3 生きていること自体が価値である
—ベーシック・インカムの根拠になっている考え方をもう少し詳しく教えていただけますでしょうか。
純粋に、一人ひとりが社会生活していく上で、やりたいことをやるということが、即社会貢献につながるのだということ。社会貢献という言葉はあまり好きではないので、言い換えると、社会になんらかの価値を与えていくということになる、という考え方です。
そうすると、価値ってなんだ?ということですが、ベーシック・インカムの議論の中では二通りの議論があります。
一つは、人は、それぞれ違うわけです。だから、その人が活動していること自体が、そもそも価値があるという考え方です。
もう一つ、やや懐疑的ですが、結果的にベーシック・インカムを正当化する議論があります。実際は、社会にすごく貢献する人と貢献しない人がいるかもしれない。けれども、その価値をどうやって計るのかというと、計れないのではないかという考え方です。少なくとも同時代には計れない。
生きている人の評価っていうのは、芸術作品なども難しいですよね。ゴッホの絵だって現在はすごい値段で売られています。けれども、生前にどれだけのお金がゴッホに入ったかというと、ほとんど入ってないわけです。確か1枚しか売れなかった。また音楽の分野では、リミックスなどが一番典型だと思いますが、他の誰かの作品があってはじめて芸術活動が可能になります。これは芸術だけではなく、どんな生産活動でもそうだと思います。農業でも、前の人たちの営みがあって、その蓄積があるところを引き継いで生産活動ができるわけです。
そうすると建前としては、たとえば資本家が資本を投下して利潤を得る。芸術家が作品を生み出してその対価を得る。あるいは普通の労働者が労働して対価をもらう。それらは、今現在作り出したものに対する対価のように見えますが、実際はどうでしょうか?今作り出したものはその人の労働なり芸術活動だけでなくて、過去の人たちの積み重ねの上にあるわけです。
それは皆の共有財産だと思います。
となると、みんなに平等に分配するということが可能なのではないか、ということになります。それはそれなりの説得力を持つと僕は思いますし、ベーシック・インカムを主張する人たちはそう考えています。そして、そういうものがベーシック・インカムの財源にもなるし、ベーシック・インカムが配られる正当化の根拠にもなると思います。また、僕は教員ですが、マダガスカルにいるのと、イランにいるのと、アフガニスタンにいるのと、日本にいるのと、世界のどこで教員をしているかで給料が全然違うわけです。これはたぶん床屋さんでもサッカー選手でもそうですし、何のお仕事をしていてもそうだと思います。
そうすると給料の大半というのは、その人がどんな技能を持っているかによって決まっているのではなくて、その人がどこに生れ落ちたかによって事実上99%は決まってしまうのではということです。個人の才能なり貢献なりではなくて、その社会がそれまで何を育んできたか、他の社会に対してどういう特権をもつ社会であったか、そういうことで実は決まってしまっています。
それがいいとは思いません。けれども、ここで言いたいのは、社会の中では、稼いだ人と稼げない人がいるじゃないか。その社会に貢献した人と貢献しなかった人がいるじゃないか。だから、ベーシック・インカムのようにみんなに一律にお金を配るのは不公平ではないか。という話しが必ず出てくることです。
ところが、実は今生きている人がどれくらい稼いでいるか、社会に貢献しているか、という話はほとんど関係ないんじゃないかという気がするわけです。つまり先ほど申し上げたような生まれ落ちた場所で所得が決まってしまう現実があるので、個人の取り分として正当化できる部分が本当は少ない、ということを指し示しています。
じゃあ社会ごとにそんなに違いがあっていいのか、ということになると、僕はいいとは思っていないです。それはそれでまた、地球レベルで、ある種の調整が必要だと思っています。そういう方向を考えると、よりベーシック・インカムは必要だということになるかと思います。
グローバルベーシックインカムとか、あるいは日本では法政大の岡野内さんは地球人手当と呼んだりしていますが、呼び名はともかく世界規模のベーシックインカムという考え方です。こうしたものがないと、より正しい報酬に近づかないのではないかと考えています。
ベーシック・インカムは人が人間らしく自分のやりたいことを続けられるという意味では欠かせないものです。それがあって初めて、この王冠が示しているような社会に進んでいく一歩が歩みだせる、と僕は思っています。