石と稲
1
いつも到着が遅すぎてしまう。
私がこの京都の庭園に到着した頃には、 住職はすでにいなかった。鍵のかけられていなかった門の中には、整えられたばかりの白砂の砂紋と、その上にそびえ立ついくつかの石だけが残されていて、それはまるでベッドのシーツにかすかに残された妻の体のシルエットのようだった。
2
私はある未来の都市からやってきた。そこでは、屋上、ベランダ、建物の前の空き地、道の脇にと、あらゆる場所に野菜や植物が植えられている。苦瓜、キュウリ、トマト、ピーマン、キャベツ、ミント、レモングラス、ほうれん草、わけぎ、春菊、しそ、玉ねぎ、にんにく、レタス、大根、なす、ウイキョウ。まるでペットを愛するかのように、人々は野菜作りに夢中だ。
今回の京都訪問は歴史を尋ねる旅のはずだった。しかし、時間が複雑に入り組むこの場所は、目の前の乱石のようだ。住職との出会い、そして、すれ違いはすべて因縁によるもの。寺院のまわりの哀愁漂う人気のない回廊を歩くと、自然と賈島の詩が思い浮かばれた。
只在此山中(ただこの山中にてあらん)
雲深不知処(雲深くしてところを知らず)[1]
3
もし、この庭園が自然の山と同じように広大な存在であるならば、住職は「この山」のどこかに、この宇宙のどこか片隅にいるのであろう。ただ私の肉眼が数々の住職との出会いの暗示を、まだ読み取ることができていないだけだ。残された砂紋と石の配列から、私は自分の心のざわめきをありありと感じた。これは歴史上、人類が危険と対峙した時に感じたものと同様のざわめき。命がかかった、逃れることのできない、乱石の争いであり、目に見えない内なる闘争である。
この宇宙の秩序の中、潜在する乱れが不規則な石の配列に現れている。世俗の争いに巻き込まれた人々は、禅寺特有の空間の秩序の中においても、エネルギーは乱れ始め、そして終には失われていく結末を知るであろう。権力闘争は静かな茶室の中でも継続するが、最後には茶と同様、次第に衰弱した身体の中へと消えてゆく。
かつて、これらの乱石は、途絶えることのない闘争心を暗示していた。しかし、後に訪れた者に対しては、一種の奇妙な均衡を保ち、そこから感じるのは石が相互に影響する中で生み出す、軽妙な動きである。
私が石を一つ砂礫の中に投げ入れると、そこから波紋が広がっていった。
4
龍安寺を訪れたとき、15個の石に向かってしゃべりかけ続ける多くの来訪者を見た、と友人Yは私に言った。しゃべることで心の大きな不安を覆い隠しているかのようだった。そのとき、沈みゆく夏の太陽の光が石と対峙する人々をかすめた。すると人々は突然静まり返り、そのままゆっくり石になってしまうかのように、じっと座ってしまった。
友人Yはその様子に畏敬の念を抱き、そして、解脱した。そのときから彼は、禅寺の庭園の石を肌身離さず持つようになった。私たちが身を置くこの時間と、芭蕉が過ごした時間は本当に異なるのだろうか。現在も依然として至る所に危険が潜み、災難は絶えることがない。逃避するように、もしくは何かを探し求めるように、彼は北海道から海岸線に沿って1か月、野宿のような旅をした。その間、彼の精神は崩壊寸前の状態だった。ある村を通りかかったとき、彼は青々とした水田を見かけた。それは普通の水田のような四角い形ではなく、一点を中心に広がる円形であり、中心には木の棒が立てられていた。
「この水田が私の心に突き刺さった。」
しばらくして、彼はまたその村に戻り、その水田を訪れた。こうして無意識に自分の未来に足を踏み込んでいった。
5
京都からそれほど離れていない所にあるもう一つの村は、長い間荒れた状態だった。村を守る人々は年老い、若者はほとんどいなくなってしまった。学校の校庭の気象箱は、つるが絡まり植物の楽園のようになっていた。唯一変わらないのは、おそらくあちらこちらに存在する神だろう。
数人の若い建築家とその友人たちが、自らの手で、村に木造のトイレを建てたばかりだ。トイレの窓から外を覗くと、長年放置して荒れた土地には、生命力に溢れた野花が咲き、自らの肥沃さをもって人類の遺棄を歓び祝っていた。
ここではあちらこちらに存在する神が、人のいない寂しさを受け入れるだけでなく、また人々が戻ってくることを常に歓迎していた。
6
この道のつきあたりにはお寺があり、道行く人は皆ここでお参りをする。この街の喫茶店で、私は風景を集めている人に出会った。彼はコーヒーに陶酔し、また洞窟探検に陶酔してこう言った。「洞窟の内部は暗くて、人の脳の中のようだ。あまりに静かでまるで子宮の中に戻ったような気分になる。」
静かな洞窟とは逆に、このにぎやかな喫茶店は彼の風景収集の拠点である。喫茶店の窓からは、近所の人たちが翌日のお祭りの準備をしているのが見えた。彼はこう言った。「一人一人が一つの風景なのだ。」
7
あの円形の水田を発明した人が、同様に外来の「Y種米」を教えた。あっという間5年が過ぎていた。久しく住職には出会っていないが、村に住む友人たちには会った。一人は羊の乳のチーズを作っている人、一人は昔ながらの炭焼きを学び味噌を作っている人、そして、もう一人は毎年白馬に乗っていろいろな所に旅に行く人。あと5回、5年間が過ぎれば、友人Yは自分のやり方で土地に対する感情を表現出来るようになるかもしれない。しかし、彼は今すでに、毎年収穫した米を村人と生活用品に交換するという活動をしている。
あの風景収集家と近所の住民が一緒に、いつでも避難できる小屋を建てた。それは我々がかつて過ごしたシンプルな生活を復元している。火と最低限の食べ物と、少しの空間だけがあれば、人はもっと想像力のある生活ができる。
ここに来る前は思いもしなかった。歴史を尋ねているつもりが、私はいつのまにか未来に足を踏み入れていたということに。
[1]《寻隐者不遇》
石与稻
1
总是太晚的到达。
当我到达京都这座园林,园门虚掩着,方丈已经离去,只留下矗立在沙砾之中的一堆乱石,沙砾上还残留着他刚刚梳耙过的痕迹,犹如床单上余留着的爱人身体的印痕。
2
我从一座未来的城市中来,那儿,楼顶、阳台、楼前的空地、街道的两旁,都尽量种上了蔬菜和植物:苦瓜、小黄瓜、蕃茄、青椒、甘蓝、薄荷、柠檬香蜂草、菠菜、香葱、茼蒿、紫苏、洋葱、蒜头、莴苣、萝卜、茄子、茴香。人们像迷上宠物一样迷上了蔬菜。
来到京都,我以为是来寻访历史——时间在这儿盘根错节,犹如眼前的乱石。与方丈或相遇,或失之相臂,全靠因缘。走在禅房四周空寂无人的回廊,不禁回想起贾岛的诗句:
只在此山中,
云深不知处。[1]
3
如果园林本身就是和山水一样广阔的存在的话,那么,方丈也许就在“此山”的某处,宇宙的某个拐角,只是我的肉眼尚未得以辨识这种种相遇的暗示。从遗留的沙砾耙痕和石头的排列中,我分明能够感受到一种内心的躁动,这是和历史上人类所曾经面临的危险相类似的一种躁动——生命攸关,厄运难逃,乱石纷争,暗潮涌动。
在这个宇宙的轶序中,潜伏的乱向以石头不规则的排列呈现出来,卷入世俗纷争的人,会在禅园特有的空间轶序中,体会到能量始乱终弃的结局。权力纷争还会在幽暗的茶室继续,但终将和茶水一样消融到渐渐衰弱的身体中间。
就像这些乱石,曾经暗示着纷争不已的心绪,但对于每个后来者,它们都已然达到了一种奇妙的平衡,你能感受到的是它们在相互影响之中的轻微移动。
我将一颗石头掷向沙砾中,掀起阵阵波纹。
4
朋友Y告诉我说,他有一天在龙安寺,看到众多游人正面对着那十五块石头喋喋不休,仿佛喧哗能掩盖众人内心巨大的不安,这时,夏日最后一抹余光拂过和石头对峙的人们,人们突然安静下来,坐着,仿佛也在慢慢成为石头。
他感到不寒而栗,同时,也得到了解脱,从此,他感到自己随身携带着禅园中的石头。我们身处的时间和芭蕉真的不同吗?依然是危机四伏,灾难重重。似乎是为了逃避,抑或是寻找,从北海道沿着海岸线,他风餐露宿走了一个月,期间精神几近崩溃。在路过一个村时,他看到了一块翠绿的水稻田,它不像一般的稻田是规则的方形,而是以一个点为中心,扩展成一个圆形,中心是一根竖起的木头。
“这块水稻田击中了我。”
一段时间之后,他再次来到村里,寻访那片稻田,却不经意地走进了自己的未来。
5
另一个离京都不远的村子,已经荒废多年,因为持续的人口老龄化,村里已经再也没有年轻人。学校广场上的气象箱成为爬藤植物的乐园,唯一不变的可能是遍地的神祗。
几个年轻的建筑师和他们的朋友们,自己动手,刚刚在村里修建了一个木结构的厕所。从厕所的窗口望出去,可以看到遗弃多年土地上,到处都是生命力充沛的野花,土地以自身的肥沃欢庆着人类的遗弃。
这儿遍地都是神祗,不仅承受无人的寂廖,也随时欢迎人类的回归。
6
这条街的尽头通向某座寺庙,来往的人都会进去祈愿一番。
在这个街区的咖啡店,我找到这个收集风景的人,他醉心于咖啡,也醉心于洞穴探险:“洞穴幽暗的内部,就像人脑内部的空间,它安静得犹如让人回到子宫。”
和幽静的洞穴相反,这个热闹的咖啡店是他的风景收集站,从咖啡店的窗口,可以看到邻居们正在准备第二天的祭祀游行:“每个人都是一道风景。”
7
那个发明了圆形水稻田的人教会了同样是外来人的Y种水稻。不知不觉,五年过去了,虽然没有碰到久违的方丈,他们却碰到了一群驻在村里的朋友:一个在研制羊奶的奶酪,一个在学习古法烧碳和手制味噌,一个每年夏天骑着白马到处云游。也许要等到第五个五年,Y才可能找到他自己的方式来表达他对土地的情感,但至少现在,他每年的水稻收成可以用来和村民交换一些日常用品。
那个收集风景的人和邻居们一起,动手做一种可以随时避难的小屋(Koya),它可以复原我们曾经有过的简单生活:只要有火,基本的食物,一点点空间,人们就可以过更有想象力的生活。
在来到这儿之前,我并没有意识到:我以为我在寻访历史,却不经意走进了未来。
[1]《寻隐者不遇》
フー・ファン
ビタミン・クリエイティヴ・スペース アーティスティック・ディレクター
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1970年、中国生まれ。1992年に武漢大学の中国文学学科を卒業。ビタミン・クリエイティヴ・スペースの創設に参画し、2002年からアーティスティック・ディレクター。広州と北京に在住。小説家、ライターとして『ショッピング・ユートピア』、『センス・トレーニング:理論と実践』、『スペクテーター』などを出版。キュレーターとして中国国内や海外で「スルー・ポピュラー・エクスプレッション」、「ルーズ」、「パーフェクト・ジャーニー」、「マイ・ホーム・イズ・ユア・ミュージアム」、「オブジェクト・システム:ドゥーイング・ナッシング」などの展覧会の企画構成に携わる。2006年から「ドクメンタ12マガジン・プロジェクト」の編集コーディネート、2008年には「横浜トリエンナーレ 2008」のキュレーターを務める。
2013.12.10