Exhibition Review

complete

2022.04.25

芹沢洋一郎×櫻井篤史 W映像個展「COMPLETE ALBUM 二枚組」〔宮田靖子(FMF)プロデュース〕

芹沢洋一郎,櫻井篤史

Lumen gallery

2022年3月8日(火) - 2022年3月13日(日)

レビュアー:野咲タラ 会社員

1.残す

 Lumen galleryの壁は黒く塗られている。個人映画や実験映画といった作品のシネマテーク活動を展開するこのギャラリーでは、映像上映が活動の主体のため、ホワイトキューブよりその方が適した環境になる。映像個展は各作家ごとレコードに模して組まれたプログラムを上映する形で行われた。ここには今回上映された二名の作家のうち櫻井篤史氏の作品を主に取り上げる。

 櫻井篤史氏の作品は代表作だけでなく全作品が上映された。制作年代順に上映されていく作品をA面からB面へと鑑賞すると、過去から現在への作品の傾向を鑑賞することになる。最初はわかりやすい物語と構図や画面の良い絵を楽しむ作品が続く。物語といってもそれはドラマのような筋のことではなく、ユーモアの所在とその展開がわかりやすいのだ。

 例えば1作目『ANMAN』。1981年に作られた8mmフィルムの作品は冒頭布団が敷かれたその頭の部分に白い布が被さり死者を思わす状況にカメラがゆっくりとズームしていく。取り払われた布の下には丸くて白い餡饅が三つ出てくる。蒸らすために被さったその白い布も含め、確かにタイトル通りの餡饅だと納得する。次にその餡饅は一つずつ手で割られていく。二分割されて中の餡子が現れると、マッチ売りの少女が見る幻影のように映像が溢れ出る。そのうちの一つは、餡饅から水が溢れ出てくるのでまた驚く。そんな冗談のように現れるイメージは、構図をはじめ美しいショットで構成される。『ANMAN』の映像は、驚きと美しさを語るために要する時間からユーモアを作り上げていく。

 ユーモアと美しさから始まった作品群は、そこから続く変遷が興味深い。『相転移』以降の作品も基本的には美しいショットで構成されるけれど、尺の長さで異なる感覚がある。短いイメージ的な映像群と、もう少し長くてイメージの美しさに魅入るだけではなく、描写でも説明でもない時間の流れ方の、そのよくわからなさに好感を持つ映像群だ。特に後者の、そのわからなさの物語を探求したくなる。

 例えば『High-High』は、この作品群の中で二作あるホームムービーのうちの一つだ。映像は水路に沿って滑らかに突き進む奇妙な長回しである。映像に写る風景は見たことがないけれど、現実を映し出したショットであることは明白で、それはその風景を写しているカメラの動きによってもたらされている。着想は作家の息子がハイハイを覚えたての頃のその小さな視覚と身体感覚にある。想像された小さな身体から捉えた、どこまでも広い世界を再現したものとなる。 ホームムービーの持つ少しの感傷と説明に留まらないコンセプチュアルな感覚が同居し、観客の感情と感覚の両方に訴える構造の作品になっている。

 櫻井作品のA面全てとB面前半は8ミリフィルム作品の上映である。8ミリフィルムには、雰囲気ある柔らかい質感という映写された像としての特徴と、フィルムというメディウム自体の特徴がある。素材としての特徴には現在のいわゆる劣化した8ミリフィルムの性質も加わる。例えば古いフィルムはメーカーにより黒が青に転じるといったものもその一つだ。上映された作品の多くも青い画面が現れる。そういったフィルム元来の特性に着想を得た作品が『世代解析』だ。フィルムのネガとポジから派生するデュープ(複製)をテーマにするこの作品は、何度も同じ場面が繰り返される。繰り返される映像は、フィルムの複製を複製することにより次第に劣化消滅していく過程そのものが映し出される。そしてさらにビデオにテレシネされる。複製された素材であることに意味があるため、この作品はオリジナルフォーマットで上映されることにしか意味をなさない。この作品については、作品としての必然においてフィルムが残される必要がある。映像詩という言葉がある。この作品は映し出された映像イメージに対する詩的表現だけではなく、劣化消滅を形にすることで作品の存在自体に意味を創造するこの作品は、イメージに留まらない映像それ自体のメディウムとしての詩を孕む。

2.変化する

 「フィルムは誰かがいた気配を映す、ヴィデオは誰もいない事実を映す」と櫻井氏は語る。

 B面後半に並ぶ作品は、時代の流れからヴィデオフォーマットの作品が多く配置される。ヴィデオとフィルムでは、作品コンセプトの質が異なるように見受けられる。それは櫻井氏が言う映し出された映像の違いと同時に、『世代解析』のような、それぞれの素材としてのメディウムの持つ特徴の違いも影響する。その結果、ヴィデオ作品はフィルム作品よりもコンセプトが物語に直結しているように思われる。つまり、言葉や映像によって語られる物語が明確なのだ。『木帰行』にしても『非同一性不可逆的反復再生』 にしても『who?』にしても。

 『木帰行』は言語のわからないナレーションに日本語字幕がつく。コンピューターの無意味音声は、字幕によって日本用、ドイツ用、字幕をつけなければ観客は言語の意味を理解する手がかりがなくなり、迷子になる。言葉と映像の関係性が別の形で現れるのは、『非同一性不可逆的反復再生』だ。居酒屋に集う人々を写した5分間の同じ映像を用い、全く異なる設定の物語があてがわれる。繰り返しの映像は、『世代解析』の時とは異なり劣化などの変化はせず全く同じ映像が繰り返される。言葉によって当てられた物語によって、同じ映像はどのように影響、変化するかを提示する。これら二作は映像と言語の物語についての関係性を示す作品だ。前者は映像が複数の言語を語り、後者は言語が映像を何度も語り直す。それは、どちらの作品も言語の介入により映像が嘘を付いているとも言える。これらは映像が言語と組み合わされることで生じる現象である。

 櫻井氏のフィルム作品でも言葉が語られる作品はある。『VOYANT』『KOKO』『天使突抜け』等だ。けれど、これらの作品は語られる内容と映像の関係性において、映像、語りのどちらかがどちらかを欺くための関係性にはならないことは、フィルムの映像には「誰かがいた気配を映す」とされるように、すでに映像自体に存在しないものを映す可能性の「嘘」が仕組まれているからではないだろうか。一方、ヴィデオの映像は「誰もいない事実を映す」。それは映像における「真実」への信用とも言える。その信用のおかげで、映像と言語との関係において、虚構を介入させる余地を生む。

 B面の最後に上映された作品、つまり最新作『who?』は7人の出演者が「自分にとって記号とは何か」を語りながら、語る内容とともに、カメラワークも指示した上で、スタートとカットを指定し、自分が映るシーンの長さを自ら決めていく方法で撮影された。出演者の意図によって作られた映像素材の断片を作家は「カットの擬人化」と名付けてコラージュした作品が『who?』だ。「カットの擬人化」は、デジタル撮影、編集の容易さというヴィデオのメディウムとしての特性を、ヴィデオ自体に身体化したようなコンセプトだと言えるだろう。それは『世代解析』がフィルムというメディアの詩であるように、『who?』はヴィデオのというメディアの詩になるのである。それはイメージだけではなく、映像と共に語られてる言語についても重要性を持っている。

3.消滅する

 A面の最後の作品『GOODBYE NIGHT』はコダック社がSuper8フィルム、エクタクロームの製造が終了する噂を受けて、その状況に抵抗を示すために作られた1990年の作品だ。作家本人は富士フィルムを使用しているため、制作自体には差し支えがないけれど、企業の一存で表現手段の選択を狭められることに対する義憤が語られる。それからまた時間がさらに経過し、2022年の現在では、8ミリフィルムは製造が中止され、現像を商業的に行う会社は国内では1社となっている。

 そして、2015年4月に開設されたLumen galleryは今年2022年3月に閉廊になることが決まった。その状況に対し残念に思えても、責任もなくただ都合よく利用している一観客に過ぎない筆者は義憤を訴えることは出来ない。

 消滅するとはどういうことか。ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』の言語の消滅に関する論考には、言語の死のいくつものケースが書かれている。その言語を利用する話者が最後の一人になったり、他の言語に取り込まれたり、忘却されていったりする。言語が死に至る形は一つではなく様々あり、またそれがどのような状況であれば、本当に死と言えるのか。さらには言語の死亡証明書が発行された後も、幽霊言語として人間の世界に存在する。言語は柔軟とも頑固ともいえる、気難かしい生き物ようだ。

 表現媒体や人の活動場所の死とはなにか。言語と同じくフィルムや映像上映といった消滅を予測されているものについて、消滅に対し抵抗をしたり、アーカイブ的に保存されたり、回顧主義的モチーフとして引き合いに出したりすること。それら死における予定調和とされる状況に留まらず、人間が利用することで生かされる擬似生物としての映像には、言語と同じような死においての可能性があるのではないか。

 私が初めてLumen galleryを訪れたのは2019年の「アルゼンチン抽象/実験映像上映会」だった。その際、アルゼンチンの映像作家は、アルゼンチンの若い映像作家たちの中で、フィルムを蚤の市で集めて切り貼りをし映像作品を作るのが流行っているという話を語っていた。また製造中止にはなっているものの、日本国内では現在でも現存する8ミリフィルムで撮影を行うフィルムメーカーは多く、現像にしても野良的に個人で行う愛好家はまだ各地にいるという話もフィルム愛好家が集まるLumen galleryの場所で聞いた話だ。そういった話を聞いていると、これからもいつ本当の死に至るかわからない消滅していく映像や場所の幽霊を探し、見続けていく可能性が一観客にもあるのではないかと思う。

(了)

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