NICK TRAUFとは誰か
アートって、何だい? 俺わかんないね。っていうか、背負ってるものが多すぎやしないか?
もう、象牙の塔をピカピカに磨き上げることには疲れたよ。いちど創造性をプライマリーな状態に戻してみないか?「人間は遊びのなかで真に人間である」って、昔の人はいいこと言ってるじゃない。人間、遊び心がなくなったらおしまいだよ。
でも、やんちゃするのはいいけど、自分のケツは自分で拭けよな。
-NICK TRAUF,1970
これは、本展での広報コピーに使用されている”NICK TRAUF”という人物の言葉である。NICK TRAUFとは誰だろうか。googleで検索しても、何も出てこない。キュレーター・森山貴之のtwitterを覗き見ると、こう呟かれていた。
「NICK TRAUFはアナグラム」
アナグラムとは文字を入れ替えて変名やジョークに使ったりする遊びである。そしてアナグラムを表現に用いる場合、多くは皮肉や作者の本音、そういうものが隠されていることが多い。つまり森山は暗にほのめかしているのだ。「NICK TRAUF、その名前にキュレーターの意図が含まれている」と。
NICK TRAUFとは何を意味するのだろうか?
アナグラムを解いてみる。まず、文字を母音I,A,Uと子音N,C,K,T,R,Fに分ける。母音が少ないので、これは日本語ではないのだろう。そして色々試行錯誤したあと、以下の2単語が出来た。もちろん、アナグラムは多数の回答があるのでこれが正答とは断言できない。
FUCKIN ART
FUCKINには色々な意味があるが、日常的な口語では日本語の「ヤバイ」と同じように、感嘆を意味する。最大の否定、または最大の賛辞だ。森山はこの2つの意味を同時に使用したと考えられる。”アート”という小さな枠組みに最大の否定を表明し、同時に人間の営みである”アート”に最大の賛辞を表明する。この変名の綴りは、森山が”NICK TRAUF”という仮面を被って吐露する、芸術への愛の告白なのである。
これまで我々観客はキュレーターの立場についてあまり考えてこなかった。それが「展覧会」のなかでは上位の存在だからだ。キュレーターに見向きもされなかった作家は消えていき、キュレーターが紹介する作品はその展示場所が権威に近いほど、観客はそれが正義であるかのように感じてしまう。
森山はその「選ぶ」ことの暴力性について内省しつつ、それでも戦い続ける-自ら”ケツを拭く”ことを決意したのだろう。それはアートへの愛の困難さを作家とともに引き受けるということだ。
さて、NICK TRAUFとは誰か?その謎は私のなかで一旦の解決をした。
そのあと、関連イベントに1番乗りで予約を入れた。「闇投」と題された、展示空間で観客がパイ投げをする中で展示作家がさまざまな方法でそのゲームに介入し、その様子が展示内容に組み込まれるというイベントである。
会場に赴き、ドラムの音と光、カメラのフラッシュの中で他の観客たちと共に生クリームをぶつけ合った。そのあと生クリームを体中に付けたまま街を歩き、他人と一緒に銭湯に入った。湯上がりに風に当たりながらもう一度展示会場に戻り、個々の作家の作品を鑑賞する。キュレーターと作家の信頼関係の中で引き出された、思い切りのよい表現を味わった。
我々はいつも孤独であり孤独なまま死んでいくが、何かを共有することはできる。生きることそのものが、闇のなかでもがくようなものだ。「闇投」を記録した作家たちのカメラには、きっと笑いとも威嚇ともとれない複雑な表情のクリームまみれの顔がたくさん記録されているだろう。それは私が作家たちと彼らの作品、そしてキュレーターのNICK TRAUF、森山貴之とたしかに何かを共有できた証拠になっているはずだ。