Exhibition Review

2019.12.25

本山ゆかり 個展「称号のはなし」

本山ゆかり

FINCH ARTS

2019年12月20日(金) - 2020年1月19日(日)

レビュアー:長谷川新 (31) インディペンデント・キュレーター

何年前だったか、今をときめく新進気鋭の若手作家に「僕たちはもう”レイヤー”とかじゃないんですよ!(大意)」と言い放たれたことがあり、以来、「確かにその感覚の方があってるよなー」、と無意識のうちに「レイヤー」的に物事を理解しようとする思考の型をゆっくりと(あくまで自分のペースで)組み替えていこうと試みていた。だからというわけでもないのだけれど、本山のアクリル板絵画は自分にとって少々厄介な作品であった。面白い、かなり面白い、のだけれど、やはり「レイヤー」という語彙が頭をもたげる。念の為強調するが、それが悪いわけでは決してない。でもきっとそんな「レイヤー的理解」では本山の絵画を本当に見ていることにはならないのではないか、という気がする。これなら妥当性が高そうだ(絵を描く人たちにとっては自明のことを書いてることは察知している)。

2019年も年の瀬となり、実家への帰省の帰りにふらり立ち寄った「称号のはなし」は、筆者のそのような感覚を強く前に推し進めるものだった。2枚の色の異なる布を縫い合わせ(いくつかの色はStudiosないしPublic Tokyoの服の生地みたいなツヤのある落ち着いた発色で、またいくつかは隣り合っていてもあくまで自律しようとするようなビビッドな緑やピンク)、裏面に綿を忍ばせつつミシンで生花を描写したその作品は、それまでの本山のアクリル絵画を引き継ぎつつも、より一挙に、絵画をやっている。シワ、たわみ、歪み、膨らみ、左右非対称さ、そして何より任意の線が三次元空間に引かれてしまっていることそれ自体の歪さを、素直に肯定してくれている。ミシンで拙く引かれた細い線は周囲の布を巻き込み引き寄せてしまうことで自らを浅い奥行きへと転じさせ、レリーフのような凹凸を生みだしながら、結果的に、そのか細さにもかかわらず筆以上に大胆な描線へと変容している。

一定時間「絵画」を見ていると、弛緩した緊張感はハラハラと崩れ、細かい部分がどうも気になりだし、肯定されていたはずのシワ、たわみ、歪み、膨らみ、左右非対称さが絵画空間の外へと眼球から取り除かれていく。ちょっと触って傾きを調整したくなる。そしてレイヤー的な理解の枠組みが思考を固めにやってくる。考えるほど、シュポール/シュルファス、民衆芸術といった諸運動、歴史の厚みも合流しうることが理解される。布という素材、縫うという労働/制作の在り方と社会の間の相互作用も無視できない。けれどここで書いておきたいのは、本山の絵画は、「最深部」なる層めがけて錨を投げ下ろし安定した根拠に触れようとすることでもなく、表があり裏がある、という二重性に依るのでもない道行きを示唆しているということである。それはとても一時的なものかもしれないが、その道行きを経由した後の世界の方が美しいと確信できるくらいの。

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