Exhibition Review

2021.08.05

未然のライシテ、どげざの目線

黒田大スケ

京都芸術センター

2021年2月20日(土) - 2021年4月8日(木)

レビュアー:奥田浩貴 (34)


 

1.はじめに
本展は京都芸術センターのギャラリー南・北のほか、1階から3階まで10点の映像作品を建築物全体に配して構成されている。京都市内の公共彫刻である通称「土下座像」(渡辺長男《高山彦九郎皇居望拝之像》(1961年))(*1)、およびオーギュスト・ロダン《地獄の門》(1880-90年頃/1917年(原型))の関係性に焦点を当て、韓国・台湾・中国におけるリサーチを元に、キュレーションがなされている。公共彫刻自体の分析から、それが「共通の国民としての意識を共有するメディアであり、公共の場へと変じさせる装置(*2)」でもある事を主眼とした展覧会ではなく、アジア各国の美術関係者へのヒアリングをもとに、人体彫刻をめぐる教育制度に対する批判に焦点を当てた展覧会である。

展示作品のみでの鑑賞も可能であるが、配布資料が展覧会解釈の核となっている点が特徴として挙げられよう。関連企画【対談「堤さんに聞く」】(*3)では演劇脚本執筆の経験を明らかにしており、配布資料が脚本、作品が役者であるかの様に、キュレーションがなされている。企画の発端となったのは韓国・仁川に設置されていた金景承《マッカーサー像》の鑑賞体験であり、その「父」であるオーギュスト・ロダン《地獄の門》を日本、および戦前にその教育が広まったアジア各国における近代彫刻の象徴的な門と、黒田は捉えている(*4)。そして「ロダンの門」をくぐって近代彫刻を制作してきた10名を題材にした映像作品を、京都芸術センター全体に配し、それらの鑑賞を「地獄めぐり」に喩えるのである。その理由は、ロダンが制作して生前鋳造されていなかった《地獄の門》にあり、ダンテ『神曲(地獄篇)』を引用した結果であろう。展覧会においては作品が第一であり、キャプション情報や解説文、そしてコンセプトやテーマは二の次であるという解釈もあるだろう。しかし本稿では、展覧会の配布資料を「脚本」として捉え、それを骨子に作品、および展覧会の解釈を行っていく。

2.タイトル「どげざの目線」の考察
配布資料の冒頭は、次の文章から始まる。「日本において銅像をはじめとする公共彫刻は、ただの彫刻というよりも、その像のモデルとなった人物と同一視されたり、あるいは服を着せられ食事を供えられたりと、しばしば人格を持った人間のように扱われます。」黒田は、それを「彫刻が帯びる霊性、言い換えれば、彫刻が人格を持った人間であるかのように感じる感覚」と呼び、対談の中ではそれを否定すべきものであると述べている。

その「霊性」を視覚化すべく考案されたのが、「カメラオブスタチュー」であり、ギャラリー北で展示がされているのは、それに基づいて撮影された3点の映像作品である。「カメラオブスタチュー」とは「カメラ・オブ・スクラを用いた風変わりなカメラ」であり、通称「土下座像」(正式名称《高山彦九郎皇居望拝之像》と他2点の作品をモチーフに、黒田によって制作されている。彫像の目をピンホールとして、空洞になっている彫像内部にその映像が投影され、それをデジタルカメラ(Sony α6300)で撮影する仕組みである。ギャラリー北で投影されているのは、トラックおよび自転車の荷台に載せた「カメラオブスタチュー」が撮影した映像である。通称「土下座像」(渡辺長男《高山彦九郎皇居望拝之像》)とは、江戸時代の勤皇思想家・高山彦九郎が三条大橋付近を通る度に荒れ果てた京都御所を憂い、その方角を向いて平伏したという事実に基づいて制作された彫像である。現在の像も京都御所の方角に向けられている事から、共通の国民としての意識を共有するメディアであり、公共の場へと変じさせる装置としての公共彫刻であると見なして、本展の題材としたと推測できる。

通称「土下座像」の模刻を「カメラオブスタチュー」として制作した事はパロディであり、その目にあたる箇所に穴を開けてピンホールとしている点も、通称「土下座像」に対する批判性を汲み取る事ができよう。カメラ・オブ・スキュラ≒「カメラオブスタチュー」の映像は極めて明度が低く不分明なものであり、ギャラリー北自体が光のない「カメラ・オブ・スキュラ」となっているのである。あえて通称「土下座像」をタイトルに用いた事は、「正式な像の作品名や像が設置された社会背景などが広く知られていない」事実に基づいており、彫像が誰に対してなぜ「土下座」をしているのか、市民に知れ渡っていない事を揶揄するものであろう。国民としての意識を共有するための「皇居望拝」としての仕草は、あたかも近代彫刻の象徴が市民に土下座をしているかの様に、本展は解釈を導くのである。漢字ではなく平仮名で「どげざ」と記した事は、ナショナリズムへ奉仕する役割としての近代公共彫刻への、あるいは人体彫刻を必須科目とする大学教育への批判であろう。目的が忘却され、体裁だけが残っている事を象徴する公共彫刻であった事から、通称「土下座像」を骨子に据え、更にはタイトルの要素としたのである。

3.タイトル「未然のライシテ」の考察
ライシテとは端的には政教分離の事を意味する。翻ってタイトルは「まだ政教分離がなされていない」という事であろう。政治とは学校教育、宗教とは「彫刻が帯びる霊性」の事を指すと推測できる。同時に、通称「土下座像」(渡辺長男《高山彦九郎皇居望拝之像》を国家神道の象徴、すなわち国政と神道が分離されていない象徴とも解釈する事ができよう。以下、ギャラリー南の展示と配布資料「カメラオブスタチューとは?」の図から、本展の意図する「霊性」を分析する。

3-1.《地獄のためのプラクティス》
本作は、黒田が複数の実在する彫刻家を演じるパフォーマンスを記録したものであり、顔や手などに彫刻家をイメージした動物を描き込み、彫刻家の魂があの世で彫刻を作り続けている様子を即興的に演じた映像作品である。登場する鳩、ケルベロス、猫、蛸、カタツムリ等の「動物」は、配布資料によってどの彫刻家に対応しているかを把握できる。油粘土で制作している彫刻は、ロダン《地獄の門》である事が作品タイトルと形態から窺えよう。そのモチーフとなったのが13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門であり、本展が開催された京都芸術センター各所を「日本の近代の彫刻の歴史めぐり=地獄めぐり」に喩えたのは、先述の通りである。ロダンを鳩のイメージとして喩えたのは、三位一体の位格の一つである鳩が聖霊を意味し、『神曲』がローマカトリックの教義、「三位一体」についての神学を文学的表現として昇華しようと企図した事に起因すると考えられよう。黒田が否定する「霊性」の象徴として、聖霊である鳩=ロダンを本展の図式に当て嵌めたのである。

しかし、近代公共彫刻の設置に寄与したとされる彫刻家たちを、現在の人体彫刻を基礎とする彫刻科の大学教育の礎を築いた人物たちと捉える図式は理解できるものの、ダンテ『神曲 地獄篇』に登場する人物たちには古代ギリシャを代表する哲学者や詩人が含まれていた事(*5)、ボードレール『悪の華』の影響もありロダンが「地獄」にいた人々を評価していた事を、本展でいかに含意させていたかは、疑問の残るところである。《地獄のためのプラクティス》において即興的に制作される油粘土の彫像は、「幼稚さ」の象徴として表している様に見受けられるのである。鳩、ケルベロス、猫、蛸、カタツムリ等に彫刻家のイメージを当て嵌めている事も、批判の表れと捉えられる。

この場合、それらの根拠となるのが《東アジアの彫刻概念に関するインタビュー》であろう。国内外の美術関係者にインタビューをした事、そして何よりも黒田が人体彫刻にかかる大学教育を経ており、「カメラオブスタチュー」の模刻によって、近代公共彫刻の設置に寄与したとされる彫刻家たちの追体験をしている事が本展に説得力を与えているのである。ただし、ロダン《地獄の門》を日本、および戦前にその教育が広まったアジア各国における近代彫刻の象徴的な門と捉えた根拠、そして他の10名の彫刻家の成果が批判されるべきものである根拠が明らかにはされていない事が、黒田が見る「霊性」の名残であるのかもしれない。

3-2.配布資料「カメラオブスタチューとは?」の考察
「彫刻が帯びる霊性」について更に理解を深めるために、展示作品ではなく配布資料「カメラオブスタチューとは?」の図について、そこに含まれる2点の映像比較と、描かれた動物のイラストの2点の分析を行う。前者については、通称「土下座像」の「目」を通じて彫像内上側に投影されるカメラ・オブ・スクラとしての映像、そして外観からは見えない「膝」に位置するデジタルカメラ(Sony α6300)で撮影した映像の2点がそれに相当する。カメラ・オブ・スクラとしての映像は「上側」に、デジタルカメラ(Sony α6300)は「下側」に位置するが、前者は「コンビニの袋」に投影される等閑な映像であるのに対し、後者は「高精細」な映像であるという対比がなされている。「古い」カメラと「新しい」カメラの対比とも換言できよう。

次に描かれた動物のイラストの2点について、デジタルカメラ(Sony α6300)の「上部」には、人がかまってあげている猫、そして糞をしながら彫像の上で羽を休める鳩が描かれているのである。10名の彫刻家と動物のイメージが記載されている配布資料を確認すると、猫とは本展開催のきっかけである《マッカーサー像》を制作した金景承、鳩とは《地獄の門》を制作したロダンが該当する。現代の人々が活用するデジタルカメラ(Sony α6300)の「上側」に、戯画のような動物となった金景承とロダンが位置する事を示しているのである。「霊性を視覚化しようと考案」された「カメラオブスタチュー」の図からは、「古い技術=人体彫刻にかかる大学教育=カメラ・オブ・スクラ」が「宿す霊性=乏しい不分明な映像」を、最新の技術=デジタルカメラ(Sony α6300)が収録する様を描いているのである。いずれもアイロニーを具現化した図と捉えられるのである。

4.おわりに
展覧会配布資料を演劇脚本と捉え、作品の分析と合わせてタイトル「未然のライシテ、どげざの目線」の考察を行ってきた。通称「土下座像」を代表例として、未だ「彫刻が帯びる霊性」を取り払いきれていない状態、その彫刻を作り上げる礎となった人体彫刻にかかる大学教育の現状を明らかにする試みと捉えられよう。本展で取り上げられた10名の彫刻家たちと、暗に示したカメラの発展史からは、雑誌文化が発達した19世紀末からの状況も、鑑賞者に想起させるかもしれない。「偉人」が「動物」として風刺画に表されたのは、近代公共彫刻が発達してきたのと同時期でもあり、イギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』の隆盛や、風刺画を描いたオノレ・ドーミエやクロード・モネとの対比で、捉えることもできよう。「絵画の死」に寄与した画家たちが作品に「笑い」を含意させていた点も、本展に通ずるところがあるかもしれない。

ただし「未然のライシテ」が否定されるべきものであるのかどうか、「霊性」をフェティッシュとの関係性で分析する事の必要性も考えられる。黒田が対談で述べていたように、彫刻に「服を着せ食事を供える」行為は確かに「オカルト」とも捉えられるかもしれない。しかし全てそれらを否定してしまっては、ナルキッソスの物語もピュグマリオンの物語も(*6)、民話『笠地蔵』も否定されるべき物語となってしまうのである。ナショナリズム高揚のために設置された近代公共彫刻、および現在の大学教育制度は確かに批判すべき対象であるかもしれない。「未然のライシテ」を更に分類した上で、「どげざの目線」を再考する事、それらが鑑賞者に求められていると言えよう。

【註】
*1 初代は1928年に制作されたが太平洋戦争時に金属回収令で像は供出されている。
*2 千葉慶「公共彫刻は立ったまま眠っている」『彫刻1』トポフィル、2018年
*3 黒田大スケ「未然のライシテ、どげざの目線」関連企画【対談「堤さんに聞く」】公益財団法人京都芸術文化協会 京都芸術センター、https://www.youtube.com/channel/UCAPh5iLFI7yTew2utFJOAYw、2021年4月2日閲覧
*4 黒田大スケ「未然のライシテ、どげざの目線」「展覧会配布資料」公益財団法人京都芸術文化協会 京都芸術センターhttps://www.kac.or.jp/wp-content/uploads/63a954ded52fd6bc624a1746aa2ffbce.pdf、2021年4月2日閲覧
*5 小川正巳「ダンテにおける異端」『神戸外大論叢』神戸市外国語大学研究所、1970年、p85-100。ダンテが「ラテン的中世」の頂天に位置し、直後にアリストテレス=トマス・アクィナス体系によって崩されるとする論考もある。「地獄に落ちた人々=近代公共彫刻の設置に寄与した人々」がアリストテレス等、古代ギリシャの哲学者や詩人に対応するのであれば、それらの人物が「貶められた」後に、評価されるという事になり得よう。それに応じて《地獄の門》は否定性のみを帯びた対象ではなくなると換言できる。
*6 ジョルジュ・アガンベン『スタンツェ』岡田温司訳、筑摩書房、2008年

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