「クール・ジャパン」のその後と表現:高嶺格インタビュー
Tadasu Takamine Interview

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水戸芸術館で開催された『高嶺格のクールジャパン』展(2012年12月22日~ 2013年2月17日2011年の震災以降の日本と日本人についてあらためて考えるきっかけとなった展覧会でした。「女は、女に生まれるのではない。女になるのだ」という、ボーヴォワールの有名な言葉を参照して、高嶺さんは「日本人は、日本人に生まれるのではない。日本人になるのだ」と展覧会の紹介文で書いています。インタビューでは、大きな反響を呼んだ本展覧会についてお聞きするとともに、美術家として、表現者として、高嶺さんが社会とどう接点を持ち続けているのか、または持ち続けたいと考えているのかをお伺いしました。

(インタビュー実施日:2013年2月28日)


1「高嶺格のクール・ジャパン」展について
—まずは、水戸芸術館で開催された『高嶺格のクールジャパン』展が終了して、お疲れ様でした。今どんなお気持ちでしょうか。

 

どうなんでしょうね。いまだにお客さんの反応が気になってしょうがないです。
水戸芸術館って、地元の人ももちろん来るけれども、遠くから来る人も多いんですよね。水戸芸でやる人は全員考えざるをえないんじゃないかなぁ、はるばるお金と時間をかけてきた人にちゃんと届いたかどうかってこと。

多分、作家はもちろんやけどキュレーターが、お客さんを満足させないかんみたいな意識がすごくあると思う。規模も大きいし、日本で数少ない現代美術専門の美術館、しかも最初期にできた美術館だから。開館当時と比べると予算は減ったけれども、クオリティを下げるわけにはいかないから、いろんな戦略をもって臨まないといけないと思うんです。

 

—では、今回の展示に関しては担当キュレーターからの指示なり希望なりをかなり受け入れた形になったんでしょうか?

 

僕は、サイトスペシフィックな展示のときには積極的にキュレーターと一緒に仕事をするタイプで、今回は特にガッツリ共同作業できた気がします。

今回の企画の担当者は高橋瑞木さんという人なんだけど、高橋さんは、なんちゅうか、志の高い女性で、僕がこんなことしたいと思えるように道筋をつけてくれたということもあるし、アイデアが出てきたときには最大限にサポートしてくれました。いい共犯ができたと思っています。

 

—展覧会を拝見しての個人的な感想になりますが、これまでの高嶺さんの展示と較べて、今回はシンプルな展示だなと真っ先に思いました。でもだからこそ、あの展示を観たたくさんの人に、デモなどの社会運動とは違った形で、震災や原発のことを考えるきっかけになったんじゃないかと。また、私の抱いていた先入観としてのアートのイメージと違っていて、アートってなんなんやろう、と考えたりもしました。あの展示は、最初から想定されていたのか、それとも結果的にああなったのか、それをちょっとお伺いしたいのですが。

 

シンプルっていう印象は、素材や質感の印象も大きいのかな。直線が多いというか、なんかシュっとしてますよね。活字やメタリックな素材だとかが全体的に多くて、反対に草や木みたいなオーガニックなものの割合が少ない。

僕が最初から念頭にあったイメージは、デモとか、人々の叫び声。そういう質感のことを考えていました。
で、それってなんか、ぐちょぐちょっとしたもんだから、その質感がそのまま来たら、展示を観に来た人は嫌悪感を抱いて逃げてしまうんじゃないかと。

たとえば、僕の『木村さん』という作品について言うと、あれはマスターベーションの介護をしている映像で、障害者で、 性器も出るし、あああーとか言ってるし、 そういう生々しい質感と対比させる形で、「ガラスを割る」というアクションを入れているんです。今回も無意識に同じようなことをやってたんじゃないかな。

あと展示全体の物量が少ないと思う人も結構いたみたいだけど、それはノイズが少ないとかそういうことかなと思っています。

 

—ノイズが少ない、確かにそうですね。

 

猥雑さとかじゃなくて、今回の展示は、これで行く、みたいなことだったんです。どういうものがあればいいかというのはずっと考えていたけれども、どんどん削って行って、展覧会の見かけとしてはハンサムなほうがいいだろうと。

 

—ハンサムな展示?

 

うん、男前というか二枚目。妙に変な顔をしている人がいるとか、横道に逸れるとか、伏線を張るとか。僕のいつもの展示だとそういう、ストレートな理解を邪魔するようなものが入ってきたりするんだけど、それは今回入れる余地がなかった。

 

—そこまでして積極的に観てもらおうと思ったのは、どういう理由からですか?

 

「見やすさ」というのもあるんですが、要するに水戸という場所です。実際深刻に生活にダメージを受けている人が観たときにどう思うかということ。それと、もっとコアな点で、あの彫像のモデルをお願いした6人。彼らの視線はかなり強く意識していました。いわゆる「アートファン」にしか通用しない手段はここでは使えないだろう、誤解を招くような表現が入っていると単に人が離れていってしまうだけかもしれないから。

 

—人が離れていってしまうというのは?

 

美術館にはあまり足を運んだことがないけれども、原発の事態を注視している人たちが観に来たとして、「アートってやっぱりわからんね」と言って出て行かれるのがすごく想像できたんです。それってごく普通の反応でしょ?どんなにわかりやすくしたところで、現代美術には「わからない」というバイアスが常にかかっている。でもそれはすごくもったいないことなので、せっかく来てくれた人に「わからない」という言い訳を与えない展示のあり方、美術のスキルを問わない方向を今回は探ってみました。

 

—高嶺さんは美術家なので、美術作品を展示されたということだと思いますが、それでもやはり、こうした問題をデモなどを行なうという方法でなく、展示という形で実現されることについてはどう考えておられますか?

 

展示という方法が効率いいか悪いかと言われるとわからないです。でも効率が特に悪いとは思わないんです。美術展の効果は広報のやり方によって全く変わるから一概には言えない。それでも効率を目指すというのは僕にとっては大きな命題です。

 

—美術館という場所に効率という発想を持ち込むというのはおもしろいですね。

 

やり方はいろいろあると思います。ただ僕は、美術館から依頼を受けて展示をしたといういきさつから、それなりの時間とお金を預かっているわけです。当然、その責任というのは重たい。ただ逆に言うと、美術館に来たということは、たまたま入った人でも少なくとも数十分はそこに滞在する意志があるということで、気持ちをつかむポテンシャルは非常に高いわけです。そのポテンシャルを生かすも殺すも作品次第なんだけど、効率の高い仕事をしうる機会には違いないと思います。

美術という方法は「遅い」んです、どうしても即応性に欠けるところがある。今、展覧会のカタログを作っててそれにも書いてるんだけど、「質」と「量」ということがあって、美術というのは、やっぱり繊細さとか質とかを扱うものだし、なんでもいいから大きい声で原発反対とか平和とか言ってるだけでは美術には成り得ないので、質を確保するためにはやっぱりある程度の時間が必要になってくる。「質」で訴えてゆく、僕はそういう仕事をやっていると思っています。

ただ政治は量の問題であり数の問題なので、質がどうしたら数に変換されるのかという問題が、まあ、それは答えは出ていないけれども、そのカラクリというか、トリックを美術が持ちうるかどうか、というのはいつも考えています。

 

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