「田中和人作品の正体」
田中和人の展覧会、もしくは彼が企画する展覧会を訪れると、いつもステートメントや作品解説がしっかりと置かれている。10を越える作品シリーズから構成された今回の展覧会に於いても、それぞれのシリーズに対する作品解説、そしてシリーズ同士がどのような関係で成り立っているのかという相関図まで記載されたハンドアウトが配られていた。けれどもいざ鑑賞をはじめると、この解説が丁寧なものに見えて、かなり不十分なことがわかる。それは作品において、または展示において彼が語っていないことがあまりも多すぎるからだ。
端的に言って、彼の手による作品解説は、作品の「自動化」された部分に留まっている。例えば作品『blocks』に対して田中は「街のスナップ写真から風景の構成要素を抜き出し、おもちゃの積み木で再現したものをフォーカスをぼかして撮影した作品」という解説文を添えている。言葉にすると一文であるが、この文からはいくつもの作品完成図を予想することができる。どこの街なのか、昼なのか夜なのか、モチーフとの距離は、どこまでを構成要素とし、積み木でどこまで再現するのか、フォーカスはどれぐらいぼかすのか等々、一つのキーワードの中にまだ無限の選択肢が残っている。
他の解説も「動物園で撮影した動物等の写真を、コンピューターでモザイク状に加工したものを再構成し、自然光の下で再撮影した作品」(『Zoo』)や、「日常のスナップショット写真をインクジェットプリンターで乾かない状態でプリントアウトしたものを、手や絵筆でフィジカルに抽象化し、それを様々な光の環境下で再撮影した作品」(『high & dry』)といった感じである。
しかし私達が興味を持つのは、そこに何が写っているかではなく、この美しい画面をつくるために作家がどのような方法でもって無限の選択肢に立ち向かっているのかという点なのである。画面の中を彩るアナログなエフェクトとデジタルなエフェクト、画面の外を彩るプリントや額装といったアレンジメント、そして特徴的なインスタレーションは一体どのように決定されているのだろうか?
では作品の解説が不要かと問われると、それは決してそうではない。作家による大きな解説があるからこそ、私たちは安心して言葉にできないほど繊細なデティールに、私の感性でもって目を向けることができるのもまた事実である。
けれどもここで一つ大きな問題がある。田中はそもそもはじめから何か具体的な解説を行ったのであろうか。田中和人を紹介するときに使われる常套句である「絵画と写真の領域を横断し具象と抽象の境界を探求する」というフレーズに対しても、私は何も説明されていないような手応えのなさを感じてしまう。今の時代、写真のデジタル化に伴って写真はもはや加筆修整が容易なメディア、つまり旧来の「写真」ではなくなってしまっているし、具象と抽象という問題にしてもそれはその物が置かれる状況、見る人の感覚によってどのようにでも変化するだろう。
つまり田中の作品を鑑賞するとき、例えるならば鑑賞者は途中で梯子を外されるのだ。作家の言葉を頼りに登り始めたが最後、目的地というのは幻想で、かといってもはや地上に戻ることもできない。私達は目的地を輝かせていた「演出効果」だけが存在する無限の空間に取り残されることになる。この「演出」=ディレクションこそが田中の作品と見るならば、田中が作品同様、展覧会の企画を手がけるのも頷ける。
田中は既存の「具象と抽象の関係」を餌に、私達をエフェクトという「演出」しか存在しない「新しい抽象」の世界に連れ込むのである。