Exhibition Review

2018.08.15

ローのためのパス 小林 椋 展

小林椋

ギャラリー16

2018年7月10日(火) - 2018年7月21日(土)

レビュアー:川久保ミオ (24) 大学院生


 

 カメラはカラフルなオブジェを撮り、カラフルなオブジェはモニターに写り、モーターはカラフルなオブジェを動かす。各々に与えられた動作を単調に誠実に繰り返すこれらは、互いに関与し合うことで循環を作り出す。それは小林も語っていたようにビオトープと言えるものだろう。※

 ステートメントには展覧会タイトルにある「ロー」と「パス」について書いてある。カタカナの「ロー」は”low”かもしれないし、”raw”かもしれないし、ローさんの”ロー”かもしれない。カタカナの「パス」は”pass”かもしれないし、”path”かもしれないし、書いていないがパスさんの”パス”かもしれない。困ることだが、意味は固定されなく、ひたすら可能性を提示し続けている。

 ならば困ったついでに「調整中」の張り紙を考える。会場でまず最初に目にしたものは、電源の入っていない真っ黒のモニターの上部に貼られたA4ほどの「調整中」の張り紙だった。モニターの斜め向かいに置かれたカラフルなオブジェを映していたのだろうか。そのカラフルなオブジェも動いていなかった。そもそもどちらも電源プラグがコンセントから抜かれていた。

 モニターだけが「調整」しているために映らないのだと最初は思った。カラフルなオブジェはどうなのだろう。ただどちらも動けない状態だ。もしかしたらカラフルなオブジェも「調整」しているのかもしれない。聞いてみるしか知るすべはない、が、聞いていない。なぜなら「ロー」も「パス」も文脈から分断され、意味は固定されないからだ。コンセントから分断され、床の上で宙づりとなったモニターとカラフルなオブジェは、本当のところが分からないという点において、ひたすら可能性を提示し続けていた。

 ビオトープはその環境における関係性の上で成り立つもので、単体だけ生き延びても循環は生まれない。「ロー」と「パス」は関与し合う。「ロー」と「パス」ではなく、「ロー」のための「パス」なのだ。

※「自分は、事物の連環がつくる環境系と、それを観察することに興味があるのだと思います。人間とは関係なく、構造だけのビオトープをつくってみたい」「【期待のアーティストに聞く! 】 小林椋 構造たちのビオトープ」https://bijutsutecho.com/magazine/interview/6947

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