蟻鱒鳶ル(2016年2月)
買った土地は見つけてから約1年半近く粘って交渉して、ようやく手に入れました。こうして建てる場所ができたわけですが、さっぱり何を建てていいかわからず、結局4年間くらい空き地のままでした。
土地を買ってすぐに友人のマイアミから「岡さん、今度京大の吉田寮でリスペクトしているミュージシャンやアーティストを沢山呼んで『つるのおんがえし』(*4)というイベントをやるんだけど、岡さんにもそこで建築の話をしてほしい。」という依頼がありました。
僕は「いやいやマイアミ、おれは人前で偉そうにしゃべること何にもない。」と逃げたんです。だって、嫁と二人で住める、小さい家をつくればいいという発想くらいしかないから。けれど「岡さん、半年あるからゆっくり考えてよ。」って言われて、そうか、とぶつぶつと考え始めました。
僕が建築にどういう思いをもっているかとか、自分のために何を建築しなきゃならないんだろうかとか、生まれて初めて集中してそういうことを考え始めました。
また、なぜか僕を気にかけてくれる、石山修武さんという早稲田の建築の先生からワークショップ開催のお知らせを受け取りました。土地を買った頃だったので、行ってみるかということで、参加しました。僕をいれて参加者は30人くらい。学生よりは卒業してからも建築に熱い思いを持ち続けている社会人が多かったです。ワークショップの二日目くらいに石山さんが「おまえらの本気でつくりたい建築の絵を描け。」と言われて、僕はまだスコスコの自信壊滅状態だったんですが、同時期関わっていた舞踏とからめて、最初に全体像があるわけでなく、即興で踊りながらつくるみたいな建築の絵を発表しました。そしたら、石山さんに意外にもずいぶんほめていただきました。「いいぞ」と。
二週間のワークショップの間じゅう、期待して指導してくださったんですが、最後に成果物として出した絵が、つまらないものになってしまい、石山さんが「だめだこりゃ。」って「期待してたけど、がっかりした。」と、はっきり言われてしまい、僕は打ち上げで膝を抱えて泣いていました。
ワークショップの間、石山さんと僕の間にはいっていろいろフォローしてくださった東大の難波先生も、最終成果の絵をみて、「岡君、この絵じゃ、駄目だよ。君は一体この二週間何をしてたんだ。」「君がこの二週間、僕たちにわーわー言ってたことは、かなりすばらしいことだったんだよ。まあ、この最終成果も、もしかしたら、建築の雑誌に掲載されることもあるかもしれない。でも、君がブツブツ言ってた問題意識はもっと大きいもので、誰も怖くて手が出せないようなことで、それを偉そうに語っていながら、これはないよなぁ。君は自分が言ってることわかってるの?」と言われました。
僕は、ぼんやり、僕にはそういう部分もあるのか、と発見するような感じでした。
そのワークショップで他に覚えていることは、たとえば、講師の藤森照信さんをうらやましいと思ったこと。藤森さんは「僕が自分の家をつくったときの話をします。」と言ってずっとにやにやして話しておられました。タンポポがかわいいんだと、うれしそうに、まるで初めて彼女ができた青年のような初々しさで二時間くらいぶっ通しで話し続けるんです。それがいいなあと。
また、鈴木博之さんが百何十年前のイギリスの建築家のウィリアム・モリスとその親分みたいな人でラスキンという人がいるという話で、『建築の七灯』という本の紹介と、ジョン・ラスキンのデザインについての話から、「嫌々ながらつくったものは醜い、楽しんでつくったものは美しい。」と言われたことには、えっそんなバカな?そんな簡単な話か?と戸惑いながら、でもやっぱりよくわかると思ったんです。
ずっと建築現場で働いてきて、化学物質使いすぎて、身体をガタガタにしてしまって、そんな環境で作っていて、いい建築ができるはずない。みんな給料のためだけと割り切って働いている。職人さんなんて使い捨てのようになってて、人として扱えてないし。そうだな、いいこと言うなラスキンと思って。よし、この感じでいこうと決心しました。
『つるのおんがえし』から14年後、同じ京大吉田寮食堂(*5)で話す岡さん(2016年7月)
高専で15歳の頃に、ユートピアを想像して、建築はどうなるか、ずっと考え続けていて、最初考え続けた方向がついに駄目になって、こっちか、じゃあ、つくるんだ、と思って、恥ずかしいけど、恥ずかしくてもなんでもつくるしかない、自信がないとか言ってちゃいけないと、つくることを曝そうと決めました。ようやく、それでいくぞと。
そのくらいがやっと揃ったんです。蟻鱒鳶ル着工の頃に。
2005年、僕は40歳でした。