映画館を出た瞬間よりも、数日経ったあとの方が、酔いが回ってくような映画は、日常生活の中でその映画のことがちょっと気になり、酔いが押し寄せてくると、バス酔いをした時のように目の前の用事を置き去りに、意識が映画の残像に振り回され、場面や物語に耽ったりする。『眠る虫』という映画はそんな映画だ。感覚、仕草、言葉、物、風景。もしくは、幽霊、バス、孫、スリッパ、石、虫、塩。繰り返し押し寄せ、記憶の断片になり、頭の中に現れて消える。時間が整理するはずの物語の意味が、膨らんだり抽象化されたりしていて、並ばない。それで何日も掛けて映画に酔ったような気分が続く。
『眠る虫』のキーワードはいくつかあり、前提である映画、映像はもちろん、音楽、さらに日常のフィールドレコーディングの再構成を試みること、それから座席という場所を意識した現代美術の要素のある仕掛け、それらが重なり、また最初の前提に戻り、映画の物語のあわいをみせる作品になっている。
「この映画はバスに乗ったことがある人に観てもらいたかった」。映画の告知文や舞台挨拶のこの言葉は、実際に映画を見ている映画館の座席を、劇中に出てくるバスの座席に見立てていく。この映画は、配信やディスク化を一切予定していない。どこでも映像作品を観る事が可能な、配信の溢れるコロナ禍を経た今となれば、映画館のみという上映方法の限定は、それだけでも手法的に珍しく、捻くれて衒っているようだが、しかし、この映画において、上映方法の限定の意味は、それだけではなくて、映画館の自分が座っている座席が劇中のバスの座席が重なることで、そこに座っている人、誰もがだいたい普通に経験したことのあるはずの、「バスに乗ったことのある人」という、普段気に留めない日常の当たり前の行為を特別なことにしてしまう。
映画館は数え切れない程の映画が上映された場所で、過去にたくさんの知らない誰かが座り、映画をみて、考え、同じように未来にも、たくさんの人の時間の流れが重なっていく。その知らない誰かはもう死んでいるかもしれない。いくつも時間の流れを、場所は上に積み上げて重ねていく。
映画館の座席の仕掛けのように、この映画には日常の当たり前を、特別にしていく様々な仕掛けが用意されていて、それは自分が、あるいは誰かがよく知っている、ありのままの尊い日常ではなく、日常のはずなのになのに、誰も知らない日常である。体験というには大げさな、日常のさりげない行為が、映画により意味付けを増殖させていく。
バスの出てくる映画に、ジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』という作品がある。主人公がバスの運転手を仕事にしながら、趣味として詩を書いているという話。『パターソン』も日常と物語の間を楽しむような映画だが、運転手のバスの座席が先頭の1席のように、物語の時間の進行方向は主人公を軸とした視点を持つ直線である。一方で『眠る虫』は、バスの客席が交換可能な複数の場所であるように、登場するものたちの時間はそれぞれの人物の持つ妙な理屈を持って重なりあう。それは、者(人)でもあるし、者でない物でもある。それらを空を飛ぶ鳥が地面を俯瞰するように、鑑賞者は映画館の座席から映画の中を覗く。物語を作ることは考えることに等しいのではないか。物語の作り方とは、別のものを捉えて、把握(理解)して、繋げて、(自分を含めた)人に対して提示する。作品がそれらの物語を1つに包む。『眠る虫』には、物語上の細かい設定が本来多く含まれているが、それらを言葉で説明せずに映像や音の作品にするため、鑑賞者は俯瞰している気分になる。空を飛ぶ鳥が地上を見た時のように、映画全体が航空写真で眺めたような地図になる。人が暮らす家の屋根が青色になり、虫が隠れた森が緑になり、石が落ちている道路が灰色になるように、抽象化された鮮やかな色が物語の余白になって、作品を見た人が、その余白を自分が捉えた映像や音や言葉を頼りに、自分自身の頭で自由に埋め直していく作業が出来る楽しみに変わる。映画は、作品と鑑賞者が余白で会話する。それがこの文章の冒頭に書いた、映画に酔う状態だ。
しかし、スクリーンが白色の大きな合わせ鏡になったように、映画の中のバスの座席も映画館の座席とそこに座っている人たちを眺めているかもしれない。『眠る虫』はコロナ禍以前に作られた作品である。そしてそれが上映される現在、実際には映画館の座席は座れない座席がある。日本社会の公式の規定では、すでに座席の間引きはしなくてもよく、映画館の任意となるが、座れない座席があることは、新しい生活様式の日常と言ってしまうことも出来る。
日本のコロナ第1波がおさまってからの映画館は、マスクや消毒の注意をしていればいいのではないかと思っても、公共の場に対する感覚は人それぞれ異なる。日本よりも海外はコロナ禍の状況が悪化し、死者も多い。社会的立場や生活環境、情報や個人の感覚により、コロナへの反応は人により異なる。コロナがみせる顔、コロナが社会に向ける顔が人によって違うのだろう。そして、コロナウィルスこそ『眠る虫』に出てくるような、人ではない、日常にあるモノである。世界中の誰もが、コロナとの関係をうまく取りたいと思っている。人でないものが、人の生と死を左右する。それに対抗するように、もしくは共存するように、人は物語を作ること、考えることをしながら、人でないものも含めて世界を捉え直す。その関係作りがうまくいけば安心し、うまくいかなければ不安になる。
しかし、この作品に表れている日常への視座は、現実を飛び越えて、現実が常にコロナ禍であることを忘れさせる。それがこの映画が持つ創作の強力な力であり、この映画を映画館でみる体験により、現実とはパラレルな存在の映画館の座席が、いつもの現実の地続きのどこか別の場所にあるような予感をさせる。