Exhibition Review

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2016.11.17

マーティン・クリード

マーティン・クリード

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

2016年10月22日(土) - 2016年11月27日(日)

レビュアー:黒嵜想 (28) 映像批評家


 

日本のアニメは、一般に「リミテッド・アニメーション」という映像だとされる。それは描画枚数を減らし、既存の動画を使いまわし、静止画が多用される、ギクシャクした映像を指す。このような映像において、生命は、簡素な動画の繰り返しで表現される。「口パク」と呼ばれるような、口唇の開閉を示す2枚の描画の繰り返しに音声が重ねられることで彼らは会話をし、腕を大きく振り足を出す簡単な動画の繰り返しで、彼らは歩いたり走ったりする。「繰り返し」に、いかに生命を見出すか。僕たちは、生命を見出す為にこそ、彼らを「よく見てはいけない」。

マーティン・クリード。横断舗道を次々と渡る人々。腕を降って歩いたり、足を若干引き摺って歩いたり、様々な重心移動を見ることができる。足を使わずに、腕だけの力で通り過ぎる人もいる。最後には、引き摺られる人もいる。それが演技なのかどうかはわからない。しかし重要なのは、横断舗道は等間隔に引かれた白線であって、信号の色が切り替わるまでに渡らねばならない彼らは、状態がどうあれ、規則的に動かなければならない、ということだ。胴体を、上半身を、手だったり脚だったりを運ぶには、僕たちはやはり何かの単純動作を必要とする。生命を「よく見る」ことで見出される、「繰り返し」。

問う。「繰り返し」を見たり、見ないようにしたりで、生命の有無が決まるのだろうか。

BGMに流れる陽気な音楽が終わると共に、彼らの横断も終わる。しばしのブラックアウトの後、また映像は「繰り返される」。予測がついた彼らの横断が始まる。もう彼らには、生命がない。

問う。僕はいつ、見ることをやめるべきか。

「繰り返し」がわかったからといって、つまりそれが生きていないとわかった途端に、なぜ僕は見ることをやめるのか。それは僕に与えられた時間が有限だからだ。次の予定もある。閉館時間がある。寿命がある。

しかしこうも思う。僕の顔や形、歩き方も、人生も、子供も、いやそもそも人類の営みが、既に繰り返された何かであったとしたら。それでも僕はどこかで見守っていて欲しいと思う。神の手にリモコンがないことを願う。

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