Exhibition Review

2023.11.04

KCUA OPEN CALL EXHIBITIONS "Positionalities"

金光男、東恩納裕一、山田周平

京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA @KCUA 1

2022年7月30日(土) - 2022年8月28日(日)

レビュアー:山田章博 (63歳) ask me!cafe京都(COVID19休業中)店主


 

トークイベント
2022年8月6日(土) 17:30–19:00
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA@KCUA 1
出演:山本浩貴(本展キュレーター)
   東恩納裕一、山田周平、金光男(本展出品作家)
ゲスト:寺本健一、島林秀行

「ここでの展示で、これほど色のない、モノクロな空間は、初めてです。こうなったのは、たまたまですか?それとも議論の末の合意でしょうか?」私はそう尋ねた。答えは「特に議論はしていません、たまたまです」(トークイベント末尾での私の質問と、登壇者の答え)。

そうなのだ。たまたま、なぜか、白黒な空間がここにある。
色彩という現象は、私達にとって、とても豊かな情報を与えてくれるが、一方で、よく考えてみれば、色覚に何らかの障害のある人にとっては、明らかに、受容におけるハンディキャップを強いられる。光には強度と波長という情報があり、それらをどのように視覚経験として受容するかは、大きな個人差があるだろう。私はこれまで白黒二値やグレースケールは、ある種のノスタルジアの表現や、ストイックなクールさを強調する手法だと、何となく思ってきたが、三人の作家が偶然にも、ほとんど色のない作品を揃えてきたところに、まず、ある符合を感じ取る。

それぞれの作品とその配列を概観する。場所は@KCUAの一階メインギャラリー。正面玄関からまっすぐ正面にある幅約10m、奥行き約25mの白い直方体。入口すぐ奥に、いつものように壁が立ち、奥は見通せない。

東恩納裕一(以下、Hy)の作品。
入口を入る前から、正面の壁の前に、液晶モニタやCRTディスプレイが乱雑に置かれ、似たような映像が動き、ドローン的な音響が抑制的に流れる。映像は典型的なダイニングテーブルチェアのシルエット。それが様々な視点角度で回転する(H1:The Little Match Girl)。壁を右から回り込むと、厚みのある壁の室内側に、大きな布が数枚、壁の天辺から床にかけて、内側壁面を撫でるように垂れ下がる。色は白、グレー、黒、ベージュ(ここにだけ有彩色がある)(H3:dust cover)。壁を回り込み、部屋に入ると、壁の中央に、蛍光灯型LED多数を組み合わせたオブジェ(H2:fallen chandelier)。部屋の中央の天井から、ミラーシルヴァーの巨大なキャンディーがぶら下がり、回転している(H4:キャンディー)。部屋の奥の壁に3作品。左に、カーテンの様な襞(ひだ)の陰影がプリントされた布がガラスで板に密着し、縁の布がはみ出している(H5:drape)。真ん中には、直管蛍光灯型LED10本ほどが縦ストライプ状に壁に立てかけられ、ランプの手前側はそれぞれ金属板で遮光されている(H6:stripes)。右には木枠にグレーの横ストライプの布が張られ、そこにフェルトの英文字が待針で止められている。アンデルセンの「マッチ売りの少女」からの一節。
「刻々と陽は暮れる。少女は家には帰りたくない。何も売れていなくては、父は打つから。小さな火はやがて大きな火炎となる。壁が透けて見える。木に掛かった人形たちがこちらをじっと見ている」

山田周平(Ys)の作品。
部屋の左側の壁。手前から奥に、畳一畳より大きなキャンバスが10枚。縦置きで、間隔は一定せず、中の一枚は床に置かれている。キャンバスには大きな「Ha」の文字が、二種類のフォントで、前後にずれながら重なり合ってプリントされている。文字は所々でジャミングのように乱れる(Y1-Y10:both #11)。

金光男(Km)の作品。
部屋の右側の壁。手前から奥に、畳一畳より大きなキャンバスが10枚。縦置きで、間隔は無く、密着して。キャンバスの表面は蝋(パラフィン)で薄く覆われ、その上にシルクスクリーンで金網フェンスに画像。さらに各右半には黒のオーヴァーペイント。ほぼ目の高さに10枚を横切って画像を乱す筋が揺らぎながら通り、各パネルの画像も不規則に乱れている。プリント後に蝋を熱で溶かした痕跡である(K1:チキン。タブレット。シャンパン。上海。ゴールド。東芝。永遠。市長。スピード。コード。)

展覧会全体は、山本浩貴のキュレーションで「Positionalities」と名付けられている。会場の構成は4者共同で作成した企画設計をもとに現場で調整したと言う。出展作品はそれぞれの作家に委ねられたが、YsとKmは事前に相談し、Hyの作品を迎え入れる「回廊」を作ろうと意図したらしい。
Positionalities。それぞれの立ち位置。立場。位置取り。

Hyは「不気味さ」「居心地悪さ」を鍵にする。身の回りにある、当たり前とされていることの、意味のわからなさ。それがダイニングテーブルセット、リング(サークライン)型蛍光灯、マッチ売りの少女(の物語の原作の意図とは異なる美化)を取り上げさせる。

Kmは、大阪の淀川べりを酔って歩いて見て撮った「金網フェンス」や護岸ブロックの単調な連続を鍵に、繰り返しと連続の異様さ、フェンスの向こうに隔てられた風景との距離、そしてパラフィンと熱による反復への介入と差異、変形。

Ysは、ロンドン滞在中に突然襲われた一時的な失語症。ルームメイトが言う「あなたの発話は、笑ってるみたいね」から、Haの文字を連続させ、変形し、重ね合わせる。

それぞれの作品の発生の出発点にあったこれらの「異常」「違和」。こうした事態は、私の日常生活の中にも、たくさんある。きっと、だれにでも、ある。しかし、それを何かの「かたち」にすることは、あまりない。それを「かたち」にしたとき、発生するのが、現代のアートだったりする。何を感じ取り、どう「かたち」にするか?それには無限のヴァリエーションがあり、あるものはアートになり、あるものはならない。それは複雑怪奇な「アートワールド」が決めることだ。

でも、少なくとも、当たり前のように生きているこの場所と時間、社会と身体を、とりあえず「当たり前」とは思わず、「何だこれは?!」と問いかけるところにしか、多分、現代のアートは発生しない。そして今回の三人は確かにそれを感じたし、それを「かたち」にした。

この展覧会の紹介文に、この作家たちと作品群を「ソーシャリーエンゲージドアート」「アートアクティヴィズム」に結びつける語句があるが、これらがそうなら、全てのアート、いや、すべての行為はそうだろう。何か、作家と作品群を括り、称揚するキャッチフレーズが必要だったのだろうと想像しておこう。

私達が受け止めるべきものは、そうした概念化(他には、ミニマルとかコンセプチュアルとか)や時流化ではないはずだ。でもこれは公式には言いづらい。企画書を書き、審査を通し、展覧会を実現するという目的のためには必要な「方便」なのかも知れない。しかし、これは是非とも考え直してほしい。こうしたキャッチフレーズを付けることで、作品の意味や価値が決定的に誤読されてしまう危険性がある。

この展覧会が、この場所で実現されたことは、とても嬉しい。でも、これを見る、感じ取る人には、キャッチフレーズに流されず、作品そのものを見ることを強く願う。ありがとう。

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