京都市立芸術大学の移転先地域である元崇仁小学校が展示場所として使われはじめていた数年前、校舎に入って感じられたことは、美術家がもともとは無関係な他者として”場”に分け入ることに際しての繊細さと慎重さだった。
小学校の備品ひとつひとつが、亡くなった遺族の部屋のように触れてはいけないようなものとしてある中で、それでも作品をあえて置くということに対する怖さのようなものがそこにはまとわりついていて(私が観てきた展示会場はそもそもからしてスキーマ計画者の長坂氏によって手がくわえられたものだったが)崇仁で展示をする皆が皆それに敏感なわけではなかったが、崇仁で展示を観るとき”場”と”ヒト(モノ)”との関係のなかで美術家がどういう態度を示しているかということは常に評価軸としてあった。
しかし校舎の利用が繰り返され、地域との関わりも長くなってきた本年度の公開にあたっては、そうした関係に対する多感さは薄らいだように見える。
なにか、場への憑きものの落ちたような感じを受けたのは、校舎に入ったときに、その場所に際しての所作よりも先に、アーティストによる純粋に実験的な精神が感じられたからだと思う。ただそれはあまりポジティブな印象ではなかった。
高橋先生らによって大穴を開けられた教室の床も、崇仁地区での町歩きワークショップの記録を竹(沓掛の裏の竹林の見立てだろうか)やネオンサイン、ワークショップに利用された荷台付きの自転車などと一緒に提示したインスタレーションにしても、正直言って先生方による自由研究のように映ってしまった。
金氏ゼミのフロー&ストックも、体育館や鴨川で行われていたイベントも、そのほか構想設計専攻や芸術学学科などの先生達、大学院生による試みのほとんどが似たような印象だった。展示物は造形的に作品のていをなしておらず、「展覧会」として一見すると、受け手としてはほとんど何も伝わってこない。会期中断続的に行われていたイベント自体を目撃しないことには(あるいは目撃したとしても?)、ただ不完全な行為の痕跡と記録の提示があるばかりだ。
「鑑賞者」としては、まるでそこが小学校で”あった”ことから寂れた廃スペース”である”ことに主眼が移ったかのように活用の態度自体が数年前と全く違っていたことも少しショックだったし、展示自体も他人にみせるものとしてこの解像度で本当によいのかわからなかった。だがそれは、あくまでもこれを「展覧会」として観た場合のはなしだ。
テキストからもう一度この展示/提示を考え直してみると、「Still Moving2017:距離へのパトス――far away/so close」は、始めと終わりのあるように見えてしまう「展覧会」ではなく、日々続いている活動をイベント形式で一般公開する期間」だと位置づけられている。
なるほど、これはそもそも「展覧会」ではないのだ。またそれがこれからも日々続いていく活動の過程であるなら、この”公開”をいま評価することなど出来ないのかもしれない。なぜならこれらの活動は未来に向かって投企されているのであって、いまここでそれを観ている現在の受け手に向けられたものではないからだ。(ここでもし現在に向けられたものがあるとすれば、それは実際にそこで積極的に何かをやっていくひとたち自身にとってだろう。)
しかし、たとえそうだとしても”公開”行為が先生達のラボのように見えてしまっていいのか、という余念は残る。
もし崇仁小学校が、”場”の力によって縛られた窮屈な空間ではなく、移転という長いスパンで起きる変化の隙間に生じたデットタームとして、学生や先生達が好奇心にしたがって自由に思考できる場であるべきなら、いやそうであるからこそ、現状の校舎の扱われ方についてはもうすこし考えられるところがあるように思う。
それは多分、移転後の校舎になんてなんの関わりもないかもしれない、ぼくら学生自身の話だろうけれど。