ベーシック・インカムと表現: 山森亮インタビュー
Basic Income And Expression : Toru Yamamori Interview

4 それぞれのベーシック・インカム論
 
—ベーシック・インカムをめぐる状況で興味深いと思う点は、いわゆる右派の方でも左派の方でも政治的立場を超えて一定の支持者がいることです。その点についてはどう思っておられますか。
 
5万でも10万でも15万でも、社会が合意する、生活に最低限必要な額を、すべての人に無条件で給付する。それがベーシック・インカムの最低限のコンセプトです。

ということは、ベーシック・インカムは子供手当てとか、年金とかと同じく、ある種の制度ということになります。たとえば年金を右の人も左の人も支持してもなんの不思議もないのと同じですよね。

ただ、あるカテゴリの人たちがベーシック・インカムについて不思議に支持していないのです。それは日本だけではないですが、日本の場合は顕著に、労働組合の支持がない。世界的に社会民主勢力と言われる人たちの支持が相対的に弱い。それよりこっち側にいる人と、あっち側にいる人が支持して、真ん中が支持していないから、何か不思議な見え方はしていると思います。

もう一点、日本の今の右と左の状況を言うと、ベーシック・インカムについて全く違う絵を描いているということも注意したいです。

ベーシック・インカムの議論というのは200年くらいの歴史があります。とりわけ、20世紀後半以降では、現在の福祉国家を解体するためにベーシック・インカムを導入するという方向ではなく、福祉国家をより人間的にしていくような、そういう側面をもって語られてきました。

現在の福祉国家は、福祉の領域でも誰が対象者なのかということを常に選別していきます。

たとえば病気で働けないということで生活保護を申請して受給している人がいるとします。その方が、病気が治らないのか、治ったのか、治ったとすれば働けるのではないかとか、絶えず審査の対象になるわけです。障害でもそうです。シングルマザーで小さいお子さんがいるとして、ホントにあんたシングルなのか?とか、関係持っている人がいるのではないの、とか。そういう話も出てきます。

過去50年間で、ベーシック・インカムを要求する一番大きい運動は、イギリスやアメリカ、イタリアで起こった運動でした。それは日本の生活保護に近い制度を利用していた女性たちによって起こされました。とりわけ当時イギリスでは性的な関係を持つ相手がいれば事実上その相手を扶養義務者として見做すという制度運営がなされていました。そこで、シングルマザーで小さいお子さんがいるという名目で保護を受けている人たちの監視は、男出入りがあるかどうかということにどんどん特化していきました。たとえば当時イギリスでは郵便配達は公務員だったので、業務命令で男性宛の郵便物があれば報告するように言われていたんです。

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(1974 年 3 月 8 日国際女性デーのポスター、イタリア。「家事労働に賃金を」のスローガンが記載されている。)
 
冷静に考えてみれば、その人がどういう性的関係を持っているかということ。それと、養う、養わないということは全く関係ないはずです。そこにはある種のセクシズムが当然入っています。こうした、生活全般が国家の監視のもとにさらされることに対する異議申し立てのなかからベーシック・インカムは要求されました。

つまり、行政の裁量や監視によって物事が変更されるのではなく、ある種機械的に払われる形にすること。そこから国家の監視なり介入なりを最小限にするという、そういう発想があったわけですね。

では、シングルマザーをはじめ、路上で要求されてきたベーシック・インカムの理論が、監視が必要だったり、政府が認めたり認めなかったりする仕組みが全部無くなっていいと考えているかというと、そういうわけではないのです。

やっぱり子供2人と子供5人じゃあ、額に違いがあっていいだろうとか、障害が重い人には余分にお金を給付したほうがいいのではないかとか、それらを排除するものではないのです。だから福祉国家の一番基礎の部分にベーシック・インカムがあり、その上にいろんなサービスや、その他の現金給付が残る形、あるいはさらに拡充されるような形が、雑な言い方をすれば左派が構想するベーシック・インカムです。

一方、日本で現在右派の人たちが主張するベーシック・インカムは次のようなものです。ベーシック・インカムを導入することによって国家を小さくすることが可能である。その結果、公務員の数を削減できること、財政規模を小さくする効果があること。ということは、ベーシック・インカムを導入することと引き換えに、まず他の社会保障を全廃する。次に、HAPSのような、それ以外の公共事業も全廃していくということを考えていかないと、主張そのものが成り立たないと思います。

アメリカでもミルトン・フリードマンという人の、「負の所得税」という発想が、日本の右派の人たちの議論と非常に近しいものがあると思います。

そういう主張自体はあっていいと思います。それをベーシック・インカムでないというつもりもありません。ただそれはベーシック・インカムの200年の大きな歴史の中に位置づけた時には、異色なものではあるでしょう。

以上のように、両者のベーシック・インカム論はそれぞれ何をスクラップするのかという所が違います。ただ、非常に抽象的な意味で国家の介入を少なくするという点では共通点があります。僕は、そこに議論が成立する土俵があると思いますし、また、それをある種の希望としてとらえています

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