Exhibition Review

2018.11.28

松平莉奈展 / 悪報をみる ー『日本霊異記』を絵画化するー

松平莉奈

KAHO GALLERY

2018年11月1日(木) - 2018年11月11日(日)

レビュアー:美秀 僧侶


 

 歴史上の故事の人物と、現代社会に生きる人物を同じ地平で描く若手日本画家・松平莉奈は、これまでも一休和尚など仏教的題材を扱ってきたが、近作では日本最古の仏教説話集『日本霊異記(日本国現報善悪霊異記)』を題材に描くシリーズを展開している。本展では、この因果応報の仏教説話のうち「悪報(悪行に対する悪い報い)」に題を得た絵画が集められた。松平が選んだ奇譚に表れる悪行は、親不幸・親殺し、邪婬、育児放棄、畜生(動物)の殺生、僧侶への誹謗など、現代でもありえる類の罪だ。
 母殺しを企図した息子への悪報の図《日本霊異記より 地裂けし縁》は、古板に描かれて欠損部まで作り込まれ、この説話集が編まれた時代、飛鳥様の図像(玉虫厨子に描かれたような植物の描写や縦長構図)を思わせる。馬に無理な重労働を課し、次々に殺してしまう主人の目が溶ける悪報の図《日本霊異記より 馬の縁》は、忙しなく瓜を運ぶ馬が、制服姿で擬人化され、現代のサラリーマンに重ねられたユーモラスに怖い絵だが、大和絵風の俯瞰する横画面と異時同図によって説話の物語が示され、釜の描きは地獄絵のようだ。画毎に、日本古典絵画への造詣をもとに縦横無尽に技法・描写を行き来する、松平の画力が存分に表される。
 しかし白眉は、畜生の殺生を犯した人物にまつわる三幅《日本霊異記より 兔の縁》《日本霊異記より 卵の縁》《日本霊異記より 猪の縁》だろう。写実性と装飾的抽象性の均衡のとれた、澄んだ色彩の人物画は、近代日本画の後継者としての松平の横顔を示す。聖者の頂相のように一幅に一人ずつ全身が描かれたその肖像は堂々と大きく、毛膿や灼熱、悪臭などの悪報の徴が描かれながらも、その表情は苦痛に歪んではおらず、殺生に身を堕としてなお、俗人としての生を全うする姿で描かれている。
 この説話集に集約された因果応報の価値観は、五濁悪世とされる乱世において、一つの倫理的指針を示すものであったに違いない。それでも、松平の眼差しは、そのような書き伝えられた悪者を絵画の中で断罪しない。これまでの彼女の絵画同様に、共感的で尊厳を与える人物描写が表明するのは、むしろ悪への許しである。
 数寄屋建築の中心に位置する広間の明るい世界の図像群から、周縁部や奥部の暗がりに移れば、絵画の方法と題材において、松平のこうした態度がより明確化される。偉ぶる僧侶の口真似をして戯けた俗人が受けた報いの図《日本霊異記より 口喎斜し縁》では、他の画で採用されていないグロテスクな描写に出会うが、「尊い人物であっても、俗人(在家)は愚かしい聖人(僧侶)にさえ同席してはならない」と結ばれる説話と共にそれが提示されるとき、人はその倫理に疑問を覚えざるをえないだろう。
 一番奥の茶室の闇では、床の間に母娘の墨画が浮かび上がる。上部に見切れるは、母に食事を分け与えることを拒んだために報いを受けて亡くなる娘、下部に見切れるは、娘への依存を続け、ついには食事が貰えなくなり衰弱する母。この母娘の人物描写として、松平は二者それぞれの視点から説話をとらえ直した短い物語を書き、説話の傍らに置いた。どちらの言い分も十分に切実だ。松平が設定したこの二者の主人公を、私たちは悪報説話のように善悪で裁けるだろうか。苦しむ二者を対向して配置する構図が、善悪の線引きの難しさを伝えている。
 現代社会に生きるということには、奈良仏教が説く倫理観からすれば、時に大罪と捉えられかねない状況もありえる。かくいう私はどうか。卵も食べるし、工業化されたブロイラー生産の鶏肉も食べる。「自分も悪い人間です」と語る松平がイメージの力で為そうとする悪報の再解釈作業は、真宗僧侶からすればまさに「悪人正機」の凡夫の救いである。

——またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを、またうみ・かわに、あみをひき、つりをして世をわたるものも、野やまにししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなゐをし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただおなじことなりと。(『嘆異抄』第十三条*)

*講談社学術文庫版『嘆異抄』(梅原猛全訳注, 2000年発行)より。

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