小宮太郎の個展「GOLDEN BOX」(FINCH ARTS 2019.10.26-11.10)は、視線の延長線上に不確かに存在する「他者」にまつわる展示だ。
目を塞ぐほど明るく光る白色灯が、空間を隔てている。手前から金色の小さな箱、垂直に立つ白色灯、その奥にはもう一つ金色の大きな箱がある。手前の金色の箱は、覗き込めるカメラ・オブスキュラになっている。小さな穴からは、スレッド状の白色灯、その逆光で暗くなった人の姿が不確かに確認できる。カメラ・オブスキュラ( camera obscura)はラテン語で「暗い部屋」の意味で、写真の原理による投影像を得る装置だ。また、写真機を『カメラ』と呼ぶのはカメラ・オブスクラに由来している。空間を隔てている白色灯の奥に、もう一つ穴の空いた金色の箱がある。手元にある箱より少しサイズが大きい。手元にあるカメラ・オブスキュラと奥にあるもう一つのカメラ・オブスキュラは向かい合っている。こちらが覗くと同様に、あちらもこちらを覗くことができるのかもしれない。
一方、この文章を打っている今、私の目の前にはノートパソコンがあり、手元にはスマートフォンがある。現行モデルのスマートフォンはほぼ全て、二台のカメラを搭載している。一つは背面に、もう一つは液晶面上部に、ちょうど操作している自分自身の顔と向かい合うように位置している。
しかし、身の回りのカメラはそれだけではない。今、私がいる図書館にはおそらく10台ほどのカメラが設置されていて、我々の行動を監視ないし一定の期間録画している。これはもちろん図書館に限ったことではなくありとあらゆる公共空間や一部の私有地に、設置されている。監視カメラは1970年代に導入され始め、それ以降防犯意識の向上と低価格化により一気に普及した。しかし、2014年ロシアのウェブサイト「insecam」で世界中のwebカメラ約73000台の映像を誰でも覗けることが発覚した。セキュリティの無い監視カメラには管理者だけでなく、世界中の人々がアクセスできるということだ。監視カメラの奥には、それを見る不特定の人の目がある。
ここでもう一つ。監視カメラの普及以前から、私たちの行動は不確かな他者が監視していた。道徳に反したり、倫理に悖る行動をしてしまった際、或いは善良な行いをはたらいた際、人は不確かな他者、或いは神が見ているという妄想をする。
話は展示に戻る。カメラ・オブスキュラは光を遮断し、壁にピンホールを開ける。それを覗いた視線は私物化され、外部の世界と切り離される。監視カメラで撮影されている映像は画面に収められ、見られている他者は見ている者を干渉することは不可能だ。スリット状の白色灯の奥にある「誰かの視線」とカメラ・オブスキュラを覗く「私の視線」。
展示室の壁には、数枚の写真のネガが並べてある。ネガは山の中や教室、トンネルや回転寿司の店内などに設置された、おそらく白色灯の奥にある金色の箱が、それ自体だけ切り取られてある。直方体が切り取られた写真の空白は「誰かが見ている」視線恐怖症のような不安と「誰かを見ている」窃視症のような動揺を起こさせる。
©KOMIYA Taro, Photo by MAETANI Kai, Courtesy of FINCH ARTS