「溶ける魚―つづきの現実」展・展覧会レビュー
アンドレ・ブルトンの著作である「溶ける魚」というタイトルが示す通り、本展のテーマはシュルレアリスムである。だが本展の出品作家には、シュルレアリスムを念頭に置いて制作する作家はいないという。加えて、出品された作品はメディウムやモチーフが様々であるため、全体を貫くテーマを感じられず、逆に混沌とした印象すら受ける。では本展のどこに、シュルレアリスム的要素を見いだすことができるのか。その答えの鍵は、全作品に共通した二つの特徴に端的に表れている。
一点目は、作品にキャプションが付いていない点である。この行為は、キャプションを付記することで鑑賞者に理性的鑑賞を要求する、昨今の現代美術とは異なる様相を示す。しかし展覧会からキャプションを外した目的は、理性でなく感覚を用いて作品と対峙してほしいという作家の意図だと考えられないだろうか。たとえば荒木由香里の作品を前にした時、鑑賞者は、通常の用途から切り離された日用品がなぜこんな造形のオブジェと化したのか、という答えのない問いを明らかにしたい欲求に駆られるだろう。この体験は、感覚を用いることで従来とは違う世界の見方が可能になることを鑑賞者に示唆する。
二点目は、作品が社会批判性を持たない点が挙げられる。現代美術における約束事と目される社会批判性を持たないことは一見、時代錯誤に思える。だがこの約束事をあえて破ることで、作品は鑑賞者の想像力を喚起する。それによって作品は、作品/作家の持つメッセージではなく、鑑賞者が作品を前にして抱くイメージへと鑑賞者の意識を誘導することに成功する。つまり本展における主役は作品/作家でなく、イメージを抱く鑑賞者なのだ。
ブルトンは「世界の新しい役割や意味を見出す」ことを、作家側に求めた。しかし本展ではその対象が鑑賞者へと更新されたように見える。この点で本展は、シュルレアリスムの「つづき」を鑑賞者に提示したと言えるだろう。