Exhibition Review

2018.10.02

Obsession Conception Possession

桑島 秀樹、笹口数、佐藤 実、古屋俊彦、若林雅人

京都精華大学ギャラリーフロール

2018年9月10日(月) - 2018年9月30日(日)

レビュアー:野咲タラ 会社員


作家固有の専門分野は作品を創る上で、どのように美術と「反応する」のか。それは2つの領域の内、どちらかが一方的に「変化する」事ではない。対等に作用し、新しい物質を生み、今ある世界を広げていくための手段となる事である。
展覧会は、美術とは別の各専門分野を持った60年代生まれの作家による作品で構成されている。

地球の中心、コア(核)から見上げた宇宙の全天星座図を作成した笹口氏は、建築分野をベースにする。政治色に染まった地球の表面からの眺めを放棄するため、地球の中心の一点とグリニッジ子午線という視座を用意する。新たな視点から宇宙を見る方法は、誰もが1人の人間になるための場所でもある。建築を政治的空間の最たるものとするならば、建築だけではなくあらゆる空間の持つ政治性からの離脱方法の模索結果でもある。

一方で、同じ平面を空ではなく柱として見立て、ランダムな点であらわした星の代わりに、規則ある線であらわした文字を作り続ける古屋氏は、哲学研究者でもある。彼は、文字への思考を遥か紀元前に遡り、自動筆記を経て、AIによる文章作成も話題になる現在、六角形をモチーフに線を文字として刻印した立体の柱を創る。線または文字は、決して同じ形にならずに増殖する。それらは文字でありながら意味を持たない。文字の刻まれた柱は、風景となる。

フラメンコギタリストである若林氏が、15年近く誰にも見せる事無く制作し続けた写真は、様々な夜の広場に浮かぶ光の球である。風景の中には光の球だけが残され、人が不在となったところで作家は納得してシリーズの制作を終了する。写真は、今回偶然に人目に触れる機会を得たに過ぎない。会場に並べられた作品は、写真としての光の軌跡と写真シリーズとしての制作の過程が二重化する過去形の時間となり、並べられた展示とそれと対峙する鑑賞者により二重化する現在形の時間が、さらに重なりあって流れる。

写真というメディウム自体は、過去の被写体を起点として撮影当時の瞬間の現在を写した過去のための物質であるのか、現在の鑑賞者を起点とした過去を写した現在のための物質であるのか、という問いは常に付き纏う。生家は営業写真館を営み、父親の元で幼少の頃から写真に親しみ技術を培い、商業写真家としてキャリアを積んだ桑島氏は、父親が残した写真と対峙する。父親が撮影しコレクションされていた写真は、商業写真としては相応しくなく笑わない人物写真だった。それを父親のカメラで再び撮影をする。モノクロ写真に映り込んだ白い自分の手は、過去と現在の間に挟まれた状態で写っている。
その桑島氏自身のポートレート的作品としては、光と影による曼荼羅に似た写真を展示する。並べられた異なる形の無数のガラスを通過した光は、物質的な透明さこそ、現代の宇宙であるものとして立ち表わす。

ガラスという透明な壁に区切られた空間の音を可聴化させるのは、物理学を専門とする佐藤氏の作品となる。2階の一部屋の展示室には、空間の音を聞くための装置が並ぶ。ガラスの管の壁に囲まれた空間の中の空気は、倍音となってモノトーンの継続する音、ドローン(drone)がスピーカーから響く。アナログなシステムでオンオフを繰り返す電源装置が、区切られた空間に熱を加える作用で、空気の粒子の波が音の変化となって、部屋の空間全体にビートを生み出す。メロディを含まないそのビートは、階段を伝い降りてきて、1階の展示会場全体まで包む。空気で作られた音は、空気と同じように、常に会場内全体に存在する心地の良い重低音を響かせている。

全く異なる背景のObsessionを持ち、全く異なる構成要素のPossessionにも関わらず、相互変換可能な関係性Conceptionを生み出す。5名の全く異なる作品群が、線でつながれ、複数の線は面となり立体化した展覧会となる。しかし、それは上記に書き連ねた、作品のメディウム性としての繋がりを指すだけではない。作品同士は思考的な面でも大いに相互関係を持つ。

例えば、佐藤氏の音の作品と古屋氏の文字の作品には、似た印象を持つ。物質的要素をアナログな仕組みで再構築させ、メロディを排した音。過去を遥かから遡った哲学と考古学の膨大な研究結果の末に定義された、意味を持たない文字の増殖する姿。それらの繰り返される持続性は、耳を塞ぎ、目を閉じた後も、感覚的には確実な手掛かりがない分、一段と余韻が残る。ところが、これらの作品には別の要素も隠されている。
佐藤氏の作品は、それが電子音楽、現代音楽の思考と技術の系譜が背景にあることだ。音物理学と自然現象を組み合わせた作品は、時代を遡行しているのではなく、実際には直線的に時間が流れた、現在の思考と技術を表わしている。
また、古屋氏の作品に関しては、作家自身が探求している文字の概念を実現化するために、現代のプログラミング技術を利用して作成されている。厳密には、それは人工知能を応用したプログラム合成の技術である。
二つの作品は、一見すると極めて原初的の様にも思われる。しかしそれと同時に、どちらの作品も作家の持つ専門分野を通して時間をかけて独自に追究している「現在」が反映されているのである。そしてまた、この専門性に裏付けされた、パラレルワールド的な「現在」は、展覧会の作品における共通項としても存在していた。
含蓄された知識と洗練された技術が、現代社会を変えるために生み出された集約の力だとするならば、社会の対局にある芸術と反応した場合、それは現在点の持つ時間性空間性思考性を放射状に押し広げる力となる。それは、鑑賞者にとっても新しい発見と意味を創りだす装置として機能する。

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