Exhibition Review

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2016.04.10

上野友幸個展 " On the Ashes "(ミクストメディア)

上野友幸

MATSUO MEGUMI + VOICE GALLERY pfs/w

2016年3月12日(土) - 2016年4月1日(金)

レビュアー:山田章博 (56) 都市プランナー


古いモノクロのちょっとピントの甘い写真は、蚤の市などで手に入れた、撮影者も撮影時期も場所も判らない、アノニマスな画像。その上に、蝶(昆虫)の遺骸をピンで留め置く。普通、こうした昆虫の遺骸のピンによる固定とその鑑賞を「標本」という訳だが、この場合、上記の写真もまた、標本の部分を構成しているわけだ。
さらに仕掛けがある。蝶の羽根からは、その最も色鮮やかな微小な部分が切り取られ、クリーム色、レモンイエロー、オレンジ、青、紫など破片が、花のように写真の上に貼り付けられる。その写真の部分には、それぞれの場面を寿ぐかのような「花」が撮されている。

写真というメディアまたは表現形式は、その出現以来、日常的には「そこに映っている事象は実在した」という「事実性」を示すものとして受け止められてきた。例えば、証明写真や報道写真という語彙にその事情が現れている。しかし一方で私たちは、写真が「つくりもの」であることも知っている。しかしいずれにしても、そこに「花」が映っていることの意味は、そうした枠組みの外にあり、それ自体が意味を持つ。つまり写真は、人間の生の祝福でもありうるのだ。そこには確かに生命と人生と喜びがあった。たとえそれが作り物であったとしても。しかし当然、命は尽きる。はかない蝶の命と同様に。その蝶の命は、黒い、あるいは褐色の世界に溶け込む下地の上に、鮮やかな色彩を閃かせる。
背景に溶け込み、目立たないことは生命を危険に晒さないための大切な条件である一方で、色鮮やかに浮き立つことは、自らの遺伝子を残すための必須条件でもある。
人生と花、蝶と色彩、色彩と花。生命の条件と限界の循環が標本箱の中に可視化される。

<京都版画トリエンナーレ出展作について>
http://patinkyoto.com/menu/tomoyuki_ueno/?lang=ja
ギャラリーには、上野友幸の非売品と思われる図録が置かれていた。これを通読し、また同じ日の日中に見た「京都版画トリエンナーレ2016(PAT2016)」の出展者のひとりが上野友幸であることに気づいて、思うところがあった。

PAT2016への上野の出展作は「ヴォイジャーの帰還」。
1977年、合衆国航空宇宙局は相次いで二機の外惑星探査機を打ち上げた。ヴォイジャー1号、2号である。太陽系の、地球よりも外側を周回する惑星やその衛星、小惑星や彗星を探査しながら、さらに太陽系の外へと飛び出し、いつの日にか宇宙のどこかに存在するだろう知的生命体との遭遇を期待して、地球と人類、その自然、環境、文化の概要を伝えようと意図した視覚的イメージと音声および画像のアナログデータレコードがその探査機に搭載された。
http://voyager.jpl.nasa.gov/index.html

上野の作品は、このヴォイジャーの視覚メッセージ金属板を原版とする「版画」を中心に(というか、PATの要件を満たすために版画としたのであろう)、この金属板と金属レコードのレプリカでヴォイジャーの現前を演出しつつ、全体は彼の従前作である「閉じ込められた火が、一番よく燃えると言うものだ。」からの現代的展開となっている。
「閉じ込められた火」は、欧州など「暖炉」を使う場合に、火に近づきすぎないように隔離する「柵」をオブジェとして、それを貫いてしまう金属棒によって、柵で妨げられるものと、通り抜けてしまうものの差異、遮られる者の側にいる私たち。その私たちと「火」の関係(火をコントロールするプロメテウス的人間像と、火から守られることで存在を確保する福祉社会的人間像)を可視化するものである。

今回の「ヴォイジャーの帰還」は、どれほどの年数の後にか、どのような力学的(相対論的?)偶然によってか、ヴォイジャー探査機が地球へと漂着した場合、私たちはそこに何を見るか?という問いかけであろう。
作品内には、宇宙人に向けた当時の合衆国大統領ジミー・カーターからのメッセージが掲げられている。
http://www.giantfreakinrobot.com/wp-content/uploads/2013/10/Letter.jpg
「この宇宙船は、40億人人類の中の、2億4千万人の共同体である私たち、アメリカ合衆国が建造した」と記し、さらに「私たち人類は現在のところ、複数の国民国家に分断されているが、これらの国家は今後急速に単一の人類文明へと統合されるだろう。」と楽観的な観測を記す。

現在、私たちが経験している世界は、そんな楽観からは程遠い。世界各地で紛争が頻発し、難民が国境を越えて溢れ出し、各国で国粋主義、排外主義的な党派が勢力を伸ばしている。見えるにせよ見えないにせよ、至る所に対立があり、融和と統一への希望は、おとぎ話のようだ。そんなおとぎ話を、真顔で語ることができた40年前の世界を、思い出すことさえ難しい。と、書いて気づくのは、上野がこの1977年の5年後にやっとこの世に生を受けているということだ。1959年に生まれ、合衆国とソ連の宇宙開発競争をSFファンタジーのように受容した私にとって、その後に生まれた人たちの受け止め方を想像することは、難しい。
いずれにせよ、上野は今回のPAT2016出展作において、ヴォイジャー帰還後もなお、柵と檻によって分断されたこの世界で、空疎なキーワードを巡って齟齬を露にする各国の国歌と同様に、人類の融和と統合が悪趣味な冗談としてしか受け取られない未来を予見しているようでもある。

私たちの想像力に託された課題は、如何にして、私たちは、この金網を貫く金属棒となり得るのか?そして、様々な金属棒は、如何にしてこの金網を無化できるか?という問いであろう。

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