キュレーター遠藤水城自身によって「日本シリーズ」と冠された展覧会/プロジェクトのシリーズには、同じ作家を複数回起用するという設定があるようだ(遠藤はそれを「ダブルヘッダー」と表現している)。なるほど、本山ゆかりが「第1戦」の「人の集い」(奈良)と「第2戦」の「裏声で歌へ」(栃木)に参加しているのとちょうど同じように、國府理が「裏声を歌へ」に続いて「第3戦」である「水中エンジン redux」(京都、アートスペース虹)に「参加」している。この事実は、「水中エンジン redux」が単なる展覧会にとどまらないこと、展覧会という時間と空間の「外部」を含んでいることを示唆している。「示唆」と書いた通りーこれは「日本シリーズ」を通して言えることでもあるがー「水中エンジン redux」では直接的に展覧会外部の存在は明示されておらず、しかし、そこで示されている以上の何かがそこにはある、という存在感が展覧会の輪郭をぼかしている。筆者は冒頭で「日本シリーズ」を「展覧会/プロジェクト」と書いた。これは曖昧な表現ではなく、厳密にそう書いている。「水中エンジンredux」は、「水中エンジンredux」展と、「水中エンジンredux」プロジェクトの2つが並走しているその総体である。そのような共立構造として「水中エンジンredux」を捉えなければ、ともすれば「日本シリーズ」は「純粋な鑑賞者」と「背後の文脈を執拗に読み取ろうとする鑑賞者」の固定化と対立という本来の意図から離れた問題系を生産することにつながりかねない。
さて、筆者は本論で國府理「水中エンジン」再制作プロジェクト実行委員会の方々の並々ならぬ努力と葛藤を毀損するつもりは毛頭ない。「水中エンジン redux」展を独立した実践と見る限りにおいては、遠藤自身が記すように「思い立ったかのように繰り返される追悼のようなもの」として、つまり権威化に対して自覚的であろうとする誠実なプロジェクトとして機能している。実際、再制作をめぐる様々な困難や技術のアップデートは今後起こりうるであろう多くの同様のケースにおいての重要な試金石となることに疑いはない。具体的に展覧会を見てみよう。会期は前半と後半にわかれ、前半には「日本シリーズ第2戦」で展示された水中エンジンの「エンジン」がむき出しのままに吊られて展示され、過去の水中エンジンの記録映像が合わせて上映されていたそうだ(そうだ、と書くのは残念ながら筆者は後半しか観ることが叶わなかったからだ)。そして後半は新たな「水中エンジン」が堂々と展示されている。会場で鑑賞者はチェキの撮影が可能となっており(これは日本シリーズ第1戦にもみられた)、「記録」の複数化、個人化、非永続性というレイヤーが挟み込まれている。
興味深いのはこの前半の「吊られたエンジン」である。遠藤は、生前の國府が「吊られたエンジンの作品」(「地中時間」)の画像を「水中エンジン」の展覧会の広報において使用しているという点に着目し、その連続性を指摘している。この連続性あるいは循環構造の指摘およびその強調は、「再制作」というフレームだけではとらえ損なってしまう位相のものだ。失敗/不完全/不在から始めなければならないという態度の潔さにすぐさま感じてしまう「欺瞞」(自戒をこめて言えば、こうした問題設定は、いかなる結果をもある種の「成功」として位置づけうる構造になりやすい)と距離をとり、余白を設定するためには、「再制作」以外のレイヤーが必須となってくる。再制作をめぐる、これでもかというほどのディティールの提示と、「地中時間」-「水中エンジン」という循環構造の言説レベルでの発明、この両輪によって、「水中エンジン redux」という展覧会は駆動している。そこには「redux(帰ってきた)」という形容詞と「追悼」という名詞の折り合いの悪さすら解消されている。(地中時間-水中エンジンの重ね合わせは一種の「埋葬」の身振りとも考えうるし、ある覚悟を持ってなされていることだと筆者は信じている。それゆえ、運営者側が展示方法について「吊るした状態で、「損傷・劣化したエンジン」の痛ましい姿そのものを見せる」というような表現をしてしまうことの無頓着さには違和感を禁じ得ない。)ここにきて「水中エンジン redux」展は、その空間的、時間的フレームを大きく逸脱し、「水中エンジン redux」プロジェクトとでもいうべきものと運動を始める。「オルタナティブな共有システムと記録システムの可能性へと繋がってい」るとする信念はまさにここに賭けられているのだ。