しんぞうの作品はひどく衝動的で生々しい。幼少期より他者との関係の中で自分を表現することに葛藤し、悩み苦しんでいた彼女は、描くことでそれらを解決していったという。
彼女の作品は一見すると、自傷的かつ閉鎖的な作品のように思える。しかし、単なるエゴイスティックな自己の証明として終わるのではなく、明らかな他者意識の介在が見られる所が面白いところだ。
作品の中で見られる、全体的にグレイがかった不穏な色彩の「にごり」は輪郭線によって不自然なまでに荒々しくかたどられている。輪郭線はとぎれとぎれの状態であり、今にもそのにごりがキャンバスの空白の部分にまで零れ落ちてしまいそうなほどだ。にごりは感情の重なり合いが生んだ生々しい混沌である。
作品のコンテンツは極端に少なく、空白が目立つ画面構成である。しかし、彼女は空白を無ではなく他者として意味づけし描いている。自己という存在を、意識的に輪郭線内に収める行為によって出来た必然的な空白からは、同時に他者意識が強制的ににじみ出ることになるのだ。
混沌の必然として空白が生まれてしまっている。
つまり絶対的自己と絶対的他者の両極端がキャンバス上に描かれているのだが、後者を空白の圧力としてとらえている所が見ごたえがある。
空白に見ごたえがあるというのは、非常におかしい事だが結果的にそうなってしまっているのだ。
おそらく色彩は混じり続け、にごりは徐々に彩度を失い漆黒へと向かっていく。だが、一度生まれた関係性はそう簡単には消えないだろう。
しんぞうの個展を見終わった直後に、アール・ブリュットの展覧会を見たのだが、そこにあったほとんどの絵画は画面いっぱいに隙間なく色彩がばらまかれていた。
アール・ブリュットから他者性を否定するつもりは毛頭ないが、そのあまりの対極さに単純に驚いたのだった。
二つの展覧会を立て続けに見て、我々は在りもしない他者に怯えてはいないかと考えた一日だった。