよう。アートディレクターたかくらかずきによって導入されたVR(ヴァーチャル・リアリティ)は、最新のテクノロジーを、その最新さを理由にせず演劇に導入しているという点において画期的であった。「VRは演劇である」という暴力的接続が、YoutubeでのPV配信、開場前の来場者控え室で手渡されるスーパーファミコン的マップ、いつでも自由に歩き回ることができ撮影も許可された演劇空間といった物理的要素それぞれ(のレイヤー)と必然性を持って呼応している。また、「演技しない」という役者と演出家のある意味では究極のアポリアに対して、ヘッドマウントディスプレイをつけるという一点で解決策を提示した功績も大きい。それはすなわち、リアル/フィクションという対立それ自体を無効化し、複数の自然=世界を、それぞれの距離を変動させることなく連結させることに成功していたことを意味する。

他方で、脚本については大きく後退していると言わざるを得ない。後退という言い方が強すぎるのであれば、「演劇の定石」への批判的検討の不足、と言い換えても良い。まず動物園(ZOO)というタイトルから、近代における(動物園はフランス革命以後出現する)帝国主義、人間中心主義を批判する含意がすでに露呈していることに対しての対策が講じられていなかった。このタイトルを冠する演劇において、脚本上最も回避すべきは、「観客(見ている側)こそが演者(見られる側)であった」「研究者こそが研究対象であった」という転倒というパターンであり、次に回避すべきは「あなたもまた○○なのです」という全面化(一元論)である。つまり、インファンテによる「動物園」は前者、篠田による「ZOO」は後者の陥穽にはまっているのである。この、脚本のアップデートの「失敗」はおそらく人類学をその主要なモチーフ及び批判対象に据えながら、当の人類学自身のアップデートを見過ごしている点にある。筆者はここで、安易に最新の人類学的知見を導入すべきだと言っているのではない。すでに述べたように、たかくら(とゴッドスコーピオン)によるVRの導入が奏功しているのは、それが最先端であることではなく、そのニューテクノロジー自体を複数化しているからだ。人類学の営為を貪欲に吸収した上で、それらを演劇において展開する必然性を、篠田は「ZOO」において模索すべきではなかったか。それが「演劇」の定石を破壊し尽くすことになったとしても。いや、むしろ演劇が長くリベラル、左翼思想と不可分であったのだとすれば、今必要なのはそれらの思想のアップデートと演劇のアップデートが同時に達成される瞬間の追求であろう。ひとつ考えられる補助線には、イタリアの思想家ロベルト・エスポジトによる「人格=ペルソナ」概念が挙げられる。私たちはしばしば、なぜ人間には「人格=ペルソナ」というものが備わっているにも関わらず、人間を非人間的に扱うのか、と自問する。まるで人をモノのように!と私たちは怒る。しかしエスポジトによれば、この問いや怒りはそもそもにおいて間違っている。むしろ、人間に人格というものを付与したからこそ、その人格の多寡あるいは有無によって人間をモノへと翻訳する回路が生じているのだ、とエスポジトは喝破する。ここには近代そのものを脱構築する可能性が備わっているように筆者には思われる。例えばこの視点を今演劇に導入しようとするならば、「ZOO」は果たしてどのようにアップデートされただろうか。

 

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