僕は建築のいらない世界をずっと夢見てきた。:岡啓輔インタビュー

 
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着工して5年目くらいのある日、きちんとスーツを着た、感じのいいサラリーマン風の人たちが蟻鱒鳶ルにやってきました。不動産会社の部長さんでした。僕に、「このあたりを再開発することになりましたから悪いけど、この建物はつぶさせてもらいます。」と、突然言われたんですね。
寝耳に水でびっくりして「それは困ります。」と言って、いったんは引き取ってもらったんですが、再開発の構想はすでに決定済みのことのようで、動かせない事実でした。
 
困りました。悩んで、悩み続けて、ある日、気が付いたら、円形脱毛症になっていました。
 
仲良くしていた友人がそのころ弁護士になったので、相談したら、「岡さん、再開発で立ち退きを迫られても、法律的には岡さんは守られているので立ち退きしなくてはいけない理由はない。」と、「ただ、このままぼんやりしていたら、必ず岡さんの家は潰される。それは法律では守られているといっても、現実に再開発がおきた場所で小さな家が一軒だけ残ったという事例はないんです。」と。
 
目の前が真っ暗になりました。何か、生き残れる道はないんだろうか?
 
二人で真剣に考えました。
友人は「やるべきことは二つある。一つは、今つくっているこのビルをもっとすごいものとして完成させること。たくさんの人が、これは潰しちゃいかんと思うようなビルをつくること。
もう一つは、がんばって広報活動を続けて蟻鱒鳶ルの存在をたくさんの人に知ってもらうこと、再開発が本格化するまでまだ数年かかるはずなので、まだ望みはある。」とアドバイスしてくれました。
 
僕の文章力のなさは有名で、人からさんざんひどい文章だとか、言われたりもしてたんですが、もうそんなこと気にしてられません。ブログをはじめたり、いろんなところで蟻鱒鳶ルのことを話したり、書いたり、紹介してもらったり、その後の数年間は必死で広報活動をがんばりました。
 
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京都HAPSにて(*6)(2014年3月)

 
テレビ、雑誌、新聞、美術館、おかげで、たくさん取り上げていただくことになり(*7)、最初はどうがんばっても潰すしかないといわれていた蟻鱒鳶ルも、最近では再開発の一画として残すことも可能性としてでてきました。
 
僕は、実は、このタイミングで再開発の問題がおこってよかったなあと思っていて、それは、もし、僕が蟻鱒鳶ルを完成させて、よぼよぼの老人になった頃にこの問題が起きたら、反対する気力もなくすぐにハンコ押してしまったかもしれない。でも今だったら、どうしたら残せるか必死に考えながらつくることができる。
 
僕は今、この建物をつくっている毎日が、それだけでとても楽しいんです。
30代で身体がぼろぼろになって、いろんなことになりながらも、蟻鱒鳶ルをつくり進めていく感じは、毎日がやばいぞという面白さに満ちています。
 
でも、僕だけでなく、どうやったら、他人にも残す価値のある、愛してもらえる場所をつくることができるのかということを最近はずっと考えています。
 
20代のころから毎年通い続けている高山建築学校も、倉田先生が亡くなられた2000年につぶそうという話もありました。でも僕は、かなり駄々をこねて反対しました。
僕はあの場所が大好きだからです、毎年毎年、泥だらけになりながら、建築とは何だろうとか、話したりすることが、僕の中で唯一といっていいほどできる場所で、考え高めあう場所だったからです。
 

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