Exhibition Review

2017.04.03

柳瀬安里 個展 「光のない。」

柳瀬安里

KUNST ARZT

2017年3月7日(火) - 2017年3月12日(日)

レビュアー:長谷川新 (28) インディペンデント・キュレーター


 

 柳瀬安里が「光のない。」を暗唱しながら一本の道路を歩いていく。道には延々と車が駐車されており、ゴダールのウイークエンドの渋滞シーンが慎ましく現前したかのようだ。彼女の暗唱と歩行が続くに連れて、道路には車だけではなく、機動隊と思わしき人や、高江のヘリパッド建設に抗議をする人たちが現れる。カメラマンや柳瀬を訝しむ視線も厭わず柳瀬は暗唱を続けるが、数人の機動隊が彼女たちにぴったりと貼りつき、同行しだす。機動隊たちはルールを遵守し、彼女とカメラマンを道路の端から出ないように促していく。それはあくまでも、大型トラックが何台も通過する現場から彼女たちを保護するための措置だ。(余談だが大手警備会社ALSOKはALways Security OKの略である。)

 イェリネクが東日本大震災とそれに伴う原発事故を受けて書き上げた「光のない。」には、「私たち」という主語が頻出する。したがって暗唱する柳瀬の口からは何度も繰り返し「私たち」という言葉が発せられる。喧騒の道路においては、この「私たち」という主語が誰を指し、誰までを含み、そして誰を排除しているのかがつど変化しうる。作家自身もそうステートメントに記しているし、彼女が暗唱のために何度も読み込みボロボロになった「光のない。」には全ての「私たち」に赤線が引かれている。しかし本当にこの作品は「私たち」をめぐるものだろうか。「福島」を「沖縄」と接続する実践なのだろうか。本作品を言語的な地平で解釈をすると、あまりに多くのものを見落とすのではないだろうか。

 柳瀬は過去に「線を引く(複雑かつ曖昧な世界と出会うための実践)」という作品において、国会前を歩きながら地面にチョークを引き続けるという行為を行なっている。これを聞いてフランシス・アリスを連想した人は筆者だけではないだろう。しかしアリスが例えば「氷が溶けきるまで」や「逮捕されるまで」と言ったルール設定を映像内に内在させているのに対して、柳瀬はチョークの有限性をそのルール設定として適用しない。彼女はチョークが尽きた後、なおも指で道路に線を引き続けるのである。この映像作品はここから俄然異様な雰囲気を帯びていく。彼女は様々な人に話しかけられ(「何か探しているのか?」)、警察に職務質問をされる(国会前では目下デモが敢行中である)。

 「線を引く」をまさに補助線として考えるならば、彼女の「光のない。」もまた、同様の位相にあることに気づくだろう。線を引く行為がチョークなしでも成立するように、「光のない。」を暗唱する行為もまた、発話内容の意味自体が伝達しなくても成立する。ようは、誰も台詞など聞いていないのである。柳瀬にとどまらず、機動隊の「気をつけてください、車が通ります」という声も、市民たちの抗議の声も、発話の意味内容は伝達していない。言葉は宙に浮いて離散してしまう。「言葉が発せられている」その身体のみが重要である。「革命的な時期においては、公衆publicなるものは存在しなくなるのです」とデヴィッド・グレーバーは語っているが、柳瀬の実践が暴露するのは、そのような瞬間に他ならない。

 

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