「クール・ジャパン」のその後と表現:高嶺格インタビュー
Tadasu Takamine Interview

4 経験と表現と好奇心

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敗訴の部屋 「高嶺格のクールジャパン」2012-2013年 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景
撮影:細川葉子 写真提供:水戸芸術館現代美術センター

 
—高嶺さんは、この4月から秋田に行かれるんですよね。(*2)
 
はいそうです。
 
—専任で教育現場に携わるとなると、今までのような展示とか創作活動とか難しくなったりしませんか?
 
うん、たぶん作品を作る時間は減るんじゃないかと思います。
 
—そうですよね、それでも行くというのは、ご自身が教育や研究について強く希望されたからなんでしょうか?
 
まあそうですね、ここで人生変えるのも悪くないと思って。
 
—それは、秋田やから、というのはありました?
 
んー、まず学校が小さいというのはいいと思いました。一学年100人くらいの学校で、それはおもしろそうやなと。それと、東北はこれからおもしろくなるという予感があって。
 
—それはどうしてですか?
 
あんな大変なことを経験した子らが今後大学に入ってくるんですよ。おもしろくならないわけがない。
福島県に、いわき総合高校という高校演劇で注目されている高校があって、僕は東京で観たんですが、震災で死んだ同級生を主人公にした話で、ストレートに東電や政府に対して怒りまくってるんです。観客は大人ばっかりだったけど、みんなぼろぼろに泣いてた。それはものすごい伝わり方で、もちろん顧問の先生が力のある人なんだと思うけど、高校生やるじゃん、と思いました。東北がおもしろくなるかもしれないと思ったのはそのこともあります。
 
—芸術を学ぶ上で、表現をするということにおいて、どういう経験をしてきたかということは大事だということですか?
 
もちろん。
あの状況で「芸術は無力だ」と一旦は考えた子は多いと思うけれど、それはとても大事なことで、その経験はその人の表現を鍛えるんじゃないかと思う。
「私は何をしたいのかわかりません」ていう子に指針を示すのってすごい大変なことなんです。あれだけのことがあったら、生きていく上での指針がつくられると思うんです。それがあるのとないのとでは全然違うからね。
 
—なるほど。
では一方で、「私は何をしたいのかわからへん」という子についてですが、高嶺さんのような表現することを生業にしている人からも、この子は教えるのが大変やと言われたら、その人たちはどうすればいいんでしょうか。

 
深刻な問題ですね、そっちのほうが深刻な問題ですね。
教師に見放された「つまらない子」はどうすればいいのかということですよね。特別な経験をしてるかしてないかって自分で選べるわけじゃないですからね。でも僕だって特別な経験をしたわけじゃないから。
最低限の好奇心がボーダーラインかなあ。好奇心すら失ってしまったらどうしようもない。教師にできることはほとんどない。
 
—でも、好奇心を失わせよう、失わせようと社会がしている面がありますね。
 
それはそうかもですね。そんなことしたら国はダメになるのにね。
でも、さっきのシンガポールの話ではないけれども、法律で決まっているのに二人以上で集まるのは、集まる方が悪い、という感性が育ってしまうのは、あまりにも世界を知らなさすぎると思います。
それは、自分の欲求というか、自分がこうなったら気持ちがいいとかいう快楽現象みたいなものと、日々きちんと対話をしていないということが大きいと思う。
「考える」ということは違和感から発生すると思うんですよ。自分がこうしたいけど、こうできないのは何故か?とか、その違和感の原因を探る行為というのがクリエイティビティにつながると思うので、そこで身体感覚すらコントロールされていたら、それすら発生しないかもしれないですね。
そうなったら言われるまま羊のように働くしかないしね。

ただ、こんなこというと自分もいろいろ反省させられるんです。というのは、自分の子供とのつきあい方なんやけど、たとえば、子供が「いまこうしたい」と欲望をはっきり持ってることは大切で、それは最大限尊重すべきと思うんです。買い物に行ったときに「これ欲しい、あれも欲しい」ってなるでしょ?そのときに、欲望を持つこと自体を否定するんじゃなくて、なぜいま親がそれを買い与えないのかの理由を、どうきちんと説明できるか?そこって実は非常に大事な局面なんですよね、人の欲望をどう制御していくのかっていう。それを頭ごなしに叱ったりすると、そのうち子供は欲望を持たなくなるかもしれない、欲望を持つこと自体が悪いって風にインプットされてしまうかもしれない。
 
—ずっと「我慢しなさい」と言われ続けて、それが美徳やと思わされてたら、それはありそうですね。
ちなみに、高嶺さんご自身はどうだったんですか。我慢が美徳やと小さい頃は思ってましたか?それとも違和感があったんですか?

 
とりあえず「我慢は美徳」だと思ってた気はする。
 
—徐々に束縛していた殻を解きほぐしてきたみたいな感じはあるんですか?
 
殻というか、自分が育ってきたローカルな道徳はいかなるものであったのか?ってことですよね。今回もね、展覧会のステートメントというか、ちらしの中にも書いたんやけど、自分がどう作られてきたかというのは興味があるんです。何故僕は、今、こんな風に思ったんだろう、こう感じたんだろうとか、身体的感覚を含めてそのルーツを知りたい、それを常に検証しつづけたい。そう言ってる割には僕は歴史のことはぜんぜん勉強してなくて知らないんだけど。
自分の感性というのは「過去に作られた自分」ということで、自分は常に更新されるものだから、過去の自分と現在の自分とは必ずズレが生じます。そのズレには自覚的に「違和感」を感じつづけたいと思います。

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