Exhibition Review

2013.02.04

京芸Transmit Program#3 「Mètis -戦う美術-」

伊東 宣明、中田 有美、佐藤 雅晴、ヒョンギョン、Weast、高須 健市

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA

2012年4月7日(土) - 2012年5月20日(日)

レビュアー:髙嶋慈




存在理由(レゾンデートル)の再確認

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「日々の営みを意義あるアクションに変えてゆく」ための「戦術(Mètis)」をテーマに掲げ、若手作家6名(組)を紹介した展覧会。おそらくこのテーマの中心的位置に想定されているのは、2人組のアーティスト・ユニットWeastだが、作家同士、さらには観客も巻き込んだ何気ない行為やモノの交換といった彼らのアプローチには目新しさはなく、ユルく弛緩した遊戯にすぎず、価値観の転換に至る強度を持ち合わせていない。
むしろ、批評性を持ち得ていたのは、大衆社会で流通するイメージを通して社会批判を行っている、高須健市と佐藤雅晴である。まず高須は、グラビアアイドルの写真から胸部と臀部、陰部を破り取るという行為によって、性的対象として記号化された身体とその消費価値を無効化させてしまう。また佐藤は、コンピューターに取り込んだ写真画像の上からデジタル技術で描画し、アニメーションを制作するというハイブリッドな手法を用いることで、写真/絵画/映像が重層的に重なり合った領域を出現させ、極めて精細であるにも関わらず、現実ともバーチャルともつかない浮遊感のあるイメージを生み出している。

出品作の《バインドドライブ》では、カーステレオから流れる演歌を背景に、無人の郊外や田園風景に雨が降る情景が淡々と映し出される。うらさびれた風情とどこか不条理な雰囲気をたたえた光景は、最終的に、演歌の歌詞を口ずさみながら、互いの絆と愛を歌い上げる車内の男(悪魔)と女(天使)の姿に収束していく。無人になった郊外の住宅地は、住民が避難した後の原発周辺地域の光景を否応なしに想起させ、そこに降り続ける雨は「黒い雨」を暗示し、さらに車内の女性が「妊娠」した姿で描かれていることも示唆的である。ここでは、演歌やカラオケ、アニメといった日本的でヴァナキュラーな要素を用いて、原発事故による放射能汚染からの避難行さえ「男女の愛の逃避行」として描くことで、震災以降の日本社会が批判でも怒りでもなく、奇妙なねじれとして描き出されている。

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一方、絵画をインスタレーション空間に取り込みながら、内面に鬱屈した負の感情や暴力性を表出させ、生と死、神話的世界観を絵画化しているのが、ヒョンギョンと中田有美である。韓国出身のヒョンギョンは、有刺鉄線の張り巡らされた空間の中、仮面やドクロといった虚構性や死を連想させるモチーフを、絵画や立体で表現している。またラメやデコ電といったキラキラ輝く装飾的な要素を併用することで、消費社会の表層性が示唆される。何層も重ねた布を溶かして削る工程によって、作品の表面は無数の傷や皺が刻まれた皮膚を思わせ、触覚性を獲得する。彼女のインスタレーションは、極彩色の祝祭性の中に、現代社会のポップさや暴力性、色使いに見られる韓国の伝統的要素、美的な快楽と毒が入り混じる空間となっている。

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また中田有美の作品は、三つ編みのおさげやリボンといった記号化された少女性、漫画の吹きだしを思わせる形、ボールペンを用いた緻密な描き込みの線、抽象的な色面、さらにはラメを用いたキラキラ輝く表面、といった複数の要素を一つの画面内に組み込むことで、有機的に生成・増殖していく建築物のような造形を構築している。また、丸い円の形が穴のようにも泉や鏡、卵にも見えるように、シンプルであるがゆえに象徴性をもつ形態を用いることで、多義的に読み込める画面となっている。出品作《ヴィデオは笑う》では、鮮烈な赤を主軸に用い、祭壇のように構成することで、生命の誕生と死、生け贄、その再生のための儀式について語っているような、おぞましくも美しい神話的な物語世界へと見る者を誘い込む。

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最後に紹介する伊東宣明は、自らの身体をメディアに用いた映像やインスタレーション作品において、生と死、身体や記憶といったテーマを扱う作家である。出品作《生きている/生きていない》では、上半身裸の作家自身が、自分の心臓の鼓動を聴診器で聞きながら、鼓動のリズムに合わせて肉の塊を叩き続ける様子が映し出される。その反復的行為は、自らの生の証である心臓の鼓動を、死んだ肉塊に移植し、蘇生させようとしているかのようだ。過去の作品《死者/生者》において伊東は、生前の祖母が思い出を語る映像と、伊東自身がそれを語り直す映像を対置させることで、祖母の記憶を自らの身体の中に内在化させ共有しようとする試みを行っているが、本作においてもまた、声や鼓動といった自らの身体を媒介に用いることで、生と死、自己と他者といった、意思の伝達や往還が不可能な(と普通は思われる)二者の間の溝を、それでも越えようとするような意思の力を感じさせ、見る者を打つ。自らの鼓動=内面の声に一心に耳を傾け、肉を叩くことでその音を伝えようとする行為はまた、(届くかどうかも定かでないのに)社会に向けて内なる心音=メッセージを発し続ける作家という存在の比喩をも思わせる。
その様子は、ポストモダン以降の美術が、自己言及性や自律性の圏外へ出たことの代償として、「戦う」意味―美術の制度への批判、ジェンダーや民族性といった問題、社会批判など―を絶えず充填し続けなければ、その存在意義を証明することができなくなったことを示唆している。社会に対するアートの存在意義として、批評性を手放さず、オルタナティブな価値観の提示を行えるかどうかが賭けられているのだ。本展における多様な試みは、そのことを再確認する機会となった。

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□画像1 高須健市《※/*》2012年 グラビア、ビニールシート インスタレーション
□画像2 佐藤雅晴《バインドドライブ》(「取手エレジー」より)2011年 映像作品
□画像3 佐藤雅晴《バインドドライブ》(「取手エレジー」より)2011年 映像作品
□画像4 佐藤雅晴《バインドドライブ》(「取手エレジー」より)2011年 映像作品
□画像5 ヒョンギョン《はざまで》2012年 ミクストメディア/インスタレーション
□画像6 中田有美《ぱらいそ》2011年 キャンバスにラメ、ジェッソ、アクリル、ボールペン 布部分:ポリエステルボイル、染料、糸
□画像7 中田有美《ヴィデオは笑う》2012年 キャンバスにラメ、ジェッソ、アクリル、ボールペン
□画像8 伊東宣明《生きている/生きていない》2012年 映像作品

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