水盤を満たした水が不穏な波音を響かせ、赤く渦巻きながら中央の奈落へ収斂していく…
その様子は永遠に花ひらく花弁とも、あるいは内視鏡が映し出す我々の体内とも見えて、既に充分なメタファーを湛えている。室内に配された複数のモニターからは、朗読する少女の声が響き続ける。
…あれはおそろしい男でな、子供たちがお寝んねしねえで駄々をこねていると、
そこへやってきて目ン玉のなかさ人間の子供の目ン玉を突っつくだ。
そうして目ン玉が血だらけになってギョロリととび出すと…
赤い奔流は流れを速め、突如として白く発光する。赤い闇の世界から白い光の中へ放り出された我々は、光と闇の水際に佇んでいる。光と闇、可視と不可視、生と死との境界線。作家は、この境界線を我々の前に現出することで、そこに立ち上がる「気配」に言及する。
赤と白の世界から一転、黄と黒を背景にヴィヴィッドな印象を放つ、もうひとつのヴィデオ・インスタレーションは、「両義足の女性作家」片山真理とのコラボレーションである。義足から「道具」、その使用者へと言及する片山の写真作品を原案に、小谷は複数の義手・義足がバタバタと音をたてながら上下し旋回しつづける中に、片山を「配置」する。「義足の部品一つでも無くなったら歩く事が」できない片山が、機能を剥奪されたまま動き続ける「道具」のただ中に腰掛け、時にはカツラやマスク(面)を着脱することによって、道具と使用者、モノとヒトとの境界は曖昧にぼかされてしまう。
しかし、視界を阻む霧に気づいてこそ確かな標を見失うまいと目を凝らすがごとく、我々はその曖昧になった境界について再考し、いまや拡張された身体の、その先の「痛点」を感覚するよう促されるのである。そして、その感覚点はもはや「私」を超えた「我々」の中に見いだされるべきなのかもしれない。