Exhibition Review

2022.03.10

髙畑紗依個展 「途中」

髙畑紗依

氵 さんずい

2021年6月4日(金) - 2021年6月20日(日)

レビュアー:役者でない (29) 個人事業主


 
「今まで気づいていなかったものに気付ける、新しい意識のチャンネルをくれた」。それが私の思う、今回の作品の興味深い点だった。
会場に入ってすぐは、一つしか展示物は無いように見えた。窓際に置かれた小さな平皿に水が入れられ、その上に細く短い棒をくくりつけた糸が下げられている。棒は皿の水面につくかつかないかのところで風に揺られており、時折波紋を起こす。ほかにはっきりと設置されているものは見当たらず、会場の床には「座ってゆっくりしてください」というように座布団がいくつか置かれていた。音楽もなく、隣の部屋でインパクトドライバーがビスを入れる音が響いていた。
しかし座ってぼんやりしていると、それだけでないことに気づき始めた。壁や引き戸に透明のシールが貼られており、それが光を反射してささやかに存在を主張してくる。以前拝見した個展『空き地』でも壁に白い紙が貼られていた。しかしその時貼られていた紙は街の何気ない風景の切り絵だったのに対し、今回の透明シールは水玉のような円形で、それ自体が何か物体を明示してはいなかった。ただそこに「誰かが貼った」という行為だけを示唆しているかのようだった。
よく見るとそこここに貼られていた透明シールを探してまたしばらく過ごしていると、ふと窓の外ではためくものに気づいた。会場も入っている銭湯の外壁。棒状のものに布切れがくくりつけられ風になびいていた。これも作品なのかと思ってしばらく眺めていた。展示の配置図を見たところどうも違うらしかったが、以後作品でないものも作品なのではないかと思うようになってしまった。会場やその他の「個展以前からあった“現実”」と髙畑が仕掛けた会期限りの、いわば“フィクション”が融和し、楽しく混乱させてくれた。
くだんの布にも、誰かの「くくりつけるに至った意図」があったはずだ。京都の街を歩いていてたまに見かける、道の角に置かれた石にも、それを置いた人の意図があったのだろう。私の周りにあるもので、もはや誰かの意図の無いものなど無いのではないか。
今まで思ってもいなかった、物に宿る誰かの意図に思いを馳せるキッカケをくれる展示だった。

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