同じ展覧会を私より先に見ていた友人が「甲斐庄楠音の絵がこんなに出ることは滅多にないらしいから見た方がいい。この人は溝口健二の映画の衣装なんかもやっている日本画家なんだけど、オカマちゃんで、最後はトラック運転手の男の腕に抱かれて死んだらしい。ドラマチックすぎる。」と言っていた。甲斐庄楠音(カイノショウ タダオト)は、ホラー小説の表紙にも起用されてことのあるおどろおどろしい、それでいて迫力のある美人画を多く描いた日本画家である。この時期、京都国立近代美術館では「FUTURE BEAUTY 日本ファッション:不連続の連続」と「チェコの映画ポスター」という特別展を2本同時開催しており、おまけにコレクション展「2014(平成26)年度 第1回コレクション・ギャラリー」で甲斐庄作品が大量放出さてれいるときた。私にしてみれば、どれも“ついで”ではなく、わざわざ見に行きたいと思える展示だった。
さて、展覧会のレビューというのは、展示全体や作品の感想・好み・良し悪しなどについて書くものかなと思っていたのだが、展示や作品の記憶を遡ったりしているうちに、やはり記憶に色濃く残っているのは甲斐庄の作品群であることに気付く。そこでふと思ったのは、作品を見る際の“前情報”の有無について。私は、もし友人の感想を聞かずに展覧会に行っていたら、こんなにも甲斐庄の作品のことを面白いと思えただろうか。おそらく否である。丁度この展示を見る少し前に、現代アーティストのトークでそういった話を聞いたところでもあった。作品に出会う前に何らかの情報を持っていたら、情報を持たずに出会うのとはきっと違う感覚を得るだろう、と。もちろん、そんなことは答えのない問いであって、実際に何らかの情報を持っている状態で出会ったものに対して、情報を持たずに改めて出会うことは不可能である。しかし、いかなる時代でも、どんな芸術ジャンルでも、同じ問いを投げかけることができると、今回強く実感した。私は、確かに「マルチクリエイターでドラマチックなオカマさん」の作品として甲斐庄の絵画を見て、印象深いと感じた。その後、甲斐庄のことが気になって、今回見た中に無かった作品の図版を探したり、人物像について書かれたものを探したり、インターネットで分かる範囲のことだけだが、色々と調べてみた。すると、ますます興味が沸いた。
この“前情報”の有無について、先に挙げたトークを行っていた現代アーティストは「観客自身が“前情報”を持っていないことに気付く、“前情報”を持っていないことで不安になったり感動したりする作品」というのを意識していると話していて、展示や作品という概念への挑戦であると感じ好感を持ったが、同時に今回の甲斐庄(甲斐庄の作品)に対する私のように“前情報”が作品の評価や解釈に影響を及ぼすことも決して悪いことではないと思った。自分の中にある様々な偏見や固定概念に気付かされるという意味でも、興味深い。だが、甲斐庄のことを調べていると、国画創作協会の第5回展に出品した『女と風船』が、会を主宰していた土田麦僊によって“穢い絵”だとして出品を拒否されたという記述が度々出てくる。それが、土田麦僊が以前から耳にしていた甲斐庄の男色や女装癖を嫌っていたことが影響していたとも。こういったことに思考を巡らせるキッカケをくれた芸術家に、そんな過去があったなんて、甲斐庄楠音という人間はつくづく“前情報”問題に振り回される運命を辿ったのではないだろうか。