水戸芸術館現代美術ギャラリー “Koki Tanaka Possibilities for being together. Their praxis.” (2016)
Contemporary Art Gallery, Art Tower Mito, Exhibition View
田中:つながる話になるかどうかわかりませんが。ボリス・グロイスが日本にきて話をするというので、その相手になるということもあって、一生懸命勉強したんです。グロイスが書いていることは、結論にいたる過程で凡庸になってしまうんですが、導入の切れ味はすごいと思います。「Politics of Installation」の中で、現代美術というものが展覧会制作であるとすればキュレーターとアーティストの差がなくなってきている。それでも区分するとすればそれはパブリックの代表者であるのか、プライベートであるのかであると。その上でアーティストによるインスタレーションとキュレーターによる展覧会をプライベートとパブリックのコンフリクトであると捉えています。展覧会という場におけるアーティストとキュレーターの関係は個人対公共の闘争の場なわけです。ここでいう公共というのはもちろん、いわゆる公的であるという意味ではなくて広く一般に開かれて共有されるべきもの、という意味での公共ですけれども。この区分けが分かりやすくて僕は面白いなと思っていて。
この視点に立つとき、髙橋さんの展覧会制作は、公共的な場所、つまり美術館においてアーティストというプライベートな領域(ある種の自由?)を確保するためのインスタレーションを行っていると解釈できます。もちろんキュレーターと協働しているにせよ、インスタレーションの責任はアーティストに来る。だからここでもこうして問題点を指摘され、それに答えている。会場での配布物にも公共性を担うキュレーターは個人の名前を出さず、髙橋さんの名前は、そのステートメントにも明記される。インスタレーションの個別の展示方法にも、その震災を想起させる安易に見えるかもしれないものの選択も、公共的な判断ではなく、大げさに言えば個人の感覚による抵抗でもある。アーティストがキュレーションの側の領域に踏み込むということは、いわば公共性の読み直し、あるいはプライベートな、小さな公共性へと、個人の側に取り返していくという行為としても考えられるんじゃないか、とも。
眞島:確かに髙橋さんの作品には、美術館で展覧会をやっているというパブリックな責任が生じていると同時に、そのなかで一個人のアーティストとしてのプライベートな、あるいは無責任な行いも行われている、というところが確かにある。で、3人の被写体の方々がいますよね。その人たちが仮縫い的に周りと自分の関係を確かめたり損ねたりしているところは、まさにプライベートです。そのプライベートなものを展示するときに、たとえば毛布と段ボールを仮設的に、垂直に立てたかたちで使うといった展示がなされる。けれども、それが3人の被写体が持っているプライベートなものから導き出されたメディアのようには見えないんですよ。髙橋さんによって想像的に導き出されたパブリックな震災というものを感じさせるんです。
ここで疑問に思うのは、善し悪しはひとまず措くとして、そうした一人一人の被写体のプライベートなもの、三者三様のプライベートな仮縫いを、髙橋さんによるパブリックな、まあ、準パブリックと言ってもいいかな、そういう準パブリックなインスタレーションと接続する必要が果たしてどのくらいあるのか、ということです。
個別のものを個別のまま示すということは難しいし、ある意味それはとてもロマン主義的なので、そこに留まってはいけないというのはよく分かるんです。その辺のバランスの取り方はすごく難しかっただろうと思うけれど、あえて根本的なことを言うならば、被写体のプライベートさがインスタレーションや展覧会のパブリックさと繋がらなければならない理由はないと思うんですよね、根本的には。
それをわざわざやるというのは、髙橋さん自身の、そしてインスタレーションの準パブリックさが機能するかどうかを試しているということであって、それはうまくいったりいかなかったりする。そこで悩むのだろうけれど。
髙橋:そうですね、実はスクリーンに関しては撮影者の個人的な関係の中から導き出され、かつ震災とも関わるようなものを用いたい、というのが当初の狙いだったんですね。益田さんの歩行訓練を投影しているスクリーンは白紙のチラシの集合です。チラシ自体を白紙にしようと思った理由は、避難所なんかで貼られているビラ、たくさんのちらしの情報を震災時に益田さんは見ることができなかった訳で、そういうことから発想しているんです。見えないということをスクリーンにし、震災にも対応している。でもそれは非常に、なんというか、ダイレクトに結びすぎているような気もする。見えないという経験自体を視覚化した造りになっています。
たとえば聴覚障害のK.M.さんの映像は何に結びつけてスクリーニングするかを考えたら、益田さんのように導き出されるものがなかったんですよ。じゃあ、普通のスクリーンを用意するか、壁に投影と普通はなるんだけれども、僕はそれを採用しなかった。準パブリックな視点がそこにあったかどうか、そこにどういう欲望が働いたのか、そうですね、やっぱりプライベートなものと震災のパブリック性を強引につなげ飛躍を起こしたかったというのはあると思います。
強引な接続は失敗を起こすことも結構ある、ということを展示方法に含めているんですね。ステートメントの最後に書いていることですが、他者の経験というのは自分自身の経験に先行している場合がある。僕はそれを先取りしたいという考えがある。自分の経験とか自分が展覧会でやっていること自体も、ある種の経験を開示しているということにおいては失敗する可能性もあるから、変な言い方ですが皆さんより先に失敗するというか、先に失敗を開示していくということもありうるから、それを一度踏み越えてみようと、準パブリックに接続するという気持ちは働いていたと思います。
遠藤:僕が言いたかったポイントは本当に細かいことで、これは展覧会批判でもないし人格批判でも作品批判でもないんです。例えば、上の照明が天井ごとすごく低く設定されている。あるいはキャスターが付いた写真がある。それによって会場全体が揺れているように見えるんです。会場全体がダウンタウン化した感じ、危うい感じ。準パブリック性というものは、この照明と床だけで既に成立している。
それは照明をできるだけ下げるというのと、写真はこうやって入れるときれいに見えるよねというキュレーターが本来やるべき技術をむりやり床に、キャスター付きで床にあるということで準パブリック性にギアを入れ、成功しているということです。
髙橋:いえいえ、大事な話ですよ。
遠藤:展覧会全体の揺れそうな地面はもうできているのに、しかし、なぜ被災にまつわる諸々を、プロジェクターを隠すものとスクリーンに使わなければいけないのかというのは、なんていうのかな、コンセプチュアリズムとキュレーションの混同であり、前者によって後者が、私的に、しかも安直なる私的なものに侵食されているという印象を持ちました。それ以上に、言えるのは、それはもはやキュレーションですらなく、施工業者の領域です。キュレーションも匿名性が高いことがありますが、それ以上に不特定的な労働、こういって良ければ「無産者の労働領域」です。アーティストが、キュレーターの仕事をどんどん奪っていくのは、それはそれで良いとして(笑)、しかしそれがどこまでも延長可能だと思うなよ、と、言いたい。仮に延長するのであれば、そこには高度な美学的・政治的判断が必要なのです。例えば、監視員さんの振る舞いをパフォーマティヴにコントロールする、という作品がありますが、それは彼らの労働時間と業務内容と賃金に大幅にコミットしていることに自覚的でなければならない。アーティスト一個人の「感慨」や「仕掛け」程度で拡張してよい領域ではない、と言っているのです。技術的支配によるテクノクラート的アーティスト像の補強ではなく、技術の共有による芸術システム、ひいては労働概念の改変を目指してください、と言っているのです。この二者は、それこそ作品画像の上では全く同じような見た目であっても、絶対的に峻別するべきである、と僕は思っています。
髙橋:なるほど。
田中:今の話でいえば、僕の展示も、コンセプチュアルには微妙かもしれないけどキュレトリアルには成功した、だから微妙に思う人は結構いる、と言えるかもしれない。つまり、展示としてはうまくいっているけれども、内容はこれでいいのか、と疑問を感じた人は結構いたんだろうな。
眞島:形式はこれでOKだけれど、内容はOKではない、ということなのかな。もちろん、その二つは簡単に分けられるものではないし、内容とはどこに生じるものなのか、という厄介な問題もあります。例えば、田中さんの展示にはいくつか不可解なところがあって、そのひとつが展示台に綺麗に並べられたパイプです。あの配置は、パイプのプライベート性、まあ、そんなものがあるかどうか分からないけれど、そういうものから導き出されていたように見えるんですね。パブリック性、あるいは準パブリック性によって決定されるのではないプライベートなものが、あそこには並んでいた。そういうことで言うと、田中さんの不可解な表情も同じなんですよ。だから観るべきはパイプと田中功起の微妙な表情という展覧会なんです(笑)。
それ以外のところは確かに形式的にうまくできているし、キュレーションが生じているのも分かる。パイプが果たしてコンセプチュアルなのかというのはすごく難しい話だと思うけれども、遠藤さんの言っていることを私の考え方で方向づけるなら、そこがコンセプチュアルなところなんですよ、たぶん。
髙橋:僕、田中さんの展覧会で印象に残っているところは、田中さんの背中が入ったり入らなかったりすることや、ワークショップ中の座っている微妙な位置。音声さん、カメラさん、それぞれがいて、そして田中さんがここにいる、というカットがあるのがかなり印象的です。眞島さんと一緒で、田中さんの最後にインタビューされているところ、あの演出、構成は理解できるけど、どうしてもあのシーンが全体の中で特別に焼き付くというか。そういうシーンの細部が展示や構造の理屈よりも感情的に入ってくるというのが展覧会の印象でした。
眞島:髙橋さんの展示だったら自分で吹き替えしているところがあるじゃないですか。入ってすぐ右手の、あそこが段ボールだったんですか。
髙橋:えーと、そこは紙です。A4の紙です。
眞島:入ってすぐ右の…。
髙橋:右のやつは毛布ですよ。
眞島:あれはアフレコしているんでしたっけ。
髙橋:いや、あれはしていません。聴覚障害の方なので、サイレントの映像です。インタビューしてそれを元に僕が街をうろうろしているというだけの映像です。
眞島:私はあれが一番印象に残っています。内容としては他の映像の方が面白いと思うけれど、コンセプチュアルということであれば、あれはキュレトリアルなものから外れているところがある。今日のトークは「キュレトリアルあるいはコンセプチュアルを超えて」というタイトルですけれど、田中さんがやっているのは、まさにそれが可能かどうかを問うことなのだろうと思います。キュレトリアルな関心だけなら自分を被写体にする必要はないけれど、自分が映り込むことで作者性を技術化することも射程に入ってくる。キュレーションとコンセプチュアリズムはどういう風に関わりうるのか、実際に展覧会をやった経験から、田中さん、髙橋さんの考えを聞きたいです。
田中:例えば僕が、眞島さんのあの展示を自分でやるとする。眞島さんはビデオの中で語られていることを全部文字起こししたものをプリントして配ったじゃないですか。僕がやるんだったら、あれ、たぶん置かないです。ここに大きな違いがあるような気がしていて。事情を知らないので分からないけど、眞島さんが決めて文字起こしを置いたとしたら、つまり映像全体を見てほしいと思っていて、だから読めるようにしたのかもしれないけど。映像、まぁ18分ぐらいだから観るんじゃないかなと思ったんです。いずれにしてもあれが結構キーになります。なぜかというと、プリントを置くということは、それを置くための台がないといけない。でもそうなるとインスタレーションをトータルで見たときに、その台が展示構成の中でイレギュラーなものになってしまう。って、すごく細かいところですが(笑)。
眞島:あれは展覧会の運営が置いたんです。
田中:ああ、やっぱりそうかあ。
眞島:当初は置いていなかったんです。田中さんは、自分なら置かないと言ったけれど、私の判断もそうだった。けれども運営は、置くという判断をした。それで私はどうしたかというと、完全に放置です(笑)。どうして放置するかというと、まず関心がないからで、それから、関心を向けるべきものとそうでないものを私のなかで完全に分けてしまっているからです。それはキュレーターや事務局の仕事だ、という考えもあります。あれがインスタレーション全体を壊すことはありうるし、壊したと考える人もいるだろうけれど、これは言い訳かもしれませんが、そこが個展とグループ展の違いですね。でも個展であっても私はしばらく放置してみると思います。で、やっぱり我慢ならなかったら、それを観てしまった人には申し訳ないけれど、撤去する。ひどい状態で見せましたが、それは仕方がなかった、ごめんなさい、と、私はそうするだろうと思います。
田中:僕はいち観客として、この部分は眞島さん、気にしないんだなと。でも僕が展示をするなら、多分気になっちゃう。
髙橋:じゃあ展覧会の途中で、その展示構成を変えるというか、そういうことについてやってきたっていうことはありますか。
田中:僕は水戸で少し展示を変えましたよ。
髙橋:ああそうですか。
田中:展示構成を大きく変えたわけではないけど、オープニングの日に展示について妻と結構話して、そこで気づいたことを新たに書いて、担当学芸員の竹久さんとかなりやりとりして何度か書き直してプリントして、三週目ぐらいあとにテキストを追加した。カタログに間に合っているので収録されています。
髙橋:テキストが追加されて貼られている。
田中:それがあるのとないのとでは、展覧会全体の印象が変わるぐらい、結構ガラッと変わったと、僕は思っています。
髙橋:遠藤さんが何かめっちゃ言いたそうです。
遠藤:細かいなぁと思って聞いていました(笑)。
髙橋:僕、美術館でそんなに展示をやっているわけではないですが、そういうパブリックな施設で展覧会が始まるということにおいて、作品が完成された状態というものを見せるということをどこで判断するのかなぁというのは、それぞれの事例を聞かないとちょっと分からないかなと思っていて。ギャラリーとか自分がある程度コントロールできる場所なら、僕もかなりやるかなぁと思ったり。反応見て少し動かしてみようとか思うのはやってこなかったわけでもないので、ちょっとそういう話を聞いてみたかったんです。作家が判断するということよりは、キュレーターが判断するということなんでしょうかね。
眞島:単純なミスを直すということはあるけれども、私はいったん完成させたら基本的には手を入れないですね。
遠藤:僕もないですね。2011年にやった曽根裕展@オペラシティギャラリーは震災が発生したので変更せざるをえなかった。それ自体、特異な経験でした。
眞島:それはどういう理由でですか。
遠藤:イベントの構成も変わったし、人を呼べなくなっちゃったりしました。ちょっと僕発言してもいいですか。
キュレーター的な観点から補助線を引くならば、アウトサイダーアート全般のことを考えているんです。仮に何らかの障害を持っている方がいたとして、その状態からアウトサイダーアートが発生するまでについて考えるんですよ。まず、この方が作家です、これは作品です。ということを簡単に信用しない社会に僕らがいるとします。
そこでは何が行われているかというと、それが悪いと思ってるわけではないですが、まず親が「息子が喜んで絵を描いている、もっと描かせよう」と思いますよね。それを良しとしてくれる団体があるらしい、その団体に行ったらお兄さんお姉さんが別の画材をたくさんくれたと。そのお兄さんお姉さんは、この画材がこの子に合っているんじゃないかと決めてきたと、紙とかね。で、その団体は、それをポストカードにしたら売れるんじゃないかと、このくらいに描いたものをこう切り取ってトートバックも作った。実際売れた、と。展覧会をしたり、そう言ったプロモートをしていくと文化庁や厚生労働省からお金がもらえるらしい。有名な人をゲストに呼んだらお金がもらいやすくなりそうだ。
全員が幸せになるために動いています。関係論的に互恵的に制度が発生している。施設で働いてる人だって、障害を持っている人を見下したくないわけです。あなたのここがいいところだからそこを伸ばしてあげようと思ってやっている。誰も損しなくて、皆ハッピーになるという状態の中で、障害者以外の全員がキュレーションの技術体系を駆使している。出発点にある未分化な状態から、キュレーション技術を駆使することで作家と作品の概念が発生している。あるいはひとつの芸術ジャンルが生成している。事前に作家や作品やアウトサイダーアートというジャンルが成立しているわけではない。絶対的な権威ではなく、関係論的にアートの概念が発生し、全員が幸せになっていくともいえます。
しかし、その制度設計はキュレトリアルに、技術論的に正しいのか、という問題です。例えば、ある子供が朝毎日、ものすごい速度で走り回っている。寝る間に必ずする奇妙な行為がある、とする。その行為を中心にアートを構成しようと思ったら、別の技術体系と制度設計がなされる可能性はありますよね。とりあえず絵で説明しているのはわかりやすいから、既存の芸術制度としていまだに使えるからであって、技術的な開発によって周りの人がみんな幸せになり、更新された人間性と呼ぶべきものをアートの名において肯定するシステムを駆動させる別の道は、いくらでも可能なはずです。
ともあれ、今のアウトサイダーアートを取り巻く状況で発生していることは、キュレーションの全面化という事態です。ケアの全体化、キュアの全体化です。そのような状況と今の現代美術で起こっていることは地続きだと考えています。ジャンルが違うとか、経済規模が違うとか、美術史は批判性の概念を欠いているとか、現代美術の側がいかように言おうとも、技術論的には全く等価である、同じ次元にあると思います。このような斜線を引くことで、僕らがここまで細かく技術の話をする意義がわかってもらえるのではないか、と。
田中:今の話を聞いて思ったのは、みんな、いい作品だとか、悪い作品だとか言うわけです。このアーティストはいい作品をつくるけどまだ評価が追いついていないとか。だけど、世界中を見渡せばアーティストの数が膨大に増えていて、これだけ多くの現代美術が作られていると。僕もいろんな国に行くので、いろんな場所で、いろんな町の、まぁ小さい地方都市でも展覧会があって、それを観に行くと、結構いいんですよ、みんな。ここにいる3人とも似ているような、リサーチベースの同じようなタイプのアーティストもいっぱいいて、それぞれにそれぞれのいい仕事をしている。その中では、もちろん特別に飛び抜けた人がいたりもして有名になったりするけれども、基本的にはすべての作品は大体はよくて、そういう状態になっている。となると、もういい作品なのは当たり前で、もしかするとどんなにだめな作品でもそれを評価する軸を見つけることができて、簡単に「いい悪い」も言えなくなってきている。これはアウトサイダーアートの状況と紙一重で。
髙橋:アベレージが上がっているということですね。
田中:そう。全部そこそこいい。そこそこいいアーティストしかいないしだからその外側の、展覧会制作に関係する部分がより重要度が増しているのかも。キュレーションがアーティストにも必要な技術になってきているんじゃないだろうか。
関係するかどうか分からないけど、日本ではアーティストがキュレーションをする国際展増えてますよね。例えば岡山芸術交流もそうだけど、横浜トリエンナーレとか札幌国際芸術祭とか。
遠藤:一方で、確実に言わなくてはいけないのは、村上隆さんという非常に大きな存在を日本にいる限り感じているわけで、村上さんは明確にキュレーションを導入したという観点から考える必要があります。もちろんポップなキャラクターを生み出し、準ポップアートとしてのスーパーフラットという概念を追加しているし、マーケットに対する偽悪的振る舞いにコンセプチュアリズムが宿っていると言えないこともないですが、しかし絶対的に重要なのは彼がキュレーションをしているということです。三部作と呼ばれているものも、しっかりとしたキュレーションでしたし、先日の森美術館での個展においても、自分の作品の背景を説明するために現物を持ってきたりして、キュレーションが行われている。森美術館のキュレーターも手伝っているとは思いますけれども、キュレーター以上の恐ろしい労働量でキュレーションをしています。よく考えると自分の骨董品を並べて展覧会を成立させるというのは尋常じゃないキュレーション力ですよね。
ということは、僕らよりも前の世代からアーティストがキュレーションするというのが、実は現代的なアーティストたる条件に含まれているんじゃないかという考え方ができると思うんです。セルフキュレーションという要素が、公共性の担保になったり、一種の自己反省機能を顕示したり、自分自身と社会をメディエイトする能力のエビデンスになっている。つまり現代的な作家の条件には、既にキュレーションが含まれているということです。
田中:さらに論点を追加すれば、キュレーションというのは統治の技術でもあります。観客と作品の関係をどう操作するか、観客同士の関係をどう動かすか、ある意味では公共性をどのようにデザインするかという技術でもあるし、テキストを書き、カタログや配布物、チケットの販売方法まで意見を言って、展覧会をめぐるすべてにアーティストが手を入れるということは、アーティストの美学を共有、と書けば聞こえはいいけど、押しつけでもある。これは怖いことかもしれない。
水戸芸術館の個展を批判するときに、この観点に立っていうことができます。散々、水平的な参加、民主主義的なあり方をプロジェクトの中で模索しながら、アーティストである僕自身が独裁的に個展をデザインしている。キュレーターとの協働があるにせよ、統治が徹底化された空間なわけですね。もちろん自由な動線をデザインし、複数の映像と情報を観客がそれぞれに好きに頭の中で取捨選択/編集できるように作られているわけだけれども、ひとつの美学が貫いていることに変わりはない。余剰が少なめというか。だから気持ち悪いと思う人がいたのも、理解できます。
これ、グロイスの話にもつながりますね。キュレーターが公共を代表していて、アーティストがプライベートだという話ですが。キュレーションが統治の技術だとして、キュレーターによって公共性がデザインされている分には、統治の度合いが少し薄らぐ。なぜならばそもそも公共性をキュレーターが担っているわけだから。でもアーティストが公共性を作るとき、上記の独裁的であるとか、胡散臭く見える。それは個人に根ざしているからですね。そこにキュレーターとアーティストの差がある。その意味では村上さんも同じようにひとりのアーティストとして、すべての責任を負い、糾弾される可能性を考慮しつつ、キュレーションを行う。アーティストによる公共性は、つまり個人によって生み出される公共性とは、結局のところ小さな公共性です。その意味では、統治の技術といっても、小さな領域の話でしかないのかもしれない。むしろ小さな公共性の中で自由を確保するための統治の技術と言えるかもしれない。でもなんかその辺のことが結論がないというか、僕もちょっとモヤモヤしているというところ、なんかどうなんだろう。
遠藤:リスクを負っているということですか。
田中:まあまあ、リスクは負ってるよね。
眞島:プライベートとパブリックが接続される、あるいは接続されなければならないものとして準パブリックなアーティスト、キュレーター=アーティストと言えばいいかな、そういうアーティストたちがいる。それは、田中功起だったり村上隆だったりする。この2人は極端だけどすごく似ているし、展覧会の作り方だってそっくりでしょう。カタログも自分で徹底的に手を入れるし、展示もコントロールする。支配するという振る舞いのレベルで似てくるわけです。
一方で、それをやらないアーティストたちというのは、遠藤さんの言葉を拾えばアウトサイダー・アーティストということになりますよね。インサイダー・アーティスト、さっきの私の言い方だとキュレーター=アーティストは、準パブリックな場所を確保するために自身のコンセプチュアリズムに対してキュレーションの技術を駆使している。そしてそれ以外のアーティストは、みんなアウトサイダー・アーティストである、という状況が起きているわけでしょう、言ってしまえば。
お前はどっちなんだ、と言われるわけです。まあ、言われないけれど。世界のどこにでもアーティストがいて、それなりにいい仕事をしていて、それが当たり前になっている。そういう状況のなかで、ユニークなプライベート性も突出したキュレトリアルの技術も持たないアーティストたちは、アウトサイダー・アーティストとして扱われることになる。それは社会生活的にはポジティブなことで、否定する必要はないと思うんです。
こういうことを話して思うのは、そのときキュレーターはどの位置にいるのだろう、ということです。キュレーターが、アウトサイダー・キュレーターにならないようにするなら、むしろアーティスト的にプライベートな部分をコンセプチュアルに構築して死守する、というモダンで古臭い振る舞いをする必要があるのだろうか、それともそうではないのか、そのときの技術というのはどういうものなのか。ちょっと分からなくなってくる。
遠藤:そうですね、今日はコレクションやアーカイビングの話はしませんでした。これをすると広がりすぎてキリがないので意図的にしてないんですけれども、ただ今日のテーマに加わってくるひとつの重要な問題だと思います。自分で自分をアーカイブすると、それが残るみたいな、キュレーターが本来有していた専門性をアーティストが行うことでマッチポンプ的に「半過去=現代」美術が延命していく、というシステムも、最近は板に付いてきたんだなあ(笑)などと眺めています。